出雲玉作資料館
大阪城から少し南に、JR環状線の玉造駅があります。子供の頃に、「変わった名前の駅だな」と思ったりしたのですが、この玉造という名前の由来は古墳時代にまで遡ります。玉造とは字義の通り「玉を作る」という意味でして、玉を専門に作る玉作部が大和王権によって組織された場所がこの「玉造」だったのです。ところで、「玉」とは何でしょうか。
中国において「玉」とは、おもに「翡翠」のことをさしました。深緑の半透明な鉱物で硬度 6.5~7度と非常に硬い。日本では新潟県糸魚川で採取することが出来ます。そのとても硬い翡翠を加工して、勾玉や管玉を作ることを「玉作」と言いました。玉作の材料としては他に碧玉や緑色凝灰岩もあります。
大和王権が、わざわざ玉作部を組織してまで作らせた「玉」の歴史はとても古い。世界最古の加工された翡翠は糸魚川で採取されたもので、翡翠の加工はおよそ7000年前から始まったと考えられています。7000年前と言えば西アジアでは酪農や麦の栽培が始まった頃であり、ヒエラルキー的な社会を構成する文明はまだ誕生していません。有名なシュメール文明の誕生ですら5500年前なのです。日本においては、約7300年前に鬼界カルデラの大噴火がありました。九州だけでなく西日本の大部分が壊滅的な被害を受けます。以前にご紹介した福井県の年縞博物館によれば、鬼界カルデラの大噴火の影響により1000km以上も離れた水月湖に火山灰が数センチも堆積しました。これ以降、縄文時代は東日本で大きく発展していくことになります。
縄文時代からせっせと作られた「玉」の代表格は勾玉になります。玉に尻尾が生えたような形状……見たことありますよね。あの形状には諸説あります。代表的なものを以下にご紹介します。
・動物の牙で作った牙玉を基とする説
・胎児の形を模したとする説
・魂の姿を象ったとする説
・月の形を模したとする説
今となってはなぜあの形が尊ばれたのかは分かりませんが、5000年後に大和王権が誕生してもなお、勾玉は作り続けられました。装飾品としての価値だけではなく信仰的な意味合いが強かったと考えます。当時の人々は、勾玉にどのような想いを寄せたのでしょうか。とても気になります。
「玉」で有名なものに「管玉」もあります。石を細いストローのように加工しました。管玉は、首飾りを作る時に勾玉と一緒に紐に通します。細長いビーズの様なものと考えても差し支えないでしょう。勾玉のようにその形状が考察されるようなことはありません。「玉」ではありますが、勾玉の引き立て役的な存在でした。ただ、その加工技術については今もなお良く分かっていません。
管玉を見られた方は分かると思うのですが、案外と小さくて細い。その細い石の棒にストローのように穴が開けられているのです。現代であれば、先端にダイヤモンドをあしらったドリルでも用意すれば簡単に穴を開けることが出来るかもしれません。でも、縄文時代は鉄すらもないのです。どのように開けたのでしょか。石の針を使った……という説明がありましたが、なんだかポキッと折れてしまいそうです。僕が読んだ本では、細い木の棒を使ったと解説していました。石に穴を開けるのに木の棒では頼りなさげに感じられますが、その接触する部分に研磨剤を使用したようです。理屈的には分かりますが、それでも一つの管玉を作るのに大変な労力と時間が必要だったことでしょう。
そうした玉作に関する博物館が出雲にありました。「出雲玉造資料館」になります。なんでも玉作だけの博物館は日本でもここだけだそうです。出雲は鉄の生産地として古代から有名でしたが、玉作に関しても中心的な生産地でした。その理由の一つとして、出雲の立地が日本海沿岸にあることがあげられます。
翡翠の産出地は糸魚川に限定されますが、碧玉に関しては本州の日本海側に広く分布していました。そうした「玉」を運搬するとき船が使われます。縄文時代の頃から、日本海側は物流の航路として重要な役割を担っていました。運搬されるのは「玉」だけではありません。矢じりやナイフとして重宝された黒曜石なんかも運ばれていたはずです。黒曜石の主産地は北海道や長野県になります。
そのように運搬された荷物の集積地として出雲は発展しました。また、その物流は日本国内に限りません。大陸からの表玄関としても出雲は発展するのです。古代の船は帆がありません。丸木舟がバージョンアップした程度の原始的な船でした。朝鮮半島を出港した船は海流に流されると、自然と出雲に到着するのです。大陸との交易にとても都合がよい立地でした。そのうえ船を寄港させるのに都合がよい内海まであるのです。
余談ながら、日本の「玉」は大陸との交易で大変重宝されました。この玉を手に入れるために朝鮮半島から運び込まれたのが鉄の原料になります。製鉄技術は大陸から日本に移入されましたが、当時はその鉄を採取する方法が日本にはありませんでした。継体天皇をはじめ大和王権が朝鮮半島の南にある任那を重要視したのも、朝鮮半島の南に鉄の鉱山があったからです。武器や優秀な農具として重宝される鉄を手に入れるために「玉作」の生産を拡大させた出雲は、当時としては非常に先見の目がある貿易国家だったと考えられます。
今回、出雲にやってきたことで、天津国が出雲に「国譲り」を迫った理由が理解できたような気がします。水田稲作や製鉄、そうした大陸由来の最先端の技術をいち早く取り入れることが出来た立地と共に、縄文時代からある玉作の技術を対価にして大陸と交易するという商売センス。当時の日本において、最も進んだ国家だったのでしょう。出雲は、国譲りの後も大和王権に対して大きな影響力を持ち続けます。一説には、蘇我氏の出自は出雲だったとの考察がありました。「ソガ」は「スサ」に通じており、「スサ」とは須佐之男命だというのです。もうそうであれば、蘇我氏が大王家と姻戚関係を構築できたことも理解できます。蘇我の「蘇」は蘇るという意味になります。そんなことを考えると、妄想が止まりません。
出雲玉作資料館を後にした僕は、大根島に向かいました。大根島とは宍道湖の東隣にある中海に浮かんでいる小さな島になります。その島に「中村元記念館」があるのです。是非とも行ってみたい博物館でした。
 




