研究
ハトが舞う、どこまでも遠くへ、大群が空を彩る柔らかな飛行船のよう。蒼に飲まれて消えて行くまで彼らは必死に飛び回って生きるのだろう。人の目では負えないところへ行ってしまってもきっとそこで一日を生きるために命の絞り汁を一滴残さず絞っては飲み干すような生き様を続けるのだろう。
里香の意識はハトが羽ばたく音で現実を見定めていた。先ほどまでいた場所に手を振って次へと進む。彼女は駆け出した。コンクリートの地面を叩くように、聞き心地のいいリズムを刻んで鳴らし進み続ける。
――楓の所に……行かなくちゃ
想いはこれまで見てきたどの色よりもはっきりしていてこれまで触れてきたどのような物よりも固い。
里香の心の中で何度も巡って回って唱えられ、繰り返す度にそれひとつに意志を纏め上げられる。
絵海が苦しみながらも作ってくれたこの状況を手放すわけには行かなかった。そう、里香は絵海の手によって自らの願いでここまで来たのだ。
☆
思い返される記憶はひとりの物、あくまでも里香の見てきた世界。この日、里香は楓と公園で待ち合わせをしていた。ベッドタウンとは言われるものの、所詮は田舎の中での待ち合わせ。特に大した都会へと出るつもりもなくて、日本の中に在る異国へと足を踏み出す勇気などそこに無かった。
そんな田舎でも時間は平等に流れるのみ。里香の左腕に巻かれた時計の示す時間、それを覗き込むことで里香は既に普通ではないということに気が付いた。
「楓、遅いなあ」
口では軽々と言ってはみたものの、里香の内側では濃度が高くてドロッとした得体の知れないものが延々と流れる。あまりの粘り気と流れる遅さに心地悪さは膨らんで止まることを知らない。
「楓の家に行ってみよう」
これは既にただ事ではなかった。楓が予定に遅れることなどそうそう見たことがない。ましてや里香との約束。楓にとっては宝物のように輝かしくて代えの効かない大切な彼女との待ち合わせ。それに遅れる時点であまりにもおかしいことなのだと里香は心の中で繰り返す。歩みを刻む度に、楓の家に近付いて行く度に、想いは強く深くなる一方だった。一直線、向きを変えることを知らないその想いは里香に得体の知れない息苦しさをもたらした。
予感が蔓延る。草木に隠れていた不穏が飛び出して、平穏は川の中に潜って出てこない。得体の知れない不安、根拠など何ひとつ無かったものの不安はどれだけ拭っても消え去ることはなく、気持ちを拭い去ろうとする心が濡れ切って拭くほどに気持ちを広げて汚し続けるばかり。楓に出会うまでは救いようがなければ救われようもない。無力な自分に少しでもチカラを。そう思いつつ決して届くことのない強さを見つめながら、陰しか見当たらない輝きを目指して進んで行った。
そうして家はもうすぐ近く、もう少し進めば家に到着といったところでの出来事だった。それはのどかな住居の生活が流れる空間に響くにはあまりにも刺々しすぎる悲鳴だった。
「香に手出したら許さ」
そこから響く音は平和を壊すようにこの場所、大好きな人が住まう家を打ち壊した。
「残念だけど依頼だから、被験体里香は絶対に回収する、楓も消し去る、いいね」
ボロボロに崩れる家、大人ふたりが出てこようとするものの、それを塞ぐように木材のぼろきれと成り果てた木が落ちて行った。コンクリートが命という季節の終焉を飾る雪となって降り注いでいた。
ケタケタと趣味の悪い笑い声をまき散らしながら先ほどの声よりも低く潰れたものが響いてきた。
「やりすぎでしょ、バレたらどうするの」
「それはもう能力が暴走して自滅してたって言うだけ」
相手はふたりだろうか。楽しそうに語り合うその様は明らかに正気ではなかった。澄み切った空にガラガラとしていながらも綺麗さを保ったまさに削れたガラスを思わせる声で重ねて口にした。
「大丈夫、死人に口なし目もなし耳もなし。濡れた衣を死装束にするし、今の有り様は見てないしどんな言葉も聞いてない」
超常現象こそが完全犯罪を作り上げる、そう言いたいのだろうか。能力の暴走、全てを知っている里香でなければ言葉にして覆すことは出来ず、超能力が絡む裁判など法廷も撥ね退けてしまうに違いない。
里香はこの状況を飲み込むと共に新たな問題を形にされる前に目の当たりにしていた。言葉という不確実な物を真実として飲み込んでいた。
――私、捕まっちゃう
声にすることも出来ず、ただ駆ける。見つかってしまえば全てが終わり。楓の掴んだ情報によれば里香は何かの実験を受けていたらしい。きっとネクロスリップに関わる実験、つまりそれをより深く理解する刺客。もしかすると捕まってしまえば次は無いかも知れない。
静寂の空気を踏み割って日差しにヒビを入れて歪なガラス玉へと仕立てながら進み続ける。このままでは悲劇で全てが確定してしまう。もしもそうでなくてもきっといい結末は迎えることは出来ない。ヒビだらけのガラス玉とは果たして何のことだろう。空などではなくて里香自身なのかも知れない。そう思うだけでも心に墨色の重みがかかって来る。
里香の沈み切った心などお構いなしに朝の空は優しく爽やかな顔をする。蒼に散らされた輝きはどこまでも憎たらしくありつつも今日の天の気分に感謝もしていた。きっとあの場所にあのヒトはいるだろう。進み続けて少しの時が風になって通り抜けて、里香とすれ違い続ける。
やがて目的の場所へとたどり着いた。住宅が並ぶ街の中でそこは車道という境界線によって切り取られた世界、だだっ広い公園。緑色の海、草原のみなもに足を踏み入れて。
そこで見た姿に驚きを隠すことが出来なかった。
相変わらずサイズの合わないピンクの服を着こなしていた。右肩が露わになっていて右手は隠されていて、脚にもこの前と変わりのないソックスが、左右で長さの異なる水色と白の縞模様が纏わりついていて、彼女はそうした衣類をこの上なくだらしなく着こなしていた。
そんな彼女、真砂 絵海は子どもたちに囲まれて大空に煌めく太陽にも負けない笑顔を浮かべていた。敵だとか一生近付きたくないだとか薄暗い言葉を抱えて湿った色を持っていた里香としては近寄りがたい雰囲気でしかないという状況に見えない壁を感じていた。
絵海は子どもたちに駄菓子を与えながら微笑んで、右側に伸ばしっ放しにしている髪を一度掻き上げていた。子どもたちは目を見開いて青空に混ざる明るい茶髪、山ぶどうの蔓を思わせる細いそれに目を惹き付けられていた。
「みんな可愛いねえ。私は昔可愛くない子どもだったからさ、思い出すだけで苦しくなっちゃう」
「お姉さんすっげーカッコいいし可愛いのに?」
明るい顔に真っ直ぐな言葉、それを受け止めて引き攣る口を柔らかな笑みで隠した貌とありがとうのひと言を髪に混ぜてなびかせ贈って見せた。そんなひとつひとつの思い出さえも彼女の中ではずっと鮮明に残っているものだろうか。
「俺の中ではお姉さんが一番だよ」
「ありがとう」
その顔が浮かべた喜びは淡い薄桃色でこの空に溶けて絡められそれでもそこに在り続ける。そうした新鮮味を永遠に保つことが出来る、それこそが彼女の脳なのだろう。
いつまでも眺めている余裕はない、その幸せを断ち切る時が来てしまった。心に鉄線を巻きつけて、割り切りの気持ちを身に着けて、彼女の領域への一歩を踏み出す。
一歩進んだ途端、次の一歩が軽くなる。罪悪感など初めからなかったかのようにふわりとした触感で外へと出て行った。
やがて子どもと向き合う絵海に鋭い視線を向けながら、注目を奪うように言葉を投げつける。
「あのさあ、訊きたいことあるんだけど」
言葉は当然のように彼女の領域を揺るがして無事に振り向かせる。絵海をこれから利用する、ただそれだけの話。
「用でもできたの、さあどうぞ」
絵海の表情は引き締められ、子どもの手を放して立ち上がった。真剣な態度だけを窺い里香は質問を口にし始めた。
「今日、異能力の研究機関が楓を殺したの、私のことも捕まえるって」
絵海の目は見開かれた。ことは進み始めているのだと理解するまでに一秒たりとも必要としなかった。
「そう、遂に動き出した。真実に寄り始めるまでは泳がせておくつもりだったのだろうね」
吐き捨てるような投げやりな声を地に向かって放り、目も草原へと向けられた。草木が吸い込む感情はいつまで経っても失われることなく次から次へと注がれて、何処かの緑を枯らして行く。誰にも気づかれない枯れ果てた緑はいつまでもそのままで鮮明なままに焼き付いていた。
「避けようにも手遅れか……これから楓に会ってもらうしかないな。私も向かうから」
「あの、右手見せてもらっていいかな」
里香の頭の中にて飛び跳ね続ける寒気を纏った想いは秋の気温のものとはまた異なった奇妙な肌触りを蔓延らせていた。鳥肌がぞわぞわと這い回り、危機感が必要以上に叫び散らしていた。そう、先ほどの言葉は過去に右手に隠していた、その長い袖の中に隠し通した過去を想わせてそれが重くのしかかって来るものだ。
絵海は男の子の方へと視線を移し、彼の顔を横目で覗き込みながら相変わらずの枯れ声にどうにか優しさを込めながら問いを持ち込んだ。
「ああ、いいかな」
「うん」
単純な言葉と共にゆっくりと袖は捲られていく。少しずつ、袖の動きに視線を誘導するかのような速度で。動きに合わせる目が得も言われぬ感情をかってに拾い上げては混沌の波を広げて行く。ひとつひとつの動きが心臓に悪い。それが正直な感想だった。
やがて動きが止まる。ピンクの優しいざわめき、布がズレ動く音は一瞬だけ静寂に掻き消され、そこから一気に白い肌を晒した。
そこに握られていたのは小さな穴の開いた金属、ビンジュースやビールの栓を抜くための見慣れた道具、更に奥、手首には桜色のリボンを思わせる紐が巻きつけられていた。
「毎週かわいい子どもたちにビンジュースと駄菓子を配ってるのさ」
里香としては手首に留まる桜色の蝶の存在の方が気になっていた。果たしてそれは何を目的として結び付けられているのだろうか。心なしかリボンよりも固く見えるそれに好奇心を引き離すことが出来ずにいた。
「お姉さんによく似合ってる」
「ありがとう。お姉さんはそこのかわいい子ちゃんとお話ししてくるから他の子と遊んでらっしゃい」
言葉の受け取り手は実に素直だった。不満を露わにした表情を浴びせながら大きく頷いて走り去る。小さな身体が遠くへと消えて行く姿を見送って里香は話を紡ごうとした、その時のことだった。
「お迎えに上がりました、被験体里香及び被験体絵海」
告げる声はふたりのどちらのものでもなく、ふたり共に目を見開きながら声の根元へと顔を向ける。そこに立つふたりの女はきっと楓を殺した人物なのだろう。憎い相手、それでもなお話さなければならないということ。目の前の邪悪を己の殺意と共に空想内で踏み潰し捻りあげながら冷静を装ってみせた。
「いったい何の用ですか」
楓が死したことを知っていると悟らせない。相手に何ひとつ情報を与えない。知っていることを知られては次の周まで不利を引き摺ってしまうかも知れない。楓の話によれば里香のことを実験台としてよく知る人物、能力も筒抜けでおまけに記憶まで知られてしまっているかも知れないという。
記憶を知られてしまうのならば意味を成さないだろう。しかしながら試してみたいこともあった。どのみちこの人生には一度大きく手を振るのだ。全ての記憶を、想ったこと考えたこと、感じたことから無意識の全て迄が残されてしまうのだろうか。絵海の記憶能力と同じレベルで残されるのか、機械ひとつにそこまでの精度があるのか、絵海の能力が天性のものなのか全てが実験の成果物なのか、適合率に個人差があるのだろうか。疑問の水を溜めた井戸は枯れるということを知らなかった。同じ者だけでいつまでも潤い続けていた。
目の前に立つ女は光をも吸い込む黒いスーツ姿をしていた。そんな固い装いに表情ひとつ動かさないその顔の固まり具合い。それだけで闇の浅瀬にまで気付かぬ間に足を踏み入れてしまっているものだと気付かされた。
「先ほど申し上げた通り、あなた方をお迎えに上がりました」
腕を無理やりつかんでは無理やり引っ張り無理に連れ出す。確実に迎えに上がるという対応ではない。拘束までしてしまおうといった対応だった。
里香の手は振り上げられて暴れ始める。これ以上は許してはならない。このままでは死に損なってしまう。やり直しが効かなくなってしまう前にどうにか現実から、現在から目を背ける手段を作り上げなければ。その一心で女の手を振りほどいて逃げる。絵海もそれに倣い女の身体を押し退けて共に逃げ、群衆の隙間へと入り込み駆けて紛れて。
「里香、トイレに行こう」
どういった経緯だろうか、思考の中を読み取ることも叶わずに里香の思考は迷宮へと入り込んでは進むことなく埋もれ行く。彼女の目を見つめてひとつだけ確信を持った。考えは分からないが、理解は霧に隠れて霧散してしまってはいるものの、彼女の瞳には迷いの曇り空ひとつかかっていないということだけははっきりと見て取った。
やがて連れられたそこは小さく纏まったレンガ造りの薄汚れた建物。当時は草木生い茂る美しい景色の中のひとつの幻想としてデザインされたものだったのだろう。美しさの幻影は重い影を引いて経年によってつけられた汚れと使用目的のふたつによって洒落のひとつも残さないトイレ。個室が男女それぞれたったのひとつずつのそこへ、ふたり揃って女性トイレに入り込み、ドアを閉める。そこから流れるように絵海は里香の頭を床に押さえつけながら手首に巻きつけていた桜色の紐をほどいて首に巻きつける。
咄嗟のことで首を締められるまでもなく息が詰まる。そこに殺意の込められた紐が迫って意識を命を奪い取って見せようと必死になる姿。深刻な表情を浮かべる絵海の顔をかすれた視界で眺めては感情のひとつも浮かべる余裕がないのだと悟って事実だけを見つめながら影が差し込む視界にいつまでも身を馳せて、やがて訪れる死を否応なしに受け入れるだけだった。
☆
里香の目は時間など見ていなかった。その目が見据えているのはただ未来ひとつ。助けなければならない命があるということ。それを胸に焼き付けて進み続ける。このままでは大切な人が、楓が死んでしまう、権力や財力という鎖の紐が伸びる首輪をつけられた女どもの手によって殺されてしまう。
避けなければならない事態はすぐそこへと迫っていた。きっと約束の時間に楓が来ていないということに気が付いたであろう今、ここの里香は既に楓の家の前へと迫っていた。
ドアが開かれた木とコンクリートで組み立てられた家の口から半分だけ外へと踏み出した少女が目にした景色とはどのようなものだろう。里香の脳裏にはスーツ姿の女がふたり立っているあの光景が、公園という景色に不釣り合いなあの姿がこの住宅地でも似合わぬ姿のままそこにいるという捻りもない光景が浮かんでいた。
「だから何の用なんだ」
「私たちは被験体里香の保護に参りました」
「あなたにもご協力願いたい」
その会話の流れを視て里香は納得した。きっとこれから楓断るつもりだろう。それが原因であのようなことが起こってしまう。これから始まるのは破滅への道のりの進行だった。
「悪いが助けになんかなれない」
分厚いくまが刻み込まれた目元は目が伏せられると共にその存在感を増して行った。きっとこれからこの小さな少女は殺されてしまう。里香は辺りを見回して絵海の到着がまだなのだと知りつつも、確認しながらも動き出す足を止めることが出来なかった。
「そう、それはとても残念。渡してくださるのであればこの前並行世界へと侵入なさったことに関しまして目をつぶろうと思っていたのですけど」
続きなど確認するまでもなかった。足を踏み出して、わざとらしい足音を立てながら里香は歩み寄る。しっかりと背筋を伸ばし堂々と歩くという佇まいに不機嫌によって固められた表情。それは何処までも真っ直ぐで駆け引きのひとつも感じさせない。
「私ならここにいるわ」
覚悟を決めた顔は全てを諦めた顔にでも見えたのだろうか。女は振り返って仰け反って、目を白黒させていた。
「楓のことは殺さないで。私を連れだしていいから」
「里香」
きっと納得いかないのだろう。そんな感情を露わにする楓の目を覗き込みながら里香は微笑んで見せた。
「大丈夫。全部うまく回るから。誰も死なないから」
この言葉のどこに信用性があるものだろうか。考えなしに言っているようにしか見えなかった。
――ここで楓に戦わせるわけには行かない
万全の全力で七分間。ここで能力を使って更に閉じた場合、一瞬が数十秒分の疲れにばけるだろう。それだけはどうしても避けたかった。
「でも里香を引き渡すわけには」
里香は顔を傾けて遠いカーブミラーに視界を合わせて、輝かしい未来がすぐそこに来ていることを悟った。
「いいよ、ほら、行って」
わざとらしく張り上げた声は空気中に希薄な気迫を運んで行く。声の柔らかさがあまり強さを見せてはくれない。それでも糸は伝わっただろう。
里香を掴もうとした左側の少女が突然何かに押し飛ばされて地に伏した。
「何とか間に合った」
肩で息をしながらそこに立つ少女、左側の髪を三つ編みにして後ろで留めて右側は伸ばしっ放しという奇抜なセンスを持った少女、真砂 絵海は地に伏した少女の脇に腕を回して捻りあげる。
「ふたりでもう片方は頼む」
未だ来ていない時の記憶を持つ少女の声を受け、最悪の未来を過去に見た少女を掴む女に対して何も知らぬ少女は思い切り突撃した。
「異能なんて使うまでもないね」
そう、今この場でチカラを扱う必要などない。楓の体当たりに合わせて里香もまた、同じ方向に相手を圧し込む。
そうしてふたりの敵を捕まえ、楓は家から持ってきたガムテープで手足を縛り上げ、訊ねた。
「誰からの依頼だ」
女はケタケタ笑いながらも今という場を悟って降参の意を言葉に変える。
「研究機関のほうだよ、ほら、向こうの商店街でいかにも発電所ですってツラしてるところ」
そこまで言われてようやく理解を得た。里香の顔を見つめると完全な疑問を浮かべている様子でどこまでも微笑ましい空気を出していた。
「えっ、発電所。あそこ違うの、嘘でしょ」
あまりにも和やかな雰囲気が花びらとなって散っていく。薄い和みが今の彼女らの癒しだった。
「研究所らしいね」
「里香は可愛いな」
楓と絵海のふたりで研究所の遣いの女たちの脚を自由にしつつも離さない。
「しっかしよくここまでうまい立ち回りを……もしかして里香、一回死んだのか」
「そうそう、この前は私がぼーっとしてたせいでね、ここまで来た時には楓死んでたの」
それから煌めく瞳を向けながら話される事実に楓は呆然としていた。言葉に出来ない声にならない、そんな感情を蓄えて、この感情の行き場などとうに失っていて。伏せられた顔、閉ざされていた口が開かれて出てきた重々しい声、ただひとつの言葉に里香は笑顔を曇らせた。
「そっか、また里香のこと、死なせたんだ」
楓の想いなどには一度も耳を傾けていなかったのだろうか、想像力も思いやりも足りていなかったのだろうか。里香にとってはやり直せば済むことが、楓にとってはそうでもないのだろうか。楓と共にいい結末をつかみ取ろうと努力すればそれだけ楓を苦しめてしまうのだろうか。
何が正しいのだろう、何も分からなくなって全ては思考の海に沈められて行った。
静まり返った空気に心を乱される彼女らの姿を目にして絵海は眉を顰めた。
「まだ、何も終わってないのに。今から全てを終わらせる戦いが始まるってとこなのに」
元凶を排除すること、この世界の中の埃被ってジメジメした部分にこれから乗り込もうという今、味方のふたりがジメジメとしていては話にならなかった。湿り気に充ちたものが湿りを晴らそうといくら拭ったところで乾いてくれるわけでもないのだから。
「ふたりとも気を引き締めて。今から戦いなのだよ」
枯れ声から発せられた言葉はふたりの頭を縦に振るだけだった。その程度の重みは持ち合わせていた。