火の記憶①
風が吹き抜けるたびに、遠くの塔で吊鐘が鳴った。
甲冑のような灰色の雲が空を覆い、夜明け前の街を押し潰すように沈黙させていた。
アマーリエ・グレイスは黒いフードを深く被り、ひとつの屋敷の門を見上げていた。
その門は、つい昨日まで貴族の豪奢な暮らしを囲っていたが、今は衛兵と封印の札で閉ざされている。
理由は簡単だ。屋敷の主、アードラン公爵が寝室で毒を飲まされて死んだからだ。
「三人目ね。しかも、また“聖印”が刻まれていた」
彼女は小さく息を吐いた。
これはただの毒殺ではない。宗教的な意図を含んだ、見せしめだった。
後ろから、足音。
低く乾いた靴音が、石畳を叩いて近づいてくる。
「また火の匂いがするな。あんたのせいか?」
振り返るまでもなく、その声の主は分かっていた。
レオン・フェリクス。王の命で共に動く調査官、そして元・傭兵。
粗野で無礼、でも妙に勘が鋭い男だ。
「私が燃やしたのは過去だけよ」
アマーリエは皮肉を返しつつも、彼の隣に歩を進めた。
彼女は、神殿の書記官としての経歴を持っている。
異端審問の文書を管理し、聖典の解釈を記す立場だった。
――あの日までは。
「遺体は奥の書斎。顔が黒く変色していたそうだ」
「毒は……?」
「王の薬師が“カラスの杯”だと。苦しみながらも一時間生きていたらしい」
「一時間も、聖書の前で?」
アマーリエの目が細くなる。
公爵は死の直前、『正典書』を手にしていたという。
そして、ページの端には火で焼けたような痕があり、“灰の聖女に贖罪を”という文字が墨で書き加えられていた。
それは、異端審問で火刑にされた女性預言者の名だ。
十年前に死んだはずの、“灰の聖女”が再び世に出ようとしている――。
屋敷の中は異様な静けさだった。壁には高価な絵画、天井には金の燭台が吊るされているが、まるで死者の棺の中のような空気だ。
アマーリエは足音を忍ばせて書斎へと入る。
厚い絨毯の上に転がるグラス。机の上には古い聖典が開かれており、黒ずんだ指跡がページに残っていた。
「聖書は……これは『血の契約書』。旧約の中でも、今は禁止されてる章だわ」
彼女は指で慎重に文字をなぞる。
“罪人に天罰を。異端に火を。贖いは灰に還れ。”
それは、まさに灰の聖女の教義だった。
彼女は十年前、火刑の前夜に一冊の手記を残したと言われている。だが、その内容は表に出ることなく、聖省の手で封印されたはずだった。
「なあ、これ見ろよ」
レオンの声に顔を上げると、彼は机の裏から何かを取り出していた。
それは、焦げた皮袋。中には黒い粉末と、白銀のペンダント。
「毒の入れ物か?」
「いや、それだけじゃない。この粉……焚くと、幻覚を見る種類だ。修道院でよく使われてた」
アマーリエの眉が動いた。
“幻覚”――それは、預言を見たとされる灰の聖女が使っていたものと同じだった。
「まるで、聖女が戻ってきたみたいね」
「戻ってきたんじゃない。誰かが“蘇らせようとしてる”んだろ」
彼の言葉に、アマーリエは少し黙ったままうなずいた。
かつて灰の聖女の審問に立ち会った神官たちは、次々に不審な死を遂げている。
その中には、アマーリエの育ての親――マリエル修道女も含まれていた。
「これは、あの人の……」
ペンダントを握るアマーリエの指が、わずかに震えていた。
レオンは何も言わず、窓の外を見ていた。外は、夜明けの光がかすかに差し始めていた。