第九話
デジャヴ。
この言葉が琴羽の頭からなかなか離れない。
あの後、教会の門の前で倒れている翠を父と家の中へ運び、医者を呼び、様子を確認。医者によると、異常もなく、精神的なものだろう、と。
エクソシストした日と全く同じだ。デジャヴとしか言いようがない。医者に帰って貰った後は、琴羽も父も口が重くなってしまう。
リビングのソファでスヤスヤと寝ている翠を見ながら、父と琴羽は二人してため息をついた。
これはどう見ても悪霊の仕業。一度追い出した悪霊が帰ってきた可能性が高い。というか、聖書と照らし合わせてもそうとしか思えない。
もっとも翠の健康状態は医者が必要なほどではないのにホッとはしたが、完全に安心はできない。
翠の体調不調を引き起こしているのが、てっきり姦淫がきっかけだと決めつけていたが、他に悪霊がつく足場があったのだろうか。
この足場は聖書でいう罪が発端になりやすい。もちろん、全部が全部そうではない。自分で気づき、神様に悔い改めた場合もその限りではないはず。
辞書的な罪の意味、聖書でいう罪の意味はだいぶ違うのも、厄介。例えば不倫や泥棒、殺人などは誰がどう見ても罪だ。辞書的にも聖書的にもそう。だが、心配、臆病、神を知らない、無視する事は、辞書的に罪でなくても、聖書的に罪とされる。故に悪霊の足場になる……。
こういった辞書とは違う意味の罪については、探るのは難しい。長年牧師をしている父、エクソシストをしている琴羽もそうだ。やはり、本人が神との関係性を作り、祈る事が一番望ましいが……。
「お父さん、これ、やっぱり悪霊帰ってきた?もう、どうしよう……」
リビングに琴羽の苦い声が響く。この展開には、父も黙ってしまう。
「何か、心当たりはないか? 翠くんについている悪霊について」
父の質問に、琴羽はもう一度考えてみる。本人の姦淫の罪については、あのエクソシストをした日に悔い改め、告白している。もちろん、罪の報酬を刈り取るケースもあるが、また同じような展開になるのは、わからない。
「とりあえず琴羽。ここは祈る時ではないか? 自分の力でこの謎を解けると思うかい?」
「う、それは無理……」
父の言う通りだ。今はこの謎の答えは見当がつかない。いくら考えてもわからない。努力でどうにもできない。
という事で、父と琴羽は寝ている翠の側で祈った。
不思議な事に祈っていると、さっきまでの不安な気持ちがすーっと引き、安心感すら生まれてくるぐらいだ。
それに目の前で倒れている翠を助けたい。純粋な気持ちも生まれた。
翠は別に好きな人物でもない。イケメンで姦淫の罪もたくさん作っていた存在だ。相容れない。悪人ではないが、好きな人ではない。
それでも、助けたいと思う。こんな翠でも、神様が愛しているから。感情的に翠は好きになれないが。その神様への気持ちだけは従う事ができる。愛そうと決意をすれば、どんな感情の波が襲っても大丈夫。そんな自信すら芽生えるほどだ。
聖書では愛は感情ではないという。むしろ、「愛そう」と決意する意思、約束を守る心が愛という。確かに感情的な愛はいつか冷めてしまうかもしれないが……。
こうして祈りが終わった。特にすぐ答えが出る雰囲気もなかったが、琴羽も父もすっかり落ち着いた。翠もよく眠り、その顔だけは穏やかそう。
「ただいまー!」
そんな少しホッとした雰囲気の時だった。兄の直哉が帰ってきた。
兄は普段、神学生として寮生活しているが、たまに我が家に帰ってくる。琴羽や父と違い、自由人タイプ。もう三十歳だが、髪も明るく染め、無精髭も。真面目で硬そうな神学生というイメージとは、正反対かもしれない。
「は? このイケメン、誰だ?」
兄は翠を見て目を丸くしていた。琴羽達は渋々、事情を全て話した。この状況で嘘を言っても仕方ない。
「なるほど、姦淫の悪霊か……」
自由人だが、兄もクリスチャンだ。少なくとも、将来牧師になり、この教会を目指す程には。翠の問題にも興味があり、しばらく一緒に考えてくれたが。
「あ、もしかして?」
兄は何か思い出したらしい。
「実は俺、ものすごい片思いされて、相手がメンヘラ化した時があったんだよね」
そういえば兄は、サブカル系の容姿なので、その手の女子に異様にモテる。ちょっとストーキングされていた事もあった。
「もしかしたら、誰か片思いの念でも送られてるんじゃ? スピリチュアル的には生霊ってやつだけど、聖書でいう悪霊と合体する可能性ってないか?」
兄の言葉を聞きながら、琴羽の頭は急速に回転していた。いわゆる片思いの念、重い感情をその本人ついている悪霊が食べたら?
悪霊は人間のマイナス感情を食べてパワーアップする。マイナス感情も、いわゆる聖書的な罪になってしまうから。聖書には「いつも喜んでいよう」という言葉もあった。一般的には全く罪でもない事も、こんな風に聖書的には罪となり、悪霊の足場になってしまう事は多々ある。
それに琴羽自身へのロッカーや手紙の嫌がらせ。翠に片思いしている女が、その想いを知らず知らずのうちに悪霊に吸われ、翠に送られてうる可能性は?
「ある!」
「十分考えられるぜ!」
その推理は父も兄も同意した。二人とも深く頷いている。この推理は琴羽も自信があった。自分の力ではない。祈りの答えのような気がしたから……。
ちょうどその瞬間、翠はうめき声をあげながら目を覚ます。兄と自己紹介を交わし、二人ともすぐ打ち解けていたが、問題はそこじゃない。
「翠さん、あなた、女性に思わせぶりする態度とってない?」
少々口調はキツくなってしまうが、翠の顔はさっと暗くなる。
「う、実は普通にしていても、女性に勘違いされる事多くて」
心当たりは多くありそう。ただ、本人は無だった。どの女か特定できるだろうか。
それでも琴羽もロッカーや手紙で被害も受けていた。会社の人間である可能性は高そう。
「会社で優しく笑顔で褒めた女性社員いる? 思い出せる? 別にあなたに口説く意図はなくても、相手が勝手に勘違いしそうな事はない?」
たぶん、これがこのエクソシストの鍵になるのだろう。ついつい琴羽の口調は強くなるが、お翠の顔色は真っ黒。目も泳いでいる。イラズラがバレた子供のようだが、もう答えは近いはず。
「そういえば言ったかも。経理部の花岡さんに、仕事頑張ってて偉いよねって」
その翠の言葉にあまり驚かない。薄々琴羽もそんなような気がしていたからか。
翠は罪な男だ。たぶん、本人は何の悪意もない。むしろ挨拶がわりだっただろうが、イケメンの御曹司に褒められ、誤解しない女は珍しいだろう。
「異性になんて塩対応ぐらいがちょいどいいいのでは? 特に翠くんのような目立つルックスでは」
父の忠告ももっともだ。翠は本当に叱られた子供のように落ち込み、下を向いていた。