神在月と神無月
野宿した次の朝というのは、僕の場合は酒が残っていることが多い。ところが、昨夜は飲めなかったので清々しい健康的な朝を迎えました。朝といってもまだ日は昇っていません。外は真っ暗です。テントの中でゴロゴロと惰眠を貪ろうとしましたが、でも寝れない。寝ていることそれ自体がだんだんと億劫になってきました。少し早いけれど、テントから抜け出すことにします。靴を履き、立ち上がりました。空に向かって手を伸ばします。
「う~ん」
完全に目が覚めました。朝の5時まえ。辺りはほんのりと明るくなり始めています。いつもであれば、湯を沸かしてラーメンを食べるのが僕のパターンでした。でも、なぜかお腹が空いていない。足元には、炭が燃え尽きた七輪があります。しゃがみこんで片づけ始めると、そのままテントやゴミもまとめてしまい、全ての荷物をパッキングしてしまいました。腰に手を当てて、海を眺めます。
――出発するか。
荷物を手に取り、スーパーカブの荷台に順番に載せていきました。ゴムひもで固定した後、周りに忘れ物がないかを確認します。昨日の日本酒の一件から、忘れものにとても敏感でした。相棒に跨り、鍵を差し込みます。キックペダルを踏みこみました。ブロローンとエンジンがうなり声をあげます。アクセルを回しました。山を背にしているので太陽は見えませんが、日の出とともに出発しました。
朝の爽やかな風を頬に感じながら、崖沿いの道を下っていきます。稲佐の浜にやってくると、弁天島が見えてきました。海岸線には駐車場が整備されていて、ちょっとした公園になっています。近くの公衆便所で用を足したあと、僕も浜に降りてみました。足を踏み入れると、砂浜に靴が沈み込みます。靴の中に砂が入ってきそうでした。朝が早いというのに、そんな砂浜で朝の散歩を楽しむ人がパッと見ただけでも十数人はいます。皆の視線は、海岸線に鎮座している弁天島に向けられていました。高さが20mほどあるゴツゴツとした大きな岩です。上の方に赤い鳥居と小さな社が見えました。登ってみたい……僕が子供だったら、そんな気にさせられる愛嬌のある岩です。
伝承では、旧暦の10月10日に全国の神々が出雲大社に集まり、縁結びの神議り(かみはかり)という会議が行われるとされています。その神々を迎える場所が、弁天島があるここ稲佐の浜でした。10月のことを「神無月」と言いますが、それは神々が出雲に集まる為に地元を留守にするからで、出雲においては「神在月」と言うそうです。出雲大社では、この時期に神在祭が行われてきました。
ただ、これは平安時代から始まった比較的新しい風習で、神々が出雲に集まるという由来はありません。そもそも神無月の「無」は、「の」の連体助詞「な」のことで、意味は「神の月」と読むのが正しい。つまり、神無月を「神が不在」と解釈するのは間違った解釈になるのです。その間違った解釈から捻りを利かせて「神在月」という言葉を誕生させたのは、漢字の使用が広まった平安時代の言葉遊びのようなものだったのでしょう。
僕は、そうした曲解を非難したいわけではありません。それよりも、人間の想像力はとても面白いと思うのです。以前から人類の認知革命について言葉を重ねてきました。この「神在月」の誕生も、認知革命の為せる業になります。神様が出雲に集まってきた様子を、まるで見てきたかのように物語にしてしまい、皆で同じ物語を共有しあう。その事によりコミュニティーが生まれ、文化が生まれ、伝承として後世まで残されてきました。
コテンラジオの深井さんは、このような認識パターンを「ストーリー理解」と呼んでいました。何かしらの現象の背景には、様々な要因が複雑に絡み合っています。太陽が昇る現象一つとっても、本来は昇っているわけではありません。科学的には自転と公転という星の軌道を理解する必要があります。しかし古代の日本では、太陽を天照大神という人格のある神様に仕立て上げ物語として認識してきました。そうした認識の集大成として神話が誕生したと思うのです。そこに科学的なまた論理的な根拠はないけれど、単純化した物語の方が一般大衆は理解しやすい。原始的な宗教の発展には、いや新興宗教にしても、この「ストーリー理解」という魔法が重要だったと思うのです。
少し脱線するのですがこの世界を認識する方法として、神話のように神から論ずる方法を演繹法といい、大量のデータの差分から推論する方法を帰納法と言います。現代の科学は帰納法によって発展してきました。現代の科学技術を見ると、一見すると演繹法よりも帰納法の方が優れているように見えます。ところが科学者であるアインシュタインは、次のような言葉を残していました。
――時計の針は読めるけれど、時計の裏側は分からない。
帰納法的な科学的認識は、この世界を理解するための解像度を上げました。しかし、それは時計の読み方がより正確になっただけで、この世界がなぜ存在しているのかという根本的な問題には関与していません。そもそも帰納法的なアプローチは観察だからです。対して演繹的なアプローチは、その根源を「神」としました。神とは時計の裏側の存在になります。正しいのか真実なのかということは、ここでは問いません。ただ、神々の物語は人生の示唆に富んでおり、信じる人々に人生観や哲学をもたらしました。アインシュタインは、科学者でありながら、信仰者でもあります。さらに彼の言葉を紹介します。
――信仰のない科学は不完全だ。科学のない信仰は盲目だ。
個人的には、宗教と科学は車の両輪のようなものだと、僕は考えています。この世界を認識するためのアプローチの違い。ここ出雲においては、出雲の神話と共に人々は生活をしてきました。古代の人々が、この世界をどのように見ていたのかを僕は感じてみたい。海を見ながらしばらく稲佐の浜でゆっくりしていました。出雲の中心地である出雲大社はすぐ隣です。腰を上げて、駐車場に止めてあるスーパーカブのところに向かいました。