聖省の影①
王都ヴァルディナの中心には、大聖堂よりも高くそびえる白い塔がある。
それが聖省本庁舎――王国最大の宗教組織の心臓部だ。
アマーリエはフードを脱ぎ、石造りの門をくぐった。
数年ぶりの訪問だったが、衛兵たちは彼女の顔を見てすぐに道を開けた。
それが、彼女の過去の重さを物語っていた。
レオンが小声で言う。
「すげぇな……門番が目も合わせねぇ」
「ここでは、“過去”の階段を登るほど、人は敬意よりも恐れられるの」
二人は無言のまま、螺旋階段を昇っていく。
その先にいるのが、灰の聖女を断罪した中心人物――聖省長官ユリウスだ。
豪奢な執務室に通されたアマーリエは、長机の奥で書を読んでいた老神官に丁寧に一礼した。
「ご無沙汰しております、長官」
ユリウスは顔を上げた。髭は雪のように白く、瞳には鋼の光があった。
「お前が戻るとは思わなかった。……だが、あの事件の後、お前がこの“影”に引き寄せられるのは当然かもしれんな」
彼は静かに言葉を重ねた。
「火刑の夜、お前が最後に聖女と交わした言葉――覚えているか?」
アマーリエは答えない。沈黙の中で、記憶の底からあの炎の色が浮かんでくる。
“この火は、お前を照らす。すべてを知ったそのときに。”
「……ええ。忘れたことは一度もありません」
ユリウスはうなずいた。
「ならば気をつけろ。あの女の言葉は“呪い”だ。お前の心を蝕み、やがて理を奪う」
そのとき、扉の外で騒ぎが起きた。
「長官!地下牢から囚人が消えました!」
その報せに、空気が凍る。
ユリウスは立ち上がり、命じた。
「閉じろ。すべての扉を。『あの書』に触れた者が再び歩き出したなら――もはや、神の加護では足りぬ」
地下牢は、聖省の塔の最下層――陽の光が一切届かない石の迷路だった。
レオンは松明を掲げながら、壁の苔を指でなぞる。
「ずいぶん古い。今どき牢にこんな演出、要るのかね」
「これは“見せる”ための牢よ。囚人よりも、裁く者たちの信仰心を強めるための舞台装置」
「ぞっとする話だな」
二人は消えた囚人の房に辿り着いた。
そこに残されていたのは、開かれた手錠と、壁に刻まれた血文字だった。
“私は火の中にいる”
アマーリエは、その言葉に背筋を凍らせた。
「これ……灰の聖女の象徴句よ。彼女の信奉者がここにいたの?」
「てことは、聖省はずっとそれを隠してたのか?」
そこへ、修道服の男が駆け込んでくる。
神殿付きの筆記官――かつてアマーリエの後輩だった、ノエルだ。
「アマーリエ先輩……!地下の禁書庫に侵入の痕跡が!」
「禁書庫……?」
アマーリエは眉をひそめる。そこには、火刑に処された者たちが遺した“証言の写本”が保管されている。
誰かがそれを読んだ――いや、“読み終えた”のだ。
レオンが言った。
「こうなっちゃ、もう“事件”じゃねえな。“運命”だ」
アマーリエは静かに言葉を継いだ。
「違うわ。これは、“再審”よ。十年前の火刑台で終わったはずの審問が、いま再び幕を開けた」