第七話
琴羽は子供の頃の記憶を思い出していた。確か学校で平和教育があり、教師が戦争のきっかけは全部一神教のせいだと言った。
この事で琴羽は虐められるようになった。とくにクラスのリーダー格の男子から「愛とか言ってるのに、戦争起こしているキリスト教ってなんですかー?」とか「イエス・キリストは架空のキャラだから」などなど毎日のように攻撃を受けるようになった。
確かに歴史を振り返ると、キリスト教が戦争に関わっていた事実は多い。魔女狩りもした。差別もあった。日本でも宣教師が日本人を奴隷にしていたという歴史的説もある。
ただ、現代のキリスト教が今も同じ事をしているかといえば、そうでもない。福祉や教育、貧困者の支援などキリスト教でも明るい側面はある。また、琴羽のような一般人のクリスチャンに戦争を起こせるほどの権威もあるわけがない。
「むかつく! ノンクリのクソガキのくせに、歴史のこと持ち出して私を虐めてくるとか。何よりイエス様の事も悪く言うとか。イエス様は戦争なんて一回も起こしてないじゃん。聖書読んでよ」
子供だった琴羽はこれに怒り散らし、母に愚痴をこぼしていた。
「ねえ、お母さんもいじめっ子むかつくでしょ?」
「気に入らないね、琴羽」
「え?」
「あんたのその寝ぼけた態度が気に食わない」
まさか母は味方になってくれなかった。むしろ、いじめっ子に恨み言をこぼす琴羽を叱ってきた。
「ノンクリのガキはイエス様を知らない。つまり愛を知らない。私たちは神様の愛をもらえるのに、彼らはそれが無い。孤児みたいだ。実に可哀想な子供では無いかね? そこんとこどう思うんだ、琴羽」
母はここで泣き始めた。琴羽にではない。本気でいじめっ子達にあわれみ、同情しているようだった。その姿は側から見れば、かえって嫌味みたいで琴羽は絶句していた。
元々変わり者の母だ。敬虔な牧師夫人らしくなく、自由人。海外宣教もよく行っている。言葉遣いもどこか男っぽく、髪も短くし、見た目もあまり女性らしくない母だったが。
「琴羽、あんたは神様に愛されてる。その視点に立ちながら、このいじめ問題を自分で考えてみ? ほうら、聖書もある。ヒントは全部あるぞ」
母は聖書を琴羽に差し出し、去っていく。一人礼拝堂に残された琴羽。母が全く自分の思い通りのなってくれなく、悔しい。下唇を噛みながら、聖書をめくっていた。こんな時に限って「敵を愛しなさい」とか「人を裁くな」という聖書の言葉が目についてしまう。
それにエフェソ信徒の手紙六章十節。ここでは目に見える人間ではなく、その背後にいる悪魔や悪霊に立ち向かえとある。
「そうか。私、目の前のいじめっ子ばかり見ていた。問題なのはその背後にいる悪霊?」
「おお、琴羽。よくわかったね。そう、だからまずはノンクリのガキ達を祝福しよう」
母に報告すると、なぜか褒められ、二人で祝福の祈りをした。
正直、憎いいじめっ子の祝福を祈るなんて嫌だった。心はザワザワと違和感しかなかったが、神様はそれを命じている気もして、祈った後は琴羽も母も笑顔になっていた。
「そうだ。そしていじめっ子の背後にいる悪霊を縛ろう」
「え、お母さん。そんな事もできるの?」
「ものは試しだよ。一回、見てな?」
そして母は悪霊を縛る祈りをしていた。正直なところ、いじめっ子を目の前にもしていないのに、意味があるのだろうか。半信半疑だったが、母の言う通りにいじめっ子の背後に働いている悪霊を縛ってみた。もちろん、イエス・キリストの御名において。
すると、どうだろう。いじめっ子達の態度は相変わらずだったが、イライラもしないし、スルーできるようになった。まるでいじめっ子の攻撃から守ってくれる盾ができたみたい。目には見えなかったが、琴羽は神様に守られている安心感も持てていた。暴言を吐かれても笑顔だった。
結果、いじめっ子達はこんな琴羽を相手にしても面白くなかったらしい。いじめは自然に終わり、一ヶ月後、リーダー格のいじめっ子も引っ越していった。
「だから琴羽。人から攻撃を受けた時は、その人自身を見ない。その人は敵じゃない。祝福しよう。背後にいる悪霊を相手にするんだよ」
母はいじめ問題が収束した後も、よくそう言っていた。
そんな事を思い出していた。現在、琴羽はホテルのカウンター業務の副業中だった。伊織とも親しくなりながら、幻の女を探しているところだったが、今日は支配人の斉藤がいつも以上に不機嫌だった。客の要求が多く、業務も平均より忙しいからだろうが。
おかげで客が途切れると、琴羽や伊織にパワハラ三昧だった。
「早乙女、お前は履歴書の志望動機でこんな意識高い言葉書いてただろ! なんでテキパキ業務ができないんだよ? あ? キリスト教の礼拝で日曜日不可能とか、履歴書に書くって馬鹿にしてるんか?」
そして斉藤は、琴羽の履歴書を持ち出し、罵倒し始めた。なぜここでキリスト教とか礼拝という事も攻撃対象になっているのか。隣にいる伊織は首を傾げていたが、琴羽はその意味がわかる。
おそらく斉藤の背後にいる悪霊が言わせている事だろう。
「ええ、支配人。ご忠告ありがとうございます!」
琴羽は笑顔。背後にいる悪霊の仕業かと思うと全く怖くない。そろそろ斉藤の背後にいる悪霊のエクソシストをしても悪くないかと思った時だった。
翠がひょっこりと登場。さすがに客にパワハラシーンを見られ、斉藤も気まずいらしい。とっさに接客スマイルも作れていない。
「支配人、それは無いのでは?」
翠の言葉で斉藤も押し黙り、気まずい雰囲気だったが、今日は琴羽も上がって良いという。さすがに斉藤もパワハラの自覚があったのか、ペットボトルのコーヒーも奢ってきたが、DV男がよくやるような態度でドン引きだった。
こうして業務が早上がりになった後、ホテルの横の小道で翠と落ち合うが。
「支配人の本性ってあれ?」
翠は未だに斉藤のパワハラが信じられないらしい。
「そうね。おそらく多忙と過剰サービスで、悪霊にイタズラされてるんでしょう。支配人自体を恨んだり、攻撃するのは意味がないかもしれない」
「そうか……」
「忙しすぎるのも、悪霊の足場になるからね。だから神様は安息日を作ってくれたんじゃ無いのかなって思う。人間のために。ルールじゃなくて愛の想いで」
夜風がふき、翠の長めの前髪を揺らす。現在、幻の女については何もわかってはいないが、翠は目から鱗が落ちたような顔をしていた。ちなみに目から鱗が落ちるという言葉は、聖書が由来だったりするが。
「だったら琴羽さん。琴羽さんも派遣の仕事をしながらホテルで副業するの、多忙になって良くないんじゃないか?」
それは一理あった。元々エクソシストをしているだけあり、体力がある。疲労も感じにくく、メンタルも頑丈なタイプだったが、この忙しさは悪霊の足場になったとしても言い訳はできない。
「琴羽さん、シフト減らしなよ」
「できるかね?」
「客の俺がいる前で支配人に言えばいい」
「なるほど、いい作戦ね。でも、幻の女は? わかるもん?」
問題はそこだ。ふと、夜空を見上げると、丸い満月が出ていた。おかげで夜でも暗すぎない。
「伊織さんもいるし、大丈夫だろ。俺に任せろよ」
翠は自信満々だった。胸をドンと叩いているぐらいだった。
そんな翠を見ていたら、琴羽も気が抜けてきた。確かに今の自分は忙し過ぎた。斉藤にパワハラされるのも、琴羽側に足場があった可能性もある。
「わかった。ここは翠に任せるね」
「おお。任しとけ!」
翠は子供のように無邪気に笑っていた。邪気のない笑顔だ。会社ではイケメン御曹司と言われているのが信じられない程。




