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ラビアン・ノアル  作者: エコエコ河江(かわえ)
4章 闇色の生き様
15/20

S15D2 片道切符の買人

 百里を歩むものは九十里を半ばとする。日本の諺だ。


 Well begun is half done.(始まりが良ければ半分は成功だ) ギリシャの諺だ。


 始める前に積み重ねた計画と準備が成否を左右する。総仕上げが今日だ。


 ダンボール箱の貨物としてトラックに乗る。乗り場は集積所から、集積所までの移動は別のトラックで。どこのカメラにも残さない。潜入用のバニースーツを着て、体を折りたたみ、荷物になる。外の様子を多少は覗き見られる隙間があり、マジックミラーで内側を除き見はできない。持ち物は銃とナイフとトランシーバーを持った。非常時には内側から箱を開けて出る。


 人間の体は同じ姿勢を長くは続けられない。


 血流が滞れば血液が固まり、その塊が流れ出して重要な血管を詰まらせることもある。エコノミークラス症候群と言うが、さらに狭い箱の中だ。自力で姿勢を変えて防ぐ。血栓のできやすさには男女差がある。


 筋肉も悲鳴を上げる。同じ姿勢を続けさせるだけの拷問もある。箱に入る今回はちょうどリッサの鉄柩と同じだ。幸いにも天井を下ろす万力はないし、火にかけられるとか水をかけられるとかもないとはいえ、特殊な訓練なしには決して真似できない。


 どちらの問題も体を動かせれば防げる。校長先生の話を聞くときと同じく、少し動かすだけでいい。今回はその空間を確保できる。血管が細い場所を重点的に、筋肉のそれぞれを把握して、最適な量と時間で動かす。足の指、ふともも、膝の裏、ふくらはぎ。危険地帯は下半身に集中している。重要な機能も下半身に集中している。動物は足を失えば生きられなくなる。


「卯月さん、翔です。聞こえますか」


 トランシーバーの音質は良好だ。音量はこれから調整する。


「よく聞こえるわ。広さも十分」

「よかったです。今日はすぐにでも出ていいですが」

「二〇分くらい味わっておくわ。明日にやったらいけないから」

「了解です。その倉庫は誰も使わないのでいつでもどうぞ」


 通信を終えて、宣言通りに明日に備えて想像する。


 この姿勢で揺れながら進む。乗り物酔いはどうか。普段の座り姿勢とは揺れる方向が違う。積荷を守るサスペンションがどこまで違うか。酸欠の可能性はどうか。通気孔は左右にあるが、同時に隠密も必要になる。走る間はともかく、止まっている時に何かの加減で届いてはいけない。後で移動ルートを確認する。姿勢による負担はどうか。拷問としては有用だが、見てくれの地味さから熱心な客には不人気で、ゆえに兎田も初体験する。予想よりは楽だが、効き始める時間が見えない。


 考えずとも処理できるほうがいい。貴重な考えを他に回せる。


 とりあえず今の所は感覚に異常なく続けている。少しずつの動きが十分に届いているようでひとつ安心した。隠密との両立もできている。この調子ならば明日も上手くいく。


 トランシーバーが鳴った。


「卯月さん、翔です。返事を」

「どうしたの?」

「二〇分です。早く出てください」


 時の流れが早い。刺激が少なければそうなる。考え事をしているつもりでも、同じ考えが反復して時間を二倍にも三倍にも使い潰す。普段なら時計を見たりテレビ番組が進んだりで気付けるところを今は何もない。


「ごめん、すぐ出るわ」


 ナイフを側面に押し付ける。左手で固定したら右手で柄の先を押す。ダンボールを突き破り、前後させて穴を開ける。時間のかけすぎだ。側面ルートを中断して上部のテープ狙いに切り替えた。箱の耳を引いて端を、反対も同様に切り、中央を一文字に横切らせる。


 兎田は立ち上がった。やはり感覚に異常はなし、すぐに普段通りの動きを始められる。ダンボールは処理の都合で硫化水素ガスを少しずつ放出するが、短時間なら問題はない。


 倉庫を出て仮眠室へ向かう。ここで今夜を明かす。


「おかえりなさいませ」


 場所が違っても翔はいつも通りに出迎えてくれる。シャワー室への案内も、着替えやタオルも、夕食も、必要なだけ取り揃えている。彼女のおかげで全力を出せる。兵站へいたんはすべての成否を左右する。


「いつもありがとう。明日は任せて」

「なんですか、急に。夕食も明日の朝も味気ないやつですよ」

「食べてから出発できる、こんなに心強いものはないわ」


 もう伝える機会がなくなるかもしれないから。兎田は言えるうちに言い続けてきた。今日も同じく、言えるうちに。


 翔が少し顔を赤くしたと気づいたら、満足してシャワーへ行く。シャンプーやその他は何も使わない。風呂で使うのはぬるま湯だけだ。指で撫でるだけで汚れは十分に落とせる。歯磨きも同じく、歯ブラシとデンタルフロスだけで十分に落とせる。


 余計な匂いをつけると人の鼻でも容易に違和感を持ち、そこから失敗が始まる。準備は何気ない日々のうちに済ませておくものだ。兎田の身には兎田自身の匂いだけがある。


 匂いは粉だ。見えるくらいに拡大したら砂に見えるかもしれない。空中を漂い、鼻に入ったら匂いとして認識する。人は歩くだけでも全身から破片をばら撒く。それが人の匂いになる。


 なので、匂いを抑えるには破片を捕まえる。備長炭を使う。微細な孔がいくつも並ぶ構造で匂いの素を吸着する。別の匂いで隠せるのはさらに別の匂いがいくつもある場所だけだ。


 夕食も匂いがなく、食物繊維を含まないものを。糞便として腸に残れば自重になり、便意になり、万が一にでも傷ついたら生存率が下がる。食物繊維がなければ糞便にはならない。こちらも三日前から万全にしている。


 スポーツドリンクを渡すのと同じような顔で塩化マグネシウムが出た。ペットボトルに五〇〇ミリリットルの透明な液体、外見こそミネラルウォーターに見えても補助的な下剤だ。腸をしっかり空にする。


 フィルムを剥がして、酸っぱさに顔を顰めながら少しずつ。飲み干すまで。


 寝床もある。こちらは持ち運びしやすい折りたたみ式だが体重を支えるには十分で、一方の翔はソファでの仮眠にとどめる。


 荷物を減らすためだ。兎田が出発した後で不要になるものは持ち込まなかった。翔が疲れていても計画は進むが、兎田が疲れたら計画が止まる。


 眠りは八時間、部屋は真っ暗で。美容と健康と強さの秘訣だ。すべてを解決するうまい話がここにだけはある。脳が情報を整理して、体が老廃物を押し流して、新鮮な細胞ばかりの体にする。


 トラック運転手の朝は早い。兎田が眠った後で仮眠を初めて、日の出より前に出発する。明るくて一般車や歩行者が少ないゴールデンタイムのうちに走り抜ける。


 彼らの支度に合わせて兎田も起きた。こちらはこちらで準備がある。食べ物はゼリー飲料でブドウ糖とアミノ酸を。体を動かす準備だ。改めてシャワーを。余計な汗や匂いを落とす。


「では卯月さん、時計を合わせます」


 世界時計を見て同じ時刻にする。別の場所では関わる全員が同じことをしている。自動調整には任せられない。普段使いならともかく、極限の堅牢さを求めて最後まで信用できるのはアナログ式だ。


 あとは出発のみ。兎田を箱に詰めて、箱をトラックに乗せる。運転手よし、積荷の位置よし、天候よし。


 エンジンの唸りが中でも聞こえた。動き始める。

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