島根県立古代出雲歴史博物館
島根県立古代出雲歴史博物館は、出雲大社まで来たのなら是非とも立ち寄ってほしい博物館でした。出雲大社に関係する情報はもちろんのこと、出雲国風土記からみる古代の人々の暮らしや、出雲で発掘された銅剣や銅鐸など様々な角度から出雲を感じれる博物館でした。出雲大社の創建を尋ねると、大国主が国譲りの際に天津神に所望した宮殿がはじまりになります。大国主は天津神に言いました。
「二人の息子が天津神に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げます。その代わり、私の住む所として、天津神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てて下さい」
現在の出雲大社の本殿は、1744年(延享元年)に建てられたもので、高さは8丈――およそ24mになります。神社としては破格の大きさになりますが、その前はどうだったのでしょうか。平安時代に源為憲が著した『口遊』という書物の中に次にような数え歌がありました。
――雲太、和二、京三。
これは当時の大型建造物の大きさを比較したものになります。「雲太」とは出雲大社の本殿のことでこれが第一位。続いて「和二」とは奈良の東大寺大仏殿になります。最後の「京三」は京都の御所のことでこれが第三位になります。参考までに、東大寺大仏殿は高さ15丈――およそ45mになるので、出雲大社はそれより大きいことになります。本居宣長によれば、平安時代の出雲大社の本殿は高さが16丈――約48mとされ、さらに神代の頃は32丈――なんと96mもの大きさであったと記されています。平安時代の16丈という大きさだけでも実在していないだけにその信憑性が疑われているのに、さすがに32丈はないだろう……と考えられてきました。
ところが、2000年(平成12年)に地下祭礼準備室の建設に伴い事前調査が行われます。その調査で、巨大な宇豆柱が発掘されました。宇豆柱とは社殿を支えるための柱のことで、発掘された柱の根元から直径約1.4mにもなる大木を3本束ねた状態で使用していたことが分かったのです。この柱を分析したところ、1248年(宝治2年)に造営された本殿である可能性が高いことが分かりました。1248年は鎌倉時代になります。平安時代に唄われた本殿の宇豆柱ではありませんが、この発掘は平安時代に唄われた高さ16丈の本殿の実在を確信させる手掛かりになりました。
博物館では、出土したこの宇豆柱を中央ロビーで見学することが出来ます。更に、このロビーから常設展に入ると、高さ16丈もあったとされる出雲大社のミニチュア模型を見ることが出来ました。ミニチュアといっても約48mの高さだったものを再現しているので、結構デカい。本物ではないけれど当時の出雲大社の様子を感じることが出来ました。
出雲で発掘される遺物で代表的なものに、銅剣、銅鐸があります。1984年から1985年に行われた荒神谷遺跡での発掘調査では、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土しました。一か所からこれほどに多くの銅剣が出土した例はこれまでになく、僕が訪問した時はそうした荒神谷遺跡に関する特別展が開催されていました。
荒神谷遺跡は、弥生時代の遺跡だと考えられています。弥生時代は、水田稲作の伝播と共に戦争が拡大した時代でもありました。卑弥呼が紹介されている魏志倭人伝においても倭国大乱との記述があり、水田稲作による富の拡大は食の供給量を増加させましたが、それに伴い富の奪い合いも発展したのです。なんとも皮肉なことです。ただ、荒神谷遺跡から出土された358本もの銅剣については、研究者の間では戦争の道具ではなく祭祀用だったと考えられています。弥生時代は青銅技術が広がりましたが、追いかけるようにして製鉄技術も大陸からやってきました。青銅の剣は、武器の強度として鉄の剣に敵いません。特に出雲は製鉄業がどの地域よりも発展した地域の一つでした。そうした出雲において、358本もの銅剣が製造され、まとめて埋納された意味とは何だったのでしょうか。
また、この荒神谷遺跡からは銅鐸も出土しています。銅鐸の出土数はサイトにより違いがあるのですが、島根県立埋蔵文化財センターがまとめた「銅鐸出土地名表」によると、2004年12月27日時点で577個もの銅鐸が確認されています。以下に国別の出土数の上位をご紹介します。
旧国名 合計
出雲 51
阿波 42
紀伊 42
近江 40
摂津 33
遠江 31
三河 29
銅鐸の文化は、一般的には機内が中心だと考えられていました。しかし、国別に見ていくと機内から遠く離れた出雲が出土数においてはトップになるのです。銅鐸の起源は中国と考えられているのですが、その使用方法については定かではありません。使用方法としては、鐘のように内部に舌を垂らしてその舌を揺らして音を鳴らしたと考えられています。銅剣にしろ銅鐸にしろ、弥生時代に象徴的な呪物になります。大和王権の勢力が拡大するとともに消えていきました。ということは、大国主が生きていた時代に広く使用されたのでしょう。弥生時代における出雲の存在の大きさが、そうした事例からも感じることが出来ます。
島根県立古代出雲歴史博物館は非常に内容の濃い博物館でした。以前に八岐大蛇から奥出雲の製鉄についてご紹介しましたが、そうした製鉄についても詳しく紹介されていました。3時間近く見学していましたが、あまりにも情報量が多すぎて頭の中がいっぱい。フラフラしながら博物館を後にすると、外は焼けるような暑さでした。今日はまだまだ予定があります。太陽で暑くなったシートに跨って、スーパーカブを走らせました。