第六章 赤き明滅の向こう側
生きる為に、絶望の谷底から早苗の反転の第一歩が踏み出される。
狩場早苗が、目を覚ました時、部屋の中に男は戻っていなかった。
替わりに遅い夕闇が、この獣の巣のような部屋に入り込んでいた。
〜寒い〜
早苗は全裸である、五月の終わり、初夏とは云え、夕暮れ時の部屋の中は、裸でも平気と云う訳にはいかない。
〜あの男、何故戻って来ないんだろう〜
今までも、早苗の手足を縛り上げてから、外出することは何度も有ったが、30分くらいで必ず帰って来ている。はっきりした時間は判らないが、男が出て行ったのは昼前の筈である、おそらく今は、午後六時ぐらいだろう。
男の身に何か有ったのだろうか?
〜寒い〜
早苗は、すっかり暗く為ってしまった部屋の中で、身体を起こした。
取り敢えず、このガムテープを外そう、身体の自由を取り戻しておこう、あの男が戻って来て騒いだとしても構うものか、それにもし戻って来なかったら、このままではまずい。そう思うと、思考力が戻って来た。
一時間程も掛かったろうか、ガムテープは外れた。
手首をグルグル巻にしてあるテープを剥がす事に早苗はかなり手間取ったが、手の自由を取り戻せば、足の方は簡単だった。
早苗は部屋の隅に脱ぎ散らかしてある下着や衣服を身につけ、此処を逃げ出す為にはどうするかを考えた。
突然の恐怖と絶望に見舞われ茫然自失と為っていた早苗は、このガムテープを剥がすことに熱中する間に、不思議にも普段の自分を取り戻していた。
早苗のバッグも部屋に有ったが、その中に、今の彼女が、一番必要とする携帯電話は、やはり無かった。
不思議だったのは、財布が有ったことだ、中の現金も残っている。
野中晴夫は、僅かな所持金を使い切り、無一文に成っていた時に早苗に遭遇したのだった、それからは早苗の財布の現金を便りにこの数日を過ごしていた。金が必要になると、野中は早苗の財布から必要な分だけ抜き取り、財布はバッグに戻していた。
何故そうしていたか、その心理は解らないが、野中は財布を取り上げる事はしなかった。
〜人に死ぬより辛い苦しみを与えておいて、財布の金は、全部は盗らない。
だから自分は、そんなに悪人では無いとでも言いたいのか〜
そう思うと、早苗の心に、怒りが込み上げて来た。
私のなにもかもを奪い、踏みにじり、それでもどこかで許されたいという思いを持っているのかも知れない男のズルさが堪らなく腹立たしく、『許さない!』
いつの間にかすっかり暗く為ってしまった部屋の中で、早苗は叫んでいた。
開く訳が無いと解っていた玄関のドアは、やはり開かなかった。
外側から鍵がかかっていた。
窓も全部ベニヤ板を使って目張りがしてあるし、たった一カ所だけ、それが無いトイレの小窓は小さすぎて、そこからは、到底逃げることなど出来るものではなかった。
早苗は、部屋の電灯を点けた。
改めて見渡してみると、ここは汚いだけでなく人が住んでいる事が信じられないほど、何も無い部屋だった。
早苗は狭い部屋をせわしなく動き回って、逃げ出すための手立てを探し出そうとしたが、これといった物を見付ける事は出来なかった。
早苗は、野中に拉致されてから初めて空腹感を覚えた。〜何か食べなくては〜
急に動いたせいだろう、目眩が酷い。
玄関脇の、小さく仕切られた台所にほうり出されたように置かれた小型の冷蔵庫が有ったのに気が付いて、早苗は、中を見た。
缶酎ハイの缶が二本と口の開いた鰯の蒲焼きの缶詰、魚肉ソーセージが一本、ガランとした白い箱の中に有った。
〜これでも好い食べておこう〜
魚肉ソーセージは、開封されていないので腐っていることはまず無いだろうと早苗は思い、それにかじりついた。〜美味しい!こんなに美味しい物だったんだ〜
空っぽの胃の中に入り込んだ魚肉ソーセージが引き金で食欲は一気に旺盛に成り、早苗は缶詰に手を伸ばした。
鼻を近付けるが、腐敗している様子は無い。
これも手づかみで口に放り込む。
缶酎ハイのプルトップ引き上げ、半分程を飲み、一息ついた。
早苗は、身体に体力が戻って来るのを感じていた。
その時だった。
早苗は、冷蔵庫と壁の隙間に、何か金属製の棒の様な物が覗いていることに気が付いた。
〜何?〜
引っ張り出して見ると、それは釘抜とドライバーだった。
〜これで何とか成るかも〜早苗は跳びはねたい衝動に駆られた。
〜窓のベニヤ板を外せるかもしれない、いや絶対外す〜
窓をもう一度見てみる、ベニヤ板は、ネジや釘で打ち付けられているのでは無く、多分金属にも使える接着剤で貼り付けている様だ。必死にドライバーを差し込める箇所を探す。幸運にも、丁寧な仕事をしていない。
あちこちにドライバーの先端を差し込める所は有る。
早苗は、釘抜きを金槌の替わりにしてドライバーを隙間深く差し込み、ベニヤ板を剥がしにかかる。
メリメリと云う音を発ててベニヤ板は窓枠から剥がされて行く。
分厚いベニヤ板が剥がされて曇りガラスが姿を現す。
窓ガラスの向こう側に広がっている見えない夜の闇の中から、赤く点滅する輝きは信号機のものだろうか、曇りガラスに滲む赤の明滅を眺めているうちに、一度は粉々に砕け散った心の内側から生きる事への強い思いが湧き出して来るのを早苗は感じていた。
〜あんな男の為に自分の人生を駄目になんか出来ない〜
もしも、あの男が今、此処へ戻って来ても、早苗は恐くは無かった。
手に、握りしめたドライバーをあの男の胸に突き立てても、ここから抜け出して見せると、独り心に誓う早苗だった。とともに、萎え切っていた心に気力も取り戻し始めていた。