勇気
ぼくはひとりで歩き始める。
さっきは気づかなかったけれど、かすかに本の匂いがする。
もしかしたら陽平くんは、このにおいに酔ったのかな。
これからどうしよう。見知らぬ人に話しかけるなんてできるかな。
いや、やるんだ。なやんでいるわけにはいかない。
陽平くんと約束したのだから。ヒーローにたのまれたのだから。
キサラギジャックを知っていそうな人ってどんな人だろう。
ヤクシのおじいさんが知っていたからお年寄りがいいのかな。
白髪の人や顔のしわが多い人をさがす。
すぐに同じくらいの年の人が見つかった。机がある席に座って本を読んでいる。
話しかけようと思ってやめた。読書のじゃまをしたらいけないと思ったから。
その後もひとり、ふたりと見つけられた。
けれど、声をかけることはできなかった。
本を読んでいたからではない。
知らない人に声をかける勇気がなかったからだ。
陽平くんとの約束を守りたいのに、どうしても緊張して声が出なくなってしまう。
ぼくは、今度こそ話しかけるぞ、と気持ちをきりかえる。
こちらに向かってゆっくりと歩いてくる人がいた。
肩までかかる髪をゴムでしばって、しわのない若い女の人だ。
ぼくは、その人から目をはなすことができなかった。
「あの、すみません」
気づいたら声が出ていた。
その声はとても小さかったけれど、相手の耳にはとどいたみたいだ。
「こんにちは」
白いワイシャツに紺色のエプロンをしている女の人。首には名札がかかっている。
それを見て不安になる。さっきの男の人みたいに話を聞いてくれないかもしれない。
「大丈夫? 顔が赤いよ?」
その人は、しゃがみ込んでぼくと目線を合わせて話してくれる。
その時、ふわりといいにおいがする。せっけんのにおいみたい。
それが本のにおいと合わさって鼻をくすぐってくる。
「だ、だいじょうぶです。あの、ここではたらいている人ですか?」
なんとか言葉が口から出てきてくれた。
「わたし、清里みらい。この図書館で司書をやっているの」
「きよさとさん?」
「みらいでいいよ。それとも、おねえさんの方がよびやすいかな?」
みらいさんはニコリと笑う。
不思議だ。陽平くんの笑顔を見ると、ぼくはすごく落ち着く。
けれども、この人の笑顔を見たら胸がドキドキして落ち着かない。
「わたしになにかご用かな?」
「あの」
「うん。なあに?」
「な、夏休みの宿題で、読書感想文があるんです。それで、本をさがしていて……」
ああ、やってしまった。陽平くんごめんなさい。
本当は、キサラギジャックを知ってますかって聞かなきゃいけないのに……。
「きみは、小学生?」
「はい。3年生です」
「じゃあ、あなたのためにオススメの作家さんを紹介してあげる」
あなたのために、という言葉を聞いて顔があつくなる。
「よ、よろしくおねがいします」
まっ赤になった顔をかくすために、ぼくはペコリと頭を下げる。
みらいさんは、口元に手を当てながら考え込む。
その真剣な表情を見て、さらに胸がドキドキする。
不思議と、いつまでも見ていたい気持ちになってくる。
「そうだ。きさらぎあさひさん」
「きさらぎ、あさひ?」
聞こうと思っていたヒーローの名前とすこし似ている。
「もしかして、読んだことある? 児童書をたくさん書いている人なんだけど」
みらいさんは、うれしそうにたずねてくる。
「読んだことないです」
ぼくは首を横にふる。
「自然の多いところを舞台にした作品が多くてね、子どもたちがのびのびと描かれているところが好きなんだぁ。そうそう、城江津市に似た町が出る作品もあるんだよ」
「じゃあ、きさらぎあさひさんは、この町の人ですか?」
「うーん、たしかちがうと思うよ。それに最近は新刊を出していないから、どこでなにをしているかわからないの。でも、また物語を書いてくれないかなぁ」
やっぱりキサラギジャックとは関係がなさそうだ。
それでも、聞かないわけにはいかない。
「あの、すみません。もうひとつ、聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「もちろん。わたしに答えられることならなんでも聞いて」
今度こそぼくは、本当に聞きたかったことをたずねる。
がまんせず、聞きたいことをハッキリと言葉にする。
それは陽平くんとの約束であり、ぼくが本当に知りたいことだから。
「キサラギジャックを知っていますか?」
言った。言いきった。ハッキリと言ってみせた。
やった。やったよ、陽平くん。
キサラギジャックのことをちゃんと聞けたよ。
ぼくは心の中で何度もよろこぶ。
けれど、みらいさんは、どう思うだろう。
「キサラギジャック?」
みらいさんは、おどろいたのか、こまっているのか、目を丸くしている。
そんな名前、ふつうに生活していたら耳にしないから無理もない。
アニメやマンガのキャラの名前とかんちがいされたかもしれない。
けれどちがう。キサラギジャックは――。
「この町のヒーローです」
ぼくは、キサラギジャックについて知っていることをすべて話す。
「だれも姿を見たことがないけれど、たしかにいると言われています。いつも城江津市のことを見守っているんです。ぼくの友だちがずっと憧れている、ヒーローなんです」
ぼくにとって生まれて初めてのことだ。
会ったばかりの人とこんなに長く、大きな声で話すなんて。
自分でもビックリしている。
けれど、おどろくことはそれだけじゃなかった。
みらいさんの口から思いもしない言葉が返ってきたから。
「わたしね、キサラギジャックに助けられたことがあるの」
今度は、ぼくが目を丸くする番だった。