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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

恋をわからせたいその頬に

作者: 星川さわ菜

 初夏を思わせる春の陽気。太陽が天頂に達していないのにジリジリと肌が焼ける。強い日差しの中、微かにそよぐ朝の風が心地良い。ひんやりとした空気を運んでくる。


 まだ五月になったばかりというのに、新緑は大きく育ち、地面の草花も力強く茂っている。うっそうとした緑に飽き飽きしながら、俺たちは校舎裏で草をむしっていた。


「わぁっ! 虫」


 バッタと共に(めぐる)は飛び上がった。さっきからずっと虫に驚いてばかりで朝の清掃活動が進まない。


「おい、さっさと終わらせないと時間になるぞ」


 俺は荒々しく声を上げた。


 月の一回、朝のホームルームは清掃活動にあてられる。俺たちは草むしり担当だった。

 そもそも草むしり班なのは巡で、俺には別の仕事が割り当てられていた。巡が心許ないからとせがむから、クラスメイトに交代してもらったのだが……。こんもりとむしった雑草はすべて俺がやった仕事だ。


「もういいから、ゴミ袋にむしった草を入れてくれ。それくらいならできるだろ」


 全然働かない巡に飽き飽きしていた。


「うぅ……でも、草の中から虫が出てきたらどうしよう」


 すでに涙目になっている。

 こいつは本当に、幼稚園の頃から手がかかる。


 巡が雑草をつまみ上げたその時……。


「うわぁ……!」


 空を横切った蜂に悲鳴を上げ、よろけた拍子に俺に覆いかぶさってきた。

 俺は尻もちを付き、巡は俺の胸に顔を埋めた。


「巡、落ち着けよ」

「うぅ……蜂、どこか行った?」


 不規則な円を描きながら蜂は俺の頭上を旋回している。俺は巡の耳に口を寄せた。


「まだだ。じっとしてろ」


 返事をするかわりに巡は俺の制服を握りしめた。

 巡の体温を感じる。周囲の空気まで熱を持っているようだった。巡の首筋に小さな水滴があった。じっとりと汗をかいている。それが風に乗り薫ってきて、俺は目眩を覚えた。


 蜂が去ったのを確認し、巡の肩を押し返した。


「ごめん、(のぶ)くん。……もう、無理……」


 巡は顔を真っ赤にして震えていた。

 虫に対する恐怖と自分に対する情けなさ。巡は恥ずかしさでぐちゃぐちゃになっていた。


 またそんな顔をする。

 俺は苛立ちから体の奥が震えた。


「いい加減、いつまで寄りかかってんだよ!」


 軽く巡を突き飛ばした。


「ごめん」

「あとは俺がやる」 


 巡からゴミ袋を奪い取り、無心に雑草を拾い集め始めた。巡の顔を見ないように、下ばかり見てた。

 巡は目でやっと捉えられる程の小さな虫にも敏感になりビクビク体を震わせていたが、俺は無視を貫いた。


 腕が重たい。思い出さないようにしても、さっき巡が触れた部分が熱を持ったようにだるくなる。頼られるのは嫌じゃないけど、気持ちを圧し殺す方が辛い。


 俺の気も知らないで……。


 考えないようにしても、巡の顔が浮かぶ。ねだるような甘えるような……。まるで誘っているような……。

 あの表情、煽っているのか?

 無意識だったら天才だ。目の前の草に集中し、雑念を追い払った。


「……怒ってる?」

「別に……」


 巡に言われて自分の顔が険しくなっていることに気がついた。

 お前は知らないんだろうな。俺の気持ち。


 ……守りたい。


 体の中から何か聴こえた。確かに俺の心がそう言った。


 幼稚園の頃を思い出す。吸い込まれそうな大きな瞳に溢れんばかりの涙をためて、いつも巡は泣いていた。

 虫が怖い。おばけが怖い。初めての場所だがら怖い。お遊戯会緊張する。かけっこで転んで痛い。メソメソしていた巡に男子は呆れるばかりで、仲間外れにされる事もあった。そんな時、巡の前に立ちはだかって盾になったのは俺だった。


 そうだ。俺は巡を守りたい。大切にしたい。


 でも……。


 それが徐々に自分の中で歪んでしまったと気づいた頃にはもう遅かった。


 キス、できるくらい近かったな……。


 気づけば、俺の中で不純な気持ちが膨れ上がっていった。それが知られてしまえば、俺らは今まで通りじゃいられない。

 ついさっき見せた泣き顔が脳裏に浮かび、体がぶるっと反応した。


 その行動、その表情で俺がどんな気持ちになるのか、お前は意識したことがあるのか。


 何故かイライラの中にムラムラが込み上げる。

 巡は申し訳無さそうに突っ立って、俺の作業を眺めていた。


 ……その様子じゃ、ないんだろうな。


「もう、いい。先に教室戻ってろ」


 俺は色んな意味でもう無理で、巡のそばに居ることに限界を感じていた。それでも巡のことが気になってしまい、距離を置くことは考えられなかった。

 自分の心を殺すしかない。


 巡を先に帰し、残った俺はひとり無心に雑草を回収していた。



 *



 ある日の休み時間、巡が耳打ちしてきた。


「……はぁ? なんだって?」


 声が小さくて聞き取れなかった。俺はすぐさま聞き返した。


「信くん、声大きいよ」


 そこまで大きい声を出したつもりはなかった。

 周囲に聞こえないよう、巡は俺の耳に唇を寄せる。囁きに近い小声に鼓膜をくすぐられ、背筋が震える。悟られないように耳を澄ませた。


「……誘われたんだ。デートに」


 俺は絶句した。

 

 凍りついたように固まった。


 巡にデートの誘いなんて。色恋沙汰に無縁だと思っていたのに。


 俺は巡の顔を直視できずにいた。デートに誘われた男の顔はにやけているに決まっている。


 恐る恐る顔を向けると、そこには困り顔の巡がいた。

 少し安心してしまった。


 いや、安心してんじゃねーよ。巡は巡だ。喜んでやれよ。


 巡の幸せを願う、もうひとりの俺が主張してくる。


「良かったな」


 偽りの良心に身を委ね、俺は嘘を吐いた。


 ちっとも良くない。巡が誰かと付き合って、それで俺の知らない巡になっていく未来を想像したら、恐怖で心が震えた。きっと俺は、巡にとって余計な人間になるし、一緒に過ごす時間が減ると思うと、絶望しかなかった。


 だが、そんなこと。俺の勝手だ。巡の人生は縛れない。


 俺は黙り込んでしまい、会話は続かなかった。

 何を話せばいいのかわからない。

 ごく普通の男子学生なら、相手は誰か、どこへ行くのか、デートプランやその日どこまで進展するつもりなのか、生々しい話で盛り上がるはずだ。


 俺は興味もなければ、楽しくもない。話題を口にすることさえ忌々しく、苦しくて息をするのがやっとだった。

 俺の心は複雑だった。彼女ができた巡と、その先のことを想像したくないから、デートの話はしたくない。結局、俺は巡にとって、そういう対象にならない人間だと実感させられるからだ。

 そんなの、喜べる話ではない。


「ねぇ、それだけ?」


 巡が俺の顔を覗き込んでいた。戸惑った表情は変わらずだ。


「それだけって……。こっちから聞くことは何もねぇよ」


 憤りから巡を突き放してしまう。


「お前の方こそ、話があるなら何か言えよ」


 デートなんて嫌だ。不本意だ。


 そう言って欲しい。一縷の望みを込めた。


「デート、断ろうと思うんだ」

「は……?」


 本当に?


 俺の念が通じたのか期待通りになった。次の瞬間、


「なんで……? OKの返事をしたんじゃなかったのか……」


 反射的に聞き返していた。勝手に口が動いた。


 デートをしないお前の決断を否定するものではない。デートを勧めているわけでもない。断った理由が知りたいだけだ。なぜ、女子とのデートする未来を選ばないのか、その理由を知りたい好奇心からだ。


「好きでもない女の子とデートできないよ」


 俺の気持ちを知ってか知らずか、巡は理由を答えてくれた。

 その理由に安堵したが、『好きでもない』という言葉に引っかかった。俺も『好きでもない』人間だったら断られる対象なのだろうか。


「……好きでもないは言いすぎだね。よく知らない子といきなりデートはできないかな。そこから徐々に好きになればいいんだろうけど……」


 巡は苦笑していたが、俺は笑えなかった。


 好きになる可能性があるなら、巡は女子とデートするのかもしれない。たまたま今回は脈なしだったと言うわけで、『少しでも良いな』と思う要素があれば話は違ったのだろうか。

『良いな』と思えば好きになる可能性がある。それで、巡もいつか『良いな』と思った誰かのことを好きになって……。


 俺の中で、最悪の未来予想が展開されていった。止まることなく、ぐるぐる周回する。


「でさ、」


 俺の悪夢は巡の声でかき消された。


「ちょっと一緒に来て欲しいんだ」


 俺の机に手をついて身を乗り出した巡は、力強く懇願した。



 悪い夢からさめたばかりの俺は、自分の妄想に引きずられたまま、廊下に出た。巡が俺の背中を押して、歩かせる。巡のペースに巻き込まれた。


「なんで俺が……」

「信くんはついてきてくれるだけでいいから。……僕の後ろに居て。僕が、ちゃんと自分の口で、言うつもり」


 その場で断れずに『予定を確認する』と返事を保留にしたのは巡らしかった。その時に周囲に女友達がいたらしく、悪い返事がしづらい雰囲気だったらしい。


「自信なさそうだな」


 巡は俺の背中を盾にして歩いている。

 後ろからついてくるのは巡の方。これがいつものスタイルだった。

 付き添いと称して俺を同行させるが、いつも俺が先陣を切っていた。巡のことが心配で、傍に居続けた結果、俺は巡のお守りになった。 

 いつも、どんな時だって。


 対象人物の教室が近づくにつれ、巡はそわそわし出した。


「いや……。その。なんか、派手な子で、キツイ雰囲気がするから……。ひとりだと、こわくて……」


 声がうわずっていた。


「派手?」


 俺は不審に思い、聞き返した。


 俺が想像していた女子とは真逆だったからだ。巡が苦手という人間の系統はよく知っている。そんな人間が巡に声をかけてきたことに疑問を感じた。


「ほら、あの子。三人で喋ってる真ん中の……」


 巡は目立たないように小さく指さしをした。


 廊下で談笑する三人は遊び慣れていそうな顔立ちだ。個別の人間だが、三人はスカートの丈や制服の着こなし方、髪型や化粧の雰囲気が似通っていて、俺には区別がつかなかった。


「話、盛り上がってるみたい。三人でいると話しかけづらいね。また後にしようか」

「そんなこと言ってたら、タイミングなんてないぞ」


 巡は勇み足で来たつもりだったが、三人を前にして怖じ気づいた。本当に声をかけるのですら苦手な人間たちだ。


「……待て」


 俺は逃げようとする巡の腕を掴んだ。このままではいけない気がした。


 三人を認知した途端、俺は妙な空気感を覚えた。

 感覚的ではっきりしないが、微かに嫌な感じがした。この場で決着をつけなければいけない。俺の心がそう強く言っていた。


 巡の腕を掴んだまま、ゆっくり三人に近づく。行き交う他の生徒たちに紛れ、俺たちには気づいていない様子だ。徐々に三人の会話が聞き取れるようになった。 

 漏れ聞こえる会話に耳をそばだてると、悪い話をする時の独特な空気が漂ってくる。


「んで、返事は?」

「予定確認してくるってさ」

「即決しないのダサくね」

「ははっ……。まじダサいね」

「断られなかったんだし、これでもうオッケーじゃね?」

「えー、デートしてきなよ。せっかくなんだから……」


 ひとりが馬鹿にしたように笑った。明らかに巡のことを笑い者にしている。


「エグっ」


 告白してきたらしい女子が顔をしかめた。陰湿に顔を歪ませ、言葉を続けた。


「デートなんて罰ゲームじゃん。あんなナヨナヨしたやつと」

「だから、これは罰ゲームなんだって」


 はっきりと俺たちの耳に届いた。


 巡は凍りついたように足を止め、辛辣な言葉に顔を引きつらせた。


 ふつふつと血圧が上昇していく。それを感じるより早く足を踏み出す。徐々に駆け足になり、女子たちを捕らえるかのように迫った。俺の剣幕に気づいた三人は一歩後退する。

 その瞬間、逃すまいと俺は壁に拳を打ち当てた。


 壁を伝ってドンっと鈍い音が廊下に響き、周囲の生徒が驚いて視線を向ける。


 拳の目前に居た三人は肩をすくませ、怯えた目で俺を凝視していた。

 巡が俺を制止しようと駆けつける気配がした。俺は怒りを止められなかった。


「罰ゲーム? は? ふざけんなよ」


 こめかみに力が入る。威圧しながら暴言を投げつけた。


「生半可な気持ちで巡を誘ってんじゃねーよ。てめぇらと遊んでる暇はねぇんだ。とっとと失せろ、遊び人……!」


 語尾が消える前に三人は教室に逃げ込んでいった。


 ゼェゼェと呼吸音が聞こえ、思いのほか自分の心拍数が上がっていることに気がついた。怒りが俺の心臓を急き立てたんだ。


 黙ってはいられなかった。

 昔からそうだ。こいつのことを悪く言うやつは俺がすべて許さない。


 だが、今回はいつもと違っていた。巡のことで心が沸騰する加速度は、いつもの比ではなかった。

 波が引くように興奮が冷めていく。


「痛っ……」


 今更拳に痛みが走る。


「大丈夫?」


 巡は赤くなった俺の拳を見つめていた。


 その拳に巡がそっと手を添える仕草をした時、ふっと心が暖かくなった。いつも無茶をした俺に付き添ってくれる暖かい手だ。ずっとこの手に支えられてきた気がする。


 冷静さを取り戻しながら、俺は怒りの原因を悟った。

 大切な巡が、誰かに取られてしまうかもしれない恐怖を味わったからだ。

 それが悪ふざけだったなんて、至上最低、後味が悪すぎる。


 徐々に周囲の様子が目に入った。騒動の余韻を引きずり、廊下は騒然となっている。居心地の悪さを覚え、自然と足が反対を向く。


「いくぞ」


 俺たちを取り囲む視線をかいくぐりながら、自分の教室へ向かって引き返した。



 *



 授業中だったが俺たちは保健室に居た。


 保健委員の巡が俺の怪我を担任に申し出て、ここに連れてこられた。保健室の先生はちょうど不在だったが、巡は慣れた様子で手当を始めた。医療関係の道を目指す巡の手つきは慣れたものだった。


「僕のためにごめんね」


 そう言いながら俺の傷口に脱脂綿をあてた。


「いってぇ……」


 消毒液が沁みる。俺は手を引っ込めた。


「だめだよ。赤くなってるし、一応消毒しておかないと……」


 逃げても巡の手につかまってしまう。巡は普段より積極的で強引だった。


「心配だから、今日病院に行ってよ」

「大丈夫だ。これくらい。壁の殴り方はわかってる」


 巡は目を丸くし、笑った。


「なにそれ。よく壁を殴ってるみたいな言い方」


 包帯を巻きながら巡は続けた。


「イライラするからって、こういうことはやめてね」


 包帯越しにギュッと俺の手を包み込んだ。

 優しい言葉と気遣いに俺の心がほぐれていく。ジワっと体の底が暖かくなった。


 さっきから巡に翻弄されている自分が恥ずかしくなり、その感覚をはぐらかそうとした。


「どうせなら引っ叩いてやりたかったな。あいつら」

「女の子に乱暴はだめだよ」


 静かに俺を諭すが、歯切れが悪かった。巡の心をすくい取るように俺は問いかけた。


「あんなこと言われて、黙っていられないだろう」

「そうだけど……」


 巡は言葉を濁した。

 心の底に不満が澱んでいるようだった。


「言いたいことがあるなら、我慢せずに言えよ」


 一瞬間が空いた。息遣いが聞こえる。

 息を整えた巡が口を開いた。


「……笑いものにされて情けないよ。腹が立つより、自分が惨めだよ……」


 その声は震えていた。


「それよりも、人間不信になりそう。興味ないのに誘ったりするなんて、信じられない」


 俺は巡の手を包み返し、見つめた。

 視線が定まらず怯えている巡の瞳をまっすぐ俺に向けさせるように。


「お前は俺以外、信じなくていい」


 俺以外、好きにならないで欲しいという願いを込めた。

 安心させるつもりで言い放ったが、巡は困惑していた。瞬くように瞳の奥が震えていた。


「信くん。その気持ちは嬉しいんだけど、いつまでも守ってもらうばっかりじゃ僕はだめだと思うんだ」


 一度言葉を切って、続けた。


「強く、ならなきゃ。信くんみたいに……」


 吐き出すように。いかにも自信はなさそうだった。


「もう手当ては終わったから戻ろう」


 巡は立ち上がり、俺に手を差し出した。そろそろ席を立てという合図だ。


 その手は、俺の元を飛び立とうとする雛鳥の羽に見えた。

 不意に恐怖と孤独が襲ってくる。いつか巡も俺から離れていく。幼馴染の同級生をいつまで続けられるのだろうか。

 自分のエゴであることはわかっている。俺は巡を守りたい。ずっと大切にしていきたい。迷惑だなんて思わないで、俺に守られていることを自覚して欲しい。もっと甘えて欲しいんだ。お前に()きることなんてないんだから。


 俺は差し出された巡の手を強く引き戻した。


 巡は驚いた。予想外の方向に引っ張られたからだ。

 よろけた巡の体を腕で抱え、俺はその頬に唇を寄せた。


「ふぁっ!? なに……!?」


 巡は俺を振り払い飛び退いた。

 顔を赤くし、動揺している。


「ごめん……よろけた拍子に変なところに、ぶつかっちゃって……」


 胸を手で押さえ、呼吸を整えている。瞬時に息が上がったようだ。

 俺が仕組んだことは知らず、事故だと思っている。動揺を抑えきれない巡に俺はまた煽られた。


 この気持ちはもう、自分の中で抱えきれない。込み上がってくる何かは、もう喉元まで来ていた。


「好きだ。巡」


「えっ……」


 巡は言葉を失った。


 やっと素直に言えた。

 その頬に口をつけてしまったんだ。もう覚悟は決まった。


 いつも巡に感じていたイライラも消え去り、胸がスッとした。晴れやかな気分だった。


 巡は口づけられた頬を指でなぞり、俯いていた。


「信くんまで……からかっているわけじゃ、ないよね?」


 巡は疑っていた。

 今日は色んなことが起こり過ぎている。感情が、思考が追いついていないようだ。


 巡のもどかしい反応に、体の奥が熱く、脈打った。高揚した俺は衝動的に覆い被さった。唇を奪い、重ねる。


 巡の唇は震えていた。混乱と戸惑いが伝わってくる。

 震えを止めてやるように唇を吸うと、巡は受け入れて口を開いた。互いの熱が混じり合い、溶けていく。


 長いこと感触を確かめた後、俺は糸を引きながら顔をのける。巡は名残惜しそうに唇を尖らせていた。


「冗談でするかよ。こんなこと」


 俺は額同士をくっつけ、諭すように言った。


 巡は夢見心地でほうけていたが、俺の気持ちを確信したようだった。


「……いつから?」

「たぶん、幼稚園から」

「えっ、うそ。ごめん」


 意外。と思ったのか、かなり驚いていた。謝るところが巡らしい。


「なんで謝るんだよ」

「だって、ずっと、……そんなこと考えたこともなくて」

「それは……気づかれないようにしていたからな」


 これまでのことを思い出すと恥ずかしくなる。

 顔が熱くなった。今度は俺の方が巡を直視できなくなり、天井を仰いだ。


 昔を思い出していた巡は閃いたようにはっとした後、俺の顔を覗き込む。


「今思えば、信くんがいつも僕のために怒ってくれたり、守ってくれたり、色々してくれてたよね。それって、僕のことを大切に思ってくれていたから、ってことなんだよね」


 俺の顔はますます熱くなった。


 さっきとは立場が入れ替わっていた。

 巡は余裕だったが、俺はもう手いっぱいだった。手のひらにおさまらない感情がこぼれ落ちていく。巡への愛しさが止まらない。ずっと前から、十年近く前から、ずっと。巡だけを見てきた。巡だけが大切だった。


 そうだ。俺の負けだ。お前が好きだから。俺がお前を、こんなに好きだってこと。それを巡に思い知らされるなんて。


「うっせ。……もう言うな」


 ある意味俺は耐えられなかった。

 途中で巡の話を止めようとしたが、本当にその通りだったから最後まで聞き入ってしまった。巡の言葉で、過去を振り返ってみても、『好き』しかない。


「ごめん、すごく嬉しくて」


 人間不信に怯えていた巡はもう居なかった。情けなさや自分の弱さを責める負の感情は消え去り、そこには笑顔があった。


「だからな、巡。お前はもう俺以外信用しなくていいんだ。これからもずっとお前を守っていきたいから」


 自分でも驚くほど流暢だった。巡の気持ちを確かめる必要がないくらい、俺には自信があった。

 巡は俺を受け入れてくれたんだ。答えなんて、聞かなくてもわかる。


 舌に残る巡の味に酔い、自惚れていた。


「……信くん」


 赤みを帯びた巡は今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 自分のすべてを認めてもらい、安心しきった巡は無防備に心を晒した。こわばりもなくなり、脱力して俺にすべてを預けた。巡は俺の首に腕を絡めた。


「甘えられるの、信くんしかいないから……信くんならいいなって思ってた。好きになってもいいの?」


 わかったようなことを聞くのも巡らしかった。


「あぁ」


 俺は相づちを打ちながら、巡の目尻を親指で押さえた。こぼれる前に涙を拭う。


「僕も好きだから……」


 濡れた親指で巡の唇に触れ、しつこくなぞった。


「わかったから。もう喋るな。」


 巡は小さく頷いた。腕の中でねだるような、甘えるような顔で俺を見上げる。


 この表情を何度向けられていたことか。

 ずっと煽られていると勝手に思い込んでいた。実は巡も俺を意識していたのなら笑ってしまう。

 遠回りして避けようとしてきた道は、やっとひとつに繋がった。もう避けなくていい。幾度となくかわしてきた誘惑には、乗ってしまえばいい。


 手を重ね、指を絡める。体温を感じながら、再び唇を重ねた。巡のひんやりとした手のひらが心地よく、余計に吐息の熱を感じた。


 苛立ちも焦れったさも、今日のためにあったのなら、きっとすべては無駄じゃなかった。やっと報われたような気がした。


 燃え盛る炎のように、俺たちは昂揚を止められなかった。何度も唇を吸って、互いの味を確かめた。ほろ苦さ、酸っぱさの後に甘さが押し寄せた。きっとこれは、これから始まる巡との恋の味だ。


 今度は巡の頬に唇を落とす。唇の間で頬を()み、吸いついた。初めて頬に口づけた時よりも、強く、深く。


「んっ……」


 巡の甘い声が漏れる。驚いたようにも見えた。俺の形に赤くなった頬に、巡が手を添える。


「……びっくりした」


 無防備だった頬に不意を突かれ、巡は気が抜けた様子だった。

 俺が何をしても、なぜこんなことをするのかと驚いた顔をする。そんな巡がとにかく可愛かった。


 恋だとか、愛だとか。お前が自覚しなくても、俺がその頬にわからせてやる。何度だって、こうやって。

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