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記憶能力

 明るい空は次第に影に隠れ始め、白くて大きな学校を薄暗い幕で覆っていた。それは学校の中での人々の明るさも陰湿ないじめも大切な時間も授業という学びの時間も同じように包み込んでいた。

 生温い風は夏の終わりを告げていた。それでもまだ少し暑い、セーラー服に滲む汗が嫌悪感を産み落として懸命に訴えていた。

 いつ見ても学校よりも立派な建物などこの辺りには無くて外観は周りの景色からかけ離れた印象。ちっぽけな家たちを見つめてはそこに柔らかな愛しさのリボンを掛けていった。

 隣に立って、しっかりと並び歩く背の低い少女、灰色の髪は肩の辺りで外側に跳ねていて前髪も上手く真っ直ぐには伸びていない。紫色の瞳はアメジストのようでありながら美しい輝きなど何ひとつ無くて、沈んだ深い色の端に薄っすらと優しい光を取り込み紫色の海のよう。そんな瞳を収めた表情は何処かぎこちなくて目の下のくまがより一層ぎこちなさに拍車をかけているように見えた。

「ねえ楓」

 生温い風さえも撫でつけ迎え入れる優しい声で呼ばれて背の低い少女、福津 楓は振り返った。

「どうした、里香」

 里香は楓の低くて落ち着いた声を聴くだけで心が飛び跳ねて落ち着きがどこか遠くへ飛んで行ってしまう。小さくて細い身体を、かわいらしさの欠片も残さない顔をどこか愛おしく想っていた。

「楓の声、聞けて嬉しい」

「はあ。それは嬉しいんだけど、可愛くない」

 むしろそこがいい、などと語ることも許されない。あの顔に宿る情は、それを奏でる声の冷たさはそれを許してはくれないだろう。

「それより私は里香みたいになりたい。身長伸ばして胸も大きくして……顔と声を可愛く」

 茶色の髪を揺らしながら楓を睨みつける。暗くなり始めた空に溶け込む影を纏って屈んで大きな胸を強調しながらわざとらしく見せつけて。嫌味だと分かっていて、楓を傷つけてしまうことなど分かっていて、それでもやめられなかった。

「もう! そこまで変わったら別人でしょ。やめてよね」

 言葉にしてはみたもののそれは所詮偽り。憧れてもらえるということそのものを、美味しい感情を味わいながら楓の曇った表情を見つめて微笑みを隠す。

「そう……だったらこの想いは胸に仕舞っておこう、里香と違って全然ない胸に」

 気にしている様があからさま、これ以上言ってもむやみに傷つけるだけ。その事実に心を痛めて反省を浮かべて言葉にはしない。

 それから少し歩いてたどり着いた。楓とさようならの時間がやって来てしまった。意地悪な会話で幕を閉じてしまうということ、それが悔いの杭となって胸を刺す。幾度となく刺し続ける。胸の中に咲いた赤い花は罪と血の塊、外を充たす薄暗い空はまさに罪悪感を形にした処刑場のようだった。

 軽い挨拶だけを交わして目の前の景色を見つめる。川の流れる道、そこを歩く男は腹だけがたくましく膨らんでいて見るからに不快でだらしなさの塊を見つめた存在だった。そんな男が握りしめているものは茶色のビン、明らかにビールの入ったビンだった。ビンの円は先に行くほど急に細くなっていて、そこを持つ姿は首を絞めているよう。人とは見た目だけで幾つもの印象を即座に決めてしまう。あのような姿には決してなりたくない。汚さの塊。里香の想いは薄汚れてしまっていて、形にしたらどこまでも醜悪なものではないだろうかと恐れを呼び込んでいた。

 川沿いの歩道を歩いている。橋を通り抜けて、川の流れに逆らうように歩き続けて、里香は新しい景色を目にしてしまった。

 そこに立つ女、ピンクの服を纏った女。サイズが合っていないのだろうか、右のみが肩を丸出しにしてしまっていておまけにこの季節の中では見ている側にまで熱気を伝えてしまう長い袖は右手を覆い隠し、恐らく履いているであろうズボンを丸々覆い隠してしまっていた。そこから伸びた細めではあれども肉感をむき出しにした脚を覆う青と白の縞模様のソックスの左側はふくらはぎの殆どを覆っているにも拘わらず右側は足首までの長さに留まっていた。伸ばされたキャラメルを思わせる茶髪は左半分だけが編み込み纏められていた。左右非対称、里香にはそのだらしないファッションセンスに目を疑うことしか出来なかった。そんなセンスを持つ女が持つ茶色の鋭い目はしっかりと里香を捉えていた。きっと目つきを研ぎ澄ませるまでもなく鋭さは健在なのだろう。目つきの悪さに身を震わせながら通り抜けようとしたものの、目の前に立ち塞がって言の葉を吹き始めた。

「お前、能力者だろう。正直に答えてみせて」

 不思議な声質をしていた。枯れ気味の声は性別を感じさせない。男女のどちら、中性的か、そういった次元の話ではなくもはや性別が無いという言葉が最もぴったりと当てはまる音色をしていた。

 そんな相手に対して里香は得体の知れない危機感を覚えた。寒々しい心地は煮えたぎった泡を吹いてここ最近で最も居心地の悪い濁りを生み出す。どうにもならない止まらない、そんな独特な嫌悪感が蔓延っていた。

 ひたすら顔を合わせて見つめてくる女、里香よりも少しばかり背の低い少女、彼女の問いに対してただ一度の会話で済ませよう、そう決めて口を開く。

「いいえ、どういう話か知りません」

 完全なる知らぬふり、その回答と共に目の前の少女の目は左上へと動いていた。一瞬の出来事、それを経て再び正面を向いては里香との会話を紡ぎ続ける。

「嘘、その気配の大きさ、磁場の揺れ方、使ってないはずがないね。それもまだ初心者、そうでしょ」

 里香は思い返す。楓と初めて、何なら能力を扱ったことのないその時から見抜かれていた。自覚よりも速く、ずっとずっと早く気が付いていた。

「そ、そうだね。本当は私……」

 話を切ることは許されないのだろうか、太陽が顔を沈めてしまう前に帰りたくて仕方がなかった、おどろおどろしい感覚は、得体の知れない気持ち悪さはひたすら肌を撫で続けて止まらない。川の流れと反対向きに歩く姿、もしも川の中で流れに逆らったならばこのような想いをすぐさま味わうことが出来るものだろうか。このような感情など髪を丸めるようにくしゃくしゃにして太陽に追いつくほどの距離、見えなくなるくらいの遠くへと飛ばしてしまいたかった。

 少女は里香の顔をしっかりと見つめる、その距離は楓相手でさえ取ったことのないもの。目と鼻の先という言葉が相応しいその距離に里香は嫌悪感を覚えた。

「自覚はあったみたい、かな。しかし最大の問題はそこじゃないんだ。もしも知ってるなら協力して」

 一刻も早く離れたかった。全身が警告を飛ばしてくる。激しいはずなのにどこか冷めたような感情を向けるその視線、激しく黒く滾っていながらもどこか盛り上がらないその情の正体は何だろう。待てども訪れない暗闇を思わせる感情を前に得体の知れない恐怖が止まらなかった。

「答えてくれるだけでいい、他に異能力者の仲間はいるのか」

「は……はい」

 その瞳は動かない。ただ里香の目を見つめている。ただただ凝視している。全てを見透かしてしまいそうな鋭さを目の形と色、共に持ち合わせていた。暗く沈んだ茶色の瞳の理由が知りたくて堪らなかった。

「そう。それなら困った。どうせ能力は話さないって取り決めてるんでしょ、いつものこと」

 他にも能力者に出会っているのだろうか、そう思いかけて考えを取り消した。能力者を見抜く時点で知っている。当然の疑問は浮かべるまでもなかった。

「もしかすると最近私が迷惑した能力の持ち主かも知れないから答えてみせて」

 里香は安心を拾い上げた、土手に転がる石と同じ程度のもの、頼りないことこの上ない感情。それでも助かるというのが本音。

「どういうことで困ってるんですか」

 そう、早く話を閉じて楓と会ってこの話を告げてみたい。その時どのような顔をしているだろうか、里香と同じで引き気味だろうか、空の上を見つめ、綿のような雲に楓を想う心を乗せて流す。届けばいい、届かせて、一刻も早く会いたい。

 少女は話を繋ぎ続ける。

「私は絶対記憶能力者。どのようなものでも一度見たら色あせないし聞いたものは永遠に流れ続ける。店の中で流れる音楽から、今ここを流れている川の音色まで」

 一度覚えたものは忘れない。それは果たしてどれだけ便利なものだろう。想像するだけで羨む気持ちが止まらない。テストで満点は確実なのだから。

「今朝のニュースなんかは凄かった。私たちとは無縁だろうけども東の都の方で新しい電車みたいなのが開通したって言う話」

 それは里香も覚えていた。寧ろ見た上でなにも覚えていない人物の方が少ないだろう、そう勝手に結論を下そうとしていた。

「思わない? どれだけ速いかな、見慣れない姿してるね、ニュースでの落ち着きを隠すことの出来ない男の声はいつもより弾んでいて、まさに新しいものを感じさせてくれたよ」

 相づちを打つ。共感という餅をつき続け、感情は固まり更につき続けてはより強く固まっていった。この微笑ましい会話、その影に潜む謎の胸騒ぎがどうしてもチラついてしまう。どれだけ抑えたところで手を挙げて跳ねてその存在感を示してしまう。

「でもね、この感覚もいいことばかりじゃない。悪いことだってあるんだよ。例えば殺人事件、読み上げられただけで浮かんでくるその感情を前触れのひとつも無しに思い出すことがあるんだ。鮮明でまさに今新しく得た感情ですって言わんばかりの採れたて感情のようで活きがよくて」

 途端に里香は思い出さざるを得なかった。そう、ついこの前味わったばかりのあの感情。あの痛み、迫り来る終焉の感覚を、突然訪れる脅威の圧、思い出すだけで忌々しい非日常の恐怖がまさに今やってきたような新鮮そのものの色でやって来る。死の感覚から楓と共に過ごした時間の中の暗部というものを。

 里香はそこで理解した。忘却というものは、人が人でいられるために備わった自衛手段なのだと。

「戦いに身を置いたなら分るでしょ。それがついこの前どころか今この場の物のように思い出されるんだ」

 それはつまり、声にしないままそう続けて想像力に身を委ねていた。大けがをした時の痛みやぐちゃぐちゃの死体、あの緊張感による破裂してしまいそうな心臓の鼓動も物騒な匂いや怯え震え、全て総て何もかもが今起こったばかりのことのように思い出されてしまう。それがどれだけ苦しいことなのか、思い返すだけで感情にむせかえってしまいそうで仕方がなかった。

「分かって来たみたいだね」

「ダメ、分からない」

 少女の目は左上へと泳いで言葉を紡いで返してみせた。

「嘘。だいたい分かってるよ」

「そんなこと」

「お見通し」

 そう繋いで会話の橋をかけ続けていく。

「私は何もかも今のことのように思い出されるわけ。で、ある日のニュース、市場へと駆けこむ人を見て羨みながらご飯を食べて気怠い気持ちを押し切って学校に行くわけ」

 きっといつも通りの生活なのだろう、特に否定することも無ければ受け入れることもなく、ただ事実を事実だと受け入れて心の中に落としてみるだけのこと。

「問題はここから。そうやって一日を過ごしました、排気ガスのにおいから学校で繰り広げられた不愉快なふざけ方から先生の無言で口を動かす癖まで全部お見通し、で、帰り道にハトが妙に多いと思った五時半頃。一回それが終わったと思ったら、ひと息ついたら、いつの間にか寝ていたようで目を開けばそこにはまたしても学校に立ってた。不思議でしょう?」

 それは不思議なことこの上ない、そんな教官の相槌を打つ裏で、里香の頭の根の方である事実を想っては震えが湧いて出て、恐怖の感情が目の前の相手を脅威に変え始めていた。

「時計を探してみたらそこには五時ごろを示す針。日付けは変わってなくて。既に通り越したはずのその日、慌ててこの前の、さっきのハトの場所に行ってみたらやっぱり妙に多い。つまり」

 少女は言葉を続ける。聞いているようないないような、曖昧な心地で話を耳に入れることしか出来なかった。里香の中に潜む大きな恐怖が不安を煽る手の伸ばし方でゆらゆらと揺らめくように踊っていた。

「つまり、その日を繰り返してた」

 ネクロスリップ、楓がそう呼んだあの能力を使った日、その日の繰り返すことまで少女は覚えているのだというのだろうか。

 少女の目つきは更に鋭くなっていく。静かでありながらどこまでも強く張り付く憎しみを滾らせながら少女の話はようやく彼女の思う主題へと漕ぎ着けたのだろう。

「きっと誰かが時間を巻き戻したしそれすら覚えてる私がいる。それで異能力者に訊いてみたい。不快なタイムスリップを阻止したい」

 そこから差し込むように投げられた問い、それが里香の心の中で大きく響いた。

「あなた、タイムスリップに関わってない?」

 ダメだ、ダメだ、イケナイ。隠し通さなければ、ネクロスリップのことを知られたら、再び戦いの世界に誘われてしまう。平和というものが途切れてしまう。

「いいえ、知りません」

 幾度目のことだろう。少女は目を左上に動かして、正面を見つめる。その仕草は一体何を追いかけて行われているものだろう。少女は口を開き、枯れ気味の声を絞り出して相手に快感を与える力もない響きを波にした。

「そう……分かった」

 そうして歩みを進め始める。里香の心臓は何処までも速くなり行く。この世の何よりも速いのではないだろうか、緊張感が紡ぎ出す想いは焦りに充ちていて、落ち着いた薄暗い幕となった青が空の画用紙いっぱいに広げられるこの景色の中、里香の心の空は深くて苦しい赤模様。

 少女は更に一歩進んでついに目と鼻の先ほどの距離へと達し、更に進み行く。

――乗り越えた

 安心して隣を歩く恐怖から目を背けようとした途端、里香の思考はひとつの感覚に奪われた。

 腹部を支配するように刻み込まれた感覚、熱はすぐさま根付いて広がり里香の頭まで支配を広げた。慌てて視線を落としたその先に鋭い輝きが充ちていた。落ち着いた空の微かな輝きを受けて鈍い色に染まっていた。滴る紅を目にしてようやく熱が痛みの錯覚なのだと気づかされ、刺されたのだという理解にまで至った。凶器は引き抜かれる。赤い飛沫を、この世で最も見たくない噴水を上げながら、その一部は刃物について行くように空気を伝いながら、里香の心に新たな痛みを与えながら鉄の香りで余韻を残した。

 だらしない着こなしによって隠された右手、そこに彼女は包丁を隠していたのだと知って言葉が出ない。驚きと痛みは里香に対して最大の口封じとして働きかけていた。

 倒れて腹を抑え込む里香に対して、あの枯れ声は容赦なく里香の耳に事実を運び込む。

「嘘。分かるよ。あなた気付いてないでしょう」

 何に気が付けば刺されなかったのだろうか、その解答は感情を抑えた冷ややかな声でただただ述べられた。

「嘘つく時、あなたの目は一瞬右上へと動くこと」

 嘘つきの癖は初めから見抜かれていた。里香が嘘で身を守る時に少女が左上を見ていた。それは他ならぬ里香自身が癖を通して相手に嘘だと自白するという愚かな行ないだったのだ。



  ☆



 ハトが羽ばたきながら地を這うように飛んでいた。微かに浮いた彼らは地面に足を着いては首を振りながら歩いてエサを探し始める。

 意識が現実に引き戻されたそこに広がるものは遠くて深い青空。そんな青のスクリーンの中に先ほどの映像が流れ始めた。意識を支配していた強烈な痛み、腹部から外出したいと言いたそうに態度を形にしようとばかりに次々と溢れ出る血。自らの心では抱えきれない鮮やかな紅は身体が抱えていた。

 これから再び訪れることが分かり切っている痛み、このままでは繰り返してしまう。それだけは避けなければならない、これ以上死の苦しみを味わうわけには行かなかった。本来そこで終わりなはずの命、その終焉の苦しみをまたしても味わうわけにはいかない、心が壊れてしまう。幾つ替えのものを持っていたとしてもそれら全てが汚染されてしまう、そんな強みを持っていた。

 あれは、命の終わりにすり寄ることだけは避けなければならない。そんな一心で駆け出した。風景が激しくぶれて心のアラブ利をそのまま視界に映しているよう。身体が重い。全体的に豊満な身体は、特に胸は動く時の邪魔でしかなかった。

――走る時だけ引っ込め

 行き場のない苦情は愚痴としてそのまま抑え込まれて、この世に出て来ることさえ知らない。

 地面の感触はその跳ね返りの衝撃は極限まで重たかった。自身の重みのかかり肩なのだと理解する暇も与えないまま、砂地を抜けて住宅街へ、続いて更に戻り手繰りあの場所を目指し続ける。人通りを求めて、足を踏み出し続ける。一歩一歩の負担が膝を叩き割ってしまいそうな勢いを持っていた。

 必死になって走る姿はきっとこの上なく醜いものだろう、それでも構わない命には代えられない、そんな想いを抱き締めながら向かった場所。

 そこでは未だに球を投げる者、それを跳ね返すように棒を振る者、ひとつの球を追いかける集団。そう言った人々がその競技に夢中になっていた。部活が行なわれているのならもう安全圏だろう。後は中に籠もって電話であの子を呼び出して待つだけ。それだけ、もう勝利は目の前、そう確信を持った時のことだった。

 校門へと向かう里香は歩みを止めた。視界は学校の外側へと逸れた。そこ、向こう、いる。簡単で単純な単語の連続を思い浮かべることくらいのことしか出来なかった。鳥肌が立った。寒気が正真正銘の恐怖感をもってざわめいていた。周囲の叫びに乗じて想いは口に出ることすらなくざわめいていた。

 目の前に現れた脅威、ピンクの服を着た背の低い女が髪を揺らしながら歩み寄って来る。

「安全そうな場所、かな。確かに生徒なら学校を選びそうなものね。でも」

 少女にはお見通し、この薄っぺらな心で思ったものなどすぐさま見透かすことが出来てしまうのだろう。

「制服で学校は丸分かり、別の場所にしな」

 少女の続けた言葉はまさにその通りでぐうの音も出ないものだった。少女は更に歩み、右手を暗くなり始めた空に右手を掲げた。そこでたくましい輝きを鋭く放つ刃物、禍々しく映って仕方のない裁きの輝きは里香の方へとすぐさま迫ってきた。

「次こそは終わってもらいたいね、今回の周回の始点は学校から帰った後。やめて欲しいね」

 そんな言葉と共にあの刃物は里香に向けられた。鋭い先端を向けられて、正面を見てなどいられなかった。刃物を直接向けられる瞬間を目にすることがここまで嫌なことなのだと今ここで思い知った。



  ☆



 ハトは羽ばたきながら地へと降りた。パタパタと柔らかな自然の音を奏でながら、ハトの家族はみんなで可愛らしい合奏に夢中になっていた。地を歩き、地をつつき、優しさを持った独特な鳴き声を空に奏でて。

 里香の意識はここで鮮明に色付いた。空は未だに蒼くありながらも遠い底の方が暗くなり始めていた。向こう側は星がきらめく深海だろうか、潮が満ちて深海色の夜に染め上げられてしまう前に駆け出す。

 きっとこのまま何周も同じ日々を繰り返すことが最も危ない。繰り返せば繰り返しただけ自身が不利になってしまう。そう、相手は記憶を残した上に里香よりも戦いの経験が深いようでおまけに殺すという人の道から外れた行動に躊躇がないのだから。

 このまま相手が有利になるがままに進めてしまっては里香がますます苦しむだけであろう。相手がこの時間の歩き方を覚えてしまって最速で殺しに来るようになって八方塞がりの広場に立たされる。それこそが里香にとって最も悲劇的な終わり方だった。

 もう友だちにさえ会うことが出来ない、そんな状況を作り上げるわけには行かなかった。運命の進行の線から外れた里香はここで全てをつかみ取る権利があった。手と足はそうした状況を切り開くためにあるのだということ。これから迎えに行くはずの死の闇空を深海の夜空へと、更には希望の星空に変えてみせることこそ里香に与えられた特権だった。

 走りながら住宅街の迷路へと潜り込む。知らない場所、地図にさえ載っていない細かな地形。

 この地形であれば学校を突き止めて追いかけて来る少女と言えども、仮に把握していたと言えども簡単に見つけ出すことなど出来ないだろう。

 曲がり角を二度、そこから直進して立派な家の建ち並ぶ路地を突き進み、空に飲まれた地の先を目指して進み続ける。途中で現れた曲がり角の誘導に従いながら進み抜ける。

 やがて進むにあたって窮屈に感じていた景色が広がり始める。灰色でザラザラとしたレンガのレーンは取り払われて、家の整列も途切れて田畑が広がり始めた。そこから里香は更に走り、信号によって交通が管理された通りに出てそれから更に道なりへと進み、ところどころに並ぶ家を目にしながら風を切る勢いで駆け続ける。

 どこだろう、どこにあるのだろう。

 進み続けたその先に待ち構えていた薄っすらと透き通る黒い箱の中へと吸い込まれるように入って行く。里香が絶対に欲しかったものとの出会いはここにあり。

 中に居座る緑色の電話の受話器を手に取り、小銭を取り出した。緑の体の中に入れ込んで、特定の番号を押して。

 それから少しの間を置いてなり始めた優しい呼び出し音。ここまでの流れの全てに緊張が走る。指先は震えて止められない。やがて少女が電話に出た。

「もしもし」

 落ち着いた声は里香にとっての大きな救い。焦りは止まらない、心臓の鼓動がうるさくて受話器越しの向こう側にまで、見えない景色の世界にまで届いてしまいそう。

 電話機に入り込んで向こうの電話から飛び出して楓の傍へと行きたくて、一緒に居たくて堪らなかった。

「もしもし」

 再び問われて里香はようやく声を振り絞った。

「もしもし楓私今大変なの」

 震える声はあまりにも情けなくて今にも周りの音に押しつぶされてしまいそうな響きをしていた。

「私、二回殺されちゃった、ループ前の記憶を持ち続ける敵に会って」

「そうか、私のとこ来れるか」

 頼りがいのある声が響き続ける。それは心にまで染み渡って辺りの景色が滲み霞み曖昧になり始める。その目の捉える景色の謎、それはその目に溜め込まれた涙にあった。

 やがてある公園を指定されて電話は里香の方から意思を断ち切って終わりを迎えた。公衆電話など金を入れなければ続けられない儚い繋がり、弱々しく感じられる強い電波は怠け者なのか金がよほど欲しいモノなのか。

 里香はいつもと比べて極限まで早く鼓動を打つ心臓に感覚を委ねつつ、ふらつきながら電話ボックスを出て走り続ける。目指す場所は楓の家の近くに佇むこじんまりとした公園。大きく広げられた道路に比べて肩身の狭い公園は里香を歓迎してくれるだろうか。薄く広く広がる運命を駆けて行く。道路を更に進み、曲がっては進み続ける。最早景色など見ていなかった、障害物があるか、そこにヒトはいるのだろうか、あの女ではない事だけを祈る、そうした想いだけで脚は進められる。最早その足に想いなど乗っかっていなかった。その心に思考など擦りつけられてはいなかった。その背に冷静さは寄りかかってなどいなかった。

 やがてたどり着いたそこを目にしてひと息ついてベンチに腰掛ける。楓の姿は未だに見えず、不安は大きくなっていく。立派に育った暗い感情は空へと舞うことなくただ留まり続けていた。

 溜まる不安は暗くなり始めた空の濃い青に溶け込んで、里香の大きな胸の中を息苦しさ満点の不安で充たしていた。果たして楓としっかり会うことが出来るのだろうか、不安で仕方がなかった。

 そんな不安で破裂してしまいそうな身体を自分で抱き締めて、待ち続ける。

 里香の耳に空気を裂いて届けられる枯れ声の叫び。それひとつで里香の中で何かが砕けてしまった。

「見つけたよ、逃げやがって、どうすればループを終わらせられるか」

 景色の全てがどうでもよくなり始めていた。最早関心を持つことなど叶わない。諦観が心を覆う雲となって、分厚い綿は纏わりついて来て、あまりにも心苦しくて、しかし心を支配する苦しさなど既に見て見ぬふりして苦しさの欠片も残さない。

「観念しろ、お前はもう終わり。この競技は終わったの、あなたの人生という競技は」

「どうして、もうやめようよ」

 里香の甘い心を見透かして鼻で笑う。諦観の雲はあの少女にとっては綿菓子にしか見えなかったのだろうか。少女は右手を里香に向けて伸ばしてみせた。捲れる袖の中、姿を現した右手、そこには相変わらず里香の運命を狂気で充たす凶器が握りしめられていた。

「ああ、もうやめようね、お前の敗北という形で、終焉を受け入れろ」

 向けられた刃物、包丁の放つ鋭い光はあまりにも独特で恐怖感を呼び起こすデザインというものを見事なまでに演出していた。公園というほのぼのとした場所で執り行われる殺害など何と物騒なことだろう。里香の願い、何事もなく平和に解決すること。それはどれだけ手を伸ばしても届かないものとなってしまったのだろうか。遠い空に透ける希望、それはやがてここへと参る月の影に隠れてしまったのだろうか。

 少女は駆け始めた。いつまでも眠りこけた全ての終わりを叩き起こすために大袈裟な足音を立てながら。

 向けられた包丁は当然のように里香へと迫って進み続ける。

――逃げられない、あの子より速く、走れない

 今回の件を経て自身の体型を幾度恨んで来た事だろう、幾つの重みを剥がしてしまいたいと思ったものだろう、どれだけの負の感情がこぼれては表情を汚してきたことだろう。

「終わりだよ、ぽちゃ女」

 そう繋いだ言葉を殺意の刃に絡めて里香に向けて勢いよく飛びかかろうと、殺意と行為をあの身体へとめり込ませようと包丁を振り上げようと、自分なりの裁き方でその勝手に見積もった罪を捌いてしまおうとしたその時のことだった。

「終わりはお前だ犯罪者」

 その言葉は刃物の動きを止めた。何処に居るのだろう、何者なのだろう、見回して見渡して、公園の入り口にその姿を見た。

「何者」

 枯れ声の問いはきっと楓の耳には届かなかったのだろう、敵の驚愕など彼女の耳は捉えないのだろう。

 少女は楓を睨み付けていたつもりだった、しかし睨み付けていたのは虚空。

 楓は何処へと消えたのだろう、その疑問の解を探すために振り向こうとした瞬間、少女の右手首を掴む楓の姿がそこに在った。

「やめろガリガリ」

 楓の手を振り払い包丁を向ける先を、殺意の矛先を迫り来る脅威へとすり替える。敵がひとり増えた、それも瞬間移動を扱う異能力者に。

「私はガリガリじゃなくて楓、あの子はぽちゃ女じゃなくて里香だ」

「私やっぱりぽっちゃりというか太ってたんだ……」

 本人にとってはきっと恐ろしく重要な問題だったものの、楓はもっと大きな問題と向き合い、低くて落ち着いた声に小汚い響きを加えて無理やり響かせた。声は何処までもはっきりとした感情を持っていた。

 この戦いに女特有のドロドロした感情の流れなど何ひとつ無い、純度百パーセントの想いのぶつけ合いが行なわれていた。

 包丁を振り回すものの、楓の姿は再び消えて。気配の方向に顔を向けるとそこには地に手を着く楓の姿があった。

「ひとつ訊きたい、絶対記憶能力と言ったな。もしそうなら、経験していない里香の記憶など覚えないはずじゃないのか……何せ」

 そう繋げて少女の頭の中に混乱を与えては膨らませ続ける。思考は湧いて増えて大きくなり続ける疑問によって今にも破裂してしまいそうだった。

「その身体、里香の時間にいなかっただろ」

 そう、まだ余裕を取り繕う機会はある。少女の中に初めて湧いた疑問知らない事、知りたい事。しかし今はそれは忘却の中に沈めてしまうことを選んだ。わざとらしい笑い声を上げ、枯れ声を愉快な心情と共に鳴らしながら、思考を放り投げる心地で答えてみせた。

「よく分かったな、そうさ、私の真の能力はねえ、未来予知。私が元々見てた未来とそこのぽちゃ女が歩んだ人生の回想と動き回って変わる見込みの未来、全てが重なり合って幾つもの未来が相対的に見えて不愉快なんだよ」

「この女、舌を二枚持っているみたいだな」

 真実の口と偽りの口、この発言はどちらなのだろう。楓は地に着いていた手を握りしめながら上げて、勢い任せに走り始めた。

「見せてやる、複合能力を、知ってるだろうけどな」

「知らないね、幾つも見る前に片を付けるから」

 もっともらしい言葉が楓をお出迎えする。その状況を楓は鋭い笑みで迎え入れた。走る続けて一秒ほどだろうか、既に互いに触れ合えるだけの距離、しかしその手は互いを遠ざけるため扱われる。

「食らえ、パイロ」

「包丁が速い」

 楓が繰り出す右手、握りこぶし、それが開かれて、手という花が開いて現れるものは炎などではなかった。大きめの石。瞬間移動は幾度か行なわれたがいつの間に握られていたのだろうか。

 少女の目は驚愕に充ちていた。どうしようもない事実、変えようのないこの結果。顔へと勢いよく向かって来るそれはいつまでも鮮明な記憶の中に刻まれて、いつまでも新鮮な瞬間を保ったまま迫り来る。

 目と鼻の先へと迫ったその時。その瞬間に石は動きを止める。そこから本来あり得ない動きを、自然界の法則の外側の動きをとった。止まった石は急に勢いをつけて包丁へと向かって突撃を始めた。それは鋭い鈍色の殺意を勢いよく払って地面へと叩きつける。

 少女は手放してしまった己の武器を取り戻そうとその手を伸ばすものの、戦いの意志の象徴は楓の足によって踏みにじられた。

「嘘。予知能力なら楓のこの程度の動き食らい簡単に読めた」

 里香が放ったひと言は少女にとって最大の屈辱だった。かつての自分の言い回しで指摘され、己が蹂躙されるということ。少女は楓の方へと目を向けた。暗い表情を塗り付けて、見つめた。肩で息をしながら、鋭い目を向けている姿、目の下に深いくまが刻まれたその顔は恐ろしくてたまらなかった。

 そんな彼女は疲れを隠すこともなく乱れた呼吸を繰り返してやがて一度大きく息を吸って疲れに乱された荒々しい声を上げて上から言葉を叩きつけた。

「パイロキネシスも顔に石も、素直にやると思ったか、バアアアアアァァァァカ」

 その様は無様、しかしながらそれこそが人というもの。溢れ出る悔しさに身体を震わせ、瞳を揺らしながらも少女はただ、己の罪を彼女らの背に刻み付けようとしていたという事実を認める他なかった。

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