第五章 闇の底
忙しく平穏に過ぎ行く日常に潜む恐怖に搦め捕られてしまった早苗に明日は来るのだろうか。
狩場の家で、早苗が帰宅していないことが判ったのは翌朝になってからだった。
運悪く、夕方から義父の直治の来客が在り、夜遅くまで酒宴が続き、早苗が帰宅前に携帯から入れた連絡も、義母の佳代子は接客に慌ただしいさなかで、早苗の話を聞くだけで電話を切った。
早苗の秘書と云う仕事柄もあって、佳代子は別段気にも留めなかった。
来客が帰ったのは、午前零時を少し回った頃、佳代子は玄関先で来客達を見送った時に、10年前にスイスで買ったアンティックの柱時計に眼をやり、たしか早苗は会社を出る時に電話をくれたはず、それも9時頃だった、30〜40分もあれば…とは思ったが、あまり得意とは云えない酒を付き合わされて酔いが回っていたせいもあり、客を帰した後、かなりの疲れを感じ、はやばやと二階の寝室上がってしまった。
直治の方もかなりの酒量だった為に応接間のソファに横になると、そのまま鼾をかいて眠ってしまい、住み込みの家政婦の駒井佐和子が毛布を掛けて応接間の電気を消した。
誰も、狩場早苗の身に起こった事など夢想だにしなかった。
翌朝午前6時30分、家政婦の駒井佐和子が自分の部屋を出て朝刊を取りに行く。玄関を開け、芝生の中を仕切るように黒御影石が人一人が歩ける丁度好い幅で敷き詰めて在り、朝露に濡れて打ち水をした様に朝日を受けて光っている。その上を履き馴れたサンダルの音を立てながら門扉の処に在る新聞受けに向かう。
空はまさに五月晴れだった。
朝日が眩しい。
朝早いからだろが、空気は冷たい。
きっと今日も暑くなるだろう、などと独り思いながら、五社分の朝刊を抱えて家の中に戻る。
雨戸を開け、キッチンに行き昨夜の食器を洗い、朝食の仕度に取り掛かるいつもの日課だ。キッチンの隅に置かれた小型の液晶テレビの画面表示が7:30に成って初めて駒井佐和子は、いつもと違う変化に気付く。
早苗が部屋から出て来ない、この時間には一階奥の早苗の部屋のドアが開いて佐和子さんおはようございますと言いながら、ダイニング・ルームにやって来て弾けるような笑顔を向けてくれる。
判で押したような狩場の家の朝の風景である。
それが、今日は無い。小さな胸騒ぎを感じて、佐和子は廊下を小走りに早苗の部屋のドアの前に、そしてノック。
中から返事はない。
もう一度ノックするが、やはり返事はない。
ドアノブに手を掛け押してみる。
ドアは静かに部屋の中に向かって開いて行く。
佐和子はドアに引っ張られる様に部屋の中に、庭に面した窓のカーテンは閉ざされたままで、暗い部屋の中に早苗の姿はない。
早苗は無断外泊などした事はない。佐和子の小さな胸騒ぎは一気に膨れ上がり、二階に向かう。
佳代子の寝室の前で声を掛ける。
『あの〜奥様、奥様』
既に目覚めていたのだろう佳代子は寝間着も着替えていて、佐和子の唯ならぬ気配を感じてか直ぐにドアを開けて出て来た。
『佐和子さん、どうかしたの』
『はい、それが早苗お嬢様がお帰りに成ってらっしゃらないんです』
『あら、変ね、たしか昨夜は9時頃に電話をくれて、私も忙しくしてたものだから詳しいことは聞いてないんだけど、遅くても、10時前には帰ってる筈よ』
『いえそれが、お部屋にはいらっしゃいませんし…帰られた様子が在りません』『会社の、何か、急な用とかで…』
佳代子は自分の言っている事が有り得ないことだと判っていた。
『警察に届けたほうが、よろしいのでは…』
家政婦の駒井佐和子は、言いづらそうに佳代子の気持ちを察しながら切り出した。
『そうねェ、そうしましょう』
一瞬の沈黙の後、佳代子は意を決して階下へと、階段を降りはじめた。
応接間で眠ってしまった夫の直治を起こすと、簡潔に昨夜来の出来事を説明し、応接間の電話から警察に連絡をした。
佳代子の迅速な行動は、いつもの穏やかな、どちらかと云えばおっとりとした令夫人の様相とは打って変わって、佐和子の目を見張らせた。
若き日より狩場の家に嫁いだ後も暫くの間、大病院の筆頭看護師長として活躍して来た彼女の数え切れないであろう修羅場を踏んできた経験の為せる技だった。
警察に連絡を済ませると、続いて早苗の会社への連絡、婚約者の佐藤雅之の職場は早苗と同じ会社だったが佳代子は一度電話を切ってから、改めて個人の携帯に連絡を入れた。
佳代子から事の次第を聞かされた婚約者の佐藤雅之は『えっ』と言ったきり暫くの間、沈黙してしまった。
『とにかく、仕事を片付け次第そちらに行きます』緊張気味の声で佳代子にそう伝えると電話を切った。
地元の警察署から私服の刑事がやって来たのは、佳代子が警察に通報してから30分程経った頃だった。
早苗の失踪が、勿論この時点では失踪かどうかも結論付けられてはいなかったのだが、誘拐事件を扱う特別なチームは動かなかった様だ。
何かの事件に巻き込まれた可能性は捨て切れないものの、今の段階ではどちらとも、といった処か。
狩場夫妻は応接間で二人の私服刑事に事情を聞かれていた。
直治の方は事情がやっと飲み込めたと云った様子だったが、子の無い狩場夫妻にとって実の娘以上とも云える早苗が居なくなった事は大変なことであり気丈に振る舞う佳代子の表情にも、悲しみと苦悩の色がハッキリと浮かんでいた。
午後に成っても、早苗から連絡はなかったし、誘拐犯とおぼしき人間からの連絡も無かった。誘拐事件の可能性が残っている為に、既に報道規制が敷かれていた。
近隣住人もまだ早苗が事件に巻き込まれたらしい事を知る者は居ない。
狩場の家の中の空気だけが鉛のように家族にのしかかり、纏わり付くのだった。
婚約者の佐藤雅之は午後になってから狩場邸に到着し、狩場夫妻に挨拶をしたのだが、この状況下での挨拶など経験が有る訳もなく、どこかぎこちない挨拶は言葉も少なく、雅之は早々に刑事達の居る応接間に向かい、簡単な事情聴取を受けていた。
警察も婚約者の佐藤が早苗の失踪に関与しているとは思っている訳ではなかったが、早苗の失踪の理由や原因が、まったく判らない状況なので、手当たり次第にでも関係者から話を聴き、糸口を見つけようとするしか方法がなかった。
夕方近くに成って動きが有った。
狩場邸の裏側に面した通りで、女性物のハンカチを拾った近所の住人が居たことが判明したのだ。
その住人は、狩場邸の近くに住んでいる並木絹枝と云う65歳になる主婦で日課にしている犬の散歩の最中にいつも通る狩場邸の裏手でそのハンカチを拾い、そこから5分程の所に在る交番へ届けようとしたが、まだ朝が早かった為に、買い物の時にでも持って行けばいいと思い直し、自宅へ持ち帰っていた。
昼近くに来客があり買い物に行けなくなってしまったが、たまたま聴き込みに廻って来た交番の巡査にハンカチを拾ったことを話し、それを手渡したのである。
並木絹枝がハンカチを拾ったのは午前5時だった。
狩場夫妻の許へそのハンカチが届けられた。
遺留品を入れるビニールの袋に収まったレースで飾られた白の女物のハンカチを刑事から見せられた夫妻は、それが早苗の物かどうかの、判断に困っていた。
その時、婚約者の佐藤雅之が、『刑事サン、それ間違いなく彼女のハンカチだと思います。』
『確かですか?』
『えぇ、確かです。』
佐藤雅之は、そのハンカチが何故、早苗の物だと云えるのかを手短に説明した。
まず、このハンカチに染み込ませて有るコロンの匂いが、早苗がいつも使っていた物と同じだという事。
このハンカチはイタリア製であるが、レースの部分のデザインがまったく同じイタリア製のハンカチを、プレゼントした事が有るが、何処にでも売っているような品物では無いし、この家の近くでということもあるし、早苗の物で無い方が不自然だと思う、と云うことだった。
刑事達も、雅之の話はもっともだと思ったが、科学的裏付けを取るために、このハンカチを鑑識に廻すことになった。
『刑事サン、彼女はもう…』『まあまあ、まだ誘拐されたと決まった訳じゃ無いですから、お気持ちは判りますが、あまりネガティブに為らないように。
『えぇ…判ってます。』』 雅之の声に力はない。
翌年には結婚が決まっている相手が突然いなくなっしまったのだから、穏やかで居られるわけもない。
初夏を思わせる一日が終わろうとしている。
早苗の消息は依然、判らないままだった。 早苗には、タクシーを降りたあの夜から今迄に、何日が過ぎ、今が何時なのかも判らなくなっていた。
見ず知らずの男に拉致されて、車に押し込まれ、あちこち連れ回された揚げ句に何度も何度も犯され、恐怖と屈辱に踏みにじられ抵抗する気力も失せてしまった。
早苗は、薄汚れた天井を眺めていた。
手と脚をガムテープで縛られている。
何も無い部屋の壁際に薄い夜具が敷かれ、早苗はそこに全裸のまま転がされている。
男は、30分程前に早苗の中に果てた後、手脚を縛りながら食料を買いに行く馬鹿な真似はしないで待っていろと言い残し、早苗のバッグから財布を抜き取り、部屋を出て行った。
もう早苗には逃げる気力も、怒りも、悲しみも、一切の感情が消えていた。
涙も涸れてしまったのか、瞳を濡らすことも無い。
汚れたシーツに包まり、壁際に寝返ると眼を閉じた。
眠ろう、それがいい、そして眼が覚めた時には、見慣れた自分の部屋の天井が見えるかもしれない、今日迄のこの忌まわしい出来事がすべて悪夢で、いつもの日常がリセットされて…いや、きっとそうだ。
眠ろう。
眠れば…いい。
早苗は、吸い込まれるように、深い闇の底に落ちて行った。