物知りじいさん
城江津市に引っ越してから初めての夏休み。
ラジオ体操から帰ってくるとすぐに朝食を食べた。
食器を片づけて、ベランダで洗濯物)を干しているお母さんに声をかけた。
「友だちのところへ行ってくる」
お母さんは、車に気をつけていってらっしゃい、と言った。
ぼくは筆箱やノートが入ったカバンを持って家を出る。ぼくたち家族が住んでいるのはマンションだから、部屋と言う方が正しいのかもしれない。
エレベーターで一階までおりるとすぐに駐輪場へ向かう。たくさん並ぶ自転車の中から青色の車体を見つける。お父さんに買ってもらったぼくの自転車だ。
サドルに腰かけて、ペダルに足を置いて、力強くこぎ出す。
ぼくの家から陽平くんの家まで自転車なら15分くらいで着く。
お母さんに言われた通り、車に気をつけて安全運転で行こう。
城江津市は自然が多い町だ。
周りを見わたすと田んぼや畑、山や川が目につく。
前に住んでいたのは都会で、ビルばかり建っていて木を見ることは少なかった。
ぼくは、どちらかと言えば前よりも今のほうが好きだ。
だって、灰色よりも緑色を見ることが多いから。
ぼくの名前は灰塚拓也。
ひらがなで書いていた時はよかった。
けれど、漢字で書くようになってから心の中がモヤっとするようになった。
いや、ちがう。あれは図書室で本を読んでいた時、あの言葉を見つけてからだ。
灰という字の意味を国語辞典で調べてから、自分の名前がきらいになったのだ。
「灰色の人生なんて……いやだなぁ……」
自転車のハンドルをにぎる手に力がこもる。
街を抜けて山の方へ向かうと、だんだん灰色よりも緑色が多くなっていく。あの山は『ヘビ山』と呼ばれているらしい。その理由は、ヘビがたくさん出るから。
終業式で校長先生が、帰りの会で担任の先生が、くり返し注意していたから本当だろう。城江津市で生まれ育った子どもたちは、昔からこんなことを教わるらしい。
「わるいことをするとヘビ山に置いてくるぞ」
それを聞くと、いまだにブルブルとふるえる子もいるんだって。
ヘビ山は、それくらいこわい場所らしい。
だからぼくも、ぜったい行かないと決めている。
それなのに、今まさにヘビ山へ向かって風に乗って自転車をこいでいる。
なぜなら、陽平くんの家がヘビ山のちかくにあるから。
だから、行く時と帰る時は、ヘビが出ないかといつもビクビクしている。
道の右と左に木があらわれ始める。そうしたら、もうすぐ川が見えてくるはず。
太陽の光がぼくと自転車を照らしている。おでこから汗が流れてきた。
おでこを片手でぬぐって前を見ると、橋のたもとで男の子が手をふっている。
「おーい! 早くこいよー!」
陽平くんだ。
ぼくは急いで向かう。
「おまたせ」
「よし、行くか」
陽平くんは、ゆっくりと歩き始めた。
「あれ、陽平くんの家に行くんじゃないの?」
彼の家は橋を渡ってすぐのところにある。けれど、すでに通りすぎてしまった。
このまま歩いていくとヘビ山に入ってしまう。
「安心しろよ。ヘビ山には行かないから」
陽平くんがニカッと笑う。
すこしホッとする。
けれど、それならどこへ行くのだろう。
「ヒーローのことを調べるんだよね。えーと、名前は」
「キサラギシャックだ」
「キリサキって……なんかこわいね。人をころしそうな名前」
「ちがう! キリサキじゃなくてキサラギ! キサラギジャックは正義の味方だぞ。この町のヒーローだぞ。どうしてヒーローが人をころさなきゃいけねぇんだよ!」
「ご、ごめん。キサラギジャックだね」
ぼくは、頭の中で『キサラギジャック』という言葉を何度もとなえる。
「ぜったいだぞ。まちがえるなよ」
陽平くんは念おしする。
アスファルトの道から砂利が敷き詰められた道に変わる。
自転車がガタガタと音をたててゆれる。
気をつけないと砂利に車輪が取られそうになる。
ヘビ山には行かないと言っているけれど、陽平くんの家からそれなりに歩いた。
「それで、これからどこへ行くの?」
「もう着いたぞ」
「え?」
陽平くんが指さす先を見たら家があった。木造の古い家だ。
壁から屋根まで植物のつたがからまっているせいで気がつかなかった。
それにしても古い。今にも崩れてしまうんじゃないかと不安になる。
人が住んでいるとは思えないし、ここになにがあるんだろう。
ここがキサラギジャックの住処……なんてことないよね?
ぼくがあれこれ考えているうちに、陽平くんはずんずんと進んでいく。
「じいちゃーん! キサラギジャックのこと、また聞かせてよー!」
陽平くんは、古い家の戸を開いてよびかける。
うす暗い玄関には、ボロボロのサンダルや泥のついた長靴が散らばっている。
「その声は、カメヤキのところの陽平だな。入っていいぞー」
おくから声が返ってきた。男の人の声だ。もしかして、陽平くんのおじいさんかな。
でも、カメヤキ、ってなんだろう。
これも聞いたことがない言葉だ。
「おじゃましまーす!」
陽平くんは、すぐにくつを脱いで家にあがる。
もう何度もここに来たことがあるみたいだ。
なれた手つきで壁のスイッチをおした。
うす暗かった玄関がパッと明るくなって、はっきり見えるようになる。
「拓也も早く入れよ」
「いいの……?」
「いいんだよ。じいちゃんは、子どもが好きだし、話をするのはもっと好きなんだ」
その言葉を信じてくつを脱いであがる。
陽平くんが前に立って歩き、ぼくは後からついていく。
おくのふすまを開けると、白髪頭で肌の色が黒いおじいさんが座っていた。
窓の外には小さな畑がある。よく外に出ているから日に焼けているのかな。
「今日はひとりじゃないのか。初めて見る子だな」
おじいさんは、ぼくのことにじっと目を細めてこちらを見る。
「お、おじゃまします。灰塚拓也です」
初めての人と話す時は緊張する。けれど、なんとかあいさつできた。
「いらっしゃい。ゆっくりしていきなさい」
おじいさんの笑顔は、どことなく陽平くんの笑顔に似ている気がする。
けれど、あまり似ていない気もする。
うーん、どっちだろう。
「ハイヅカ? ここらへんの子か? そんなヤゴウは、聞いたことがないな」
「ちがうよ。灰塚は苗字だし、今年の春に都会から引っ越してきたんだよ」
ぼくの代わりに陽平くんが説明してくれた。
「そうか、そうか。あそこには、毎年冬になると出稼ぎに行っていたんだ。ここらへんは、雪がドカッとふるだろ。冬のあいだは、畑も田んぼもなんもできなくなるからな」
おじいさんは、昔をなつかしむように語り始めた。
まだ高速道路も新幹線も通っていない時代のことらしい。
「そんなことよりじいちゃん。キサラギジャックのことを話してくれよ」
陽平くんが目をキラキラさせながらせがむ。
「キサラギジャッコウ?」
おじいさんは首を大きくかしげる。
「キサラギジャック! この町のヒーロー! キサラギジャックだよ!」
「ああ、キサラギジャッコウか。キサラギジャッコウの話を聞きたいなら早く言え」
「何度も言ったよ。それからジャッコウじゃなくてジャックだよ」
いつも明るく元気な陽平くんの知らなかった一面を見られてたのしい。
それだけでぼくは、夏休みが始まってよかったと思った。
「なら話してやろうか。カメヤキは、昔から好きだったものな」
「ああ。キサラギジャックは、おれのヒーローだからな!」
ぼくのヒーローがあこがれるヒーロー。
それはいったい、どんな人なんだろう。
「キサラギジャックは城江津市のヒーローだ。困っている人がいたら助ける。わるいことをする奴がいたらこらしめる。正義の味方、英雄、この町のヒーローだ。いつもこの町を見守ってくださっているんだ」
いつもこの町を見守っているって……なんだか、神様みたい。
「でもなぁ、キサラギジャッコウを見た人は、だーれもいないんだ」
「じいちゃん。どうしてキサラギジャックは姿を見せないんだよ?」
「わからん。キサラギジャッコウは、はずかしがり屋なんだろう」
おじいさんは、窓の外を見ながらほほえんだ。
窓の外には畑があるだけだ。野菜たちが元気に顔を出している。
遠くにはヘビ山が見える。山にはあざやかな緑が生い茂っている。
「あの、キサラギジャックは、本当にいるんですか?」
陽平くんやおじいさんの言うことを信じていないわけではない。
名前はわかっているのに、だれも姿を見たことがないなんて、どうなんだろう。
思わず聞いてしまった。聞かずにはいられなかった。
黒田くんとの勝負にぼくが負けるだけならいい。
けれど、陽平くんが黒田くんに負けてしまうのはいやだ。
ヒーローが負けるところなんて見たくない。
窓の外を見ていたおじいさんがこちらを向いてハッキリ言った。
「キサラギジャッコウはいる。この町のヒーローだからな」