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第三章 闇に潜む恐怖

 野中晴夫は朝から神経がたかぶっていた。

茨城県の農家の次男に生まれ、ごく普通の少年時代を過ごし、高校は県立の農業高校に入学した。

だからと言って、特別農業に興味が有った訳ではなく、世間体を考えて高校くらいは出ておくようにという両親の思惑だった。

入学して二ヶ月くらいは、真面目に通学していたようだが、その後は遅刻、早退を繰り返し、無断欠席もしばしばという状態だった。

もちろん成績は良い訳も無く、担任の教師を始め学校側の配慮で何とか進級は出来たが、野中は高校二年の夏休みに、ある事件を起こしてしまう。

─ 彼が起こした事件─。


それは同じ高校に通う三年生の女子生徒に対しての痴漢行為だった。

相手側が告訴しなかった為に、警察沙汰には為らなかったが野中は退学処分に為る。

地方の町のこと噂が広まるのは速い。

野中晴夫は故郷を追われる様にして東京へ向かう。最初の就職先だった土木工事の会社を辞めた後は、様々な会社を些細な理由で辞めている。

忘れた頃に、実家に連絡をしてきている為に、行方不明と云うことには為らないのだろうが、両親も彼が何処に住み、何をして暮らしているのかが判らなく為って、三年以上が経つ。

もっとも、電話の連絡は金の相談ばかりなので、まともな生活を送っていない事は容易に想像がついた。

実際のところ、野中晴夫は故郷を後にしてから今日まで、光の届かない世界の隠花植物のように都会の片隅を転々としながら生きていた、その間に幾つもの罪を犯し、発覚していないものを含めて、三人の女性を殺害し六人を強姦し、他に二件の未遂に終わった犯行も有った。

未遂に終わった二人を含む八人の被害者からは、告訴はされていない。

三人の殺人については、一件を除いては被害者の遺体が発見されていない為に、事件にすら為っていない。発覚している一件にしても、足立区内の河川敷で身元不明の女の腐乱死体が発見され、司法解剖の結果、体内から男の体液が検出されたと云うだけで、その体液が誰の物か特定される訳も無く、事件はやがて慌ただしく過ぎて行く都会の流れの中に飲み込まれて行った。

野中晴夫の中で、自分が犯罪者だと云う意識は次第に薄れ、反対に自分は捕まることは無いんだという根拠の無い確信が生まれた。 その野中晴夫は、空腹と抑え切れない情欲を持て余していた。

「腹減った…」

力無く野中は呟く、

二日前にパンを食べてから水以外は口にしていない。飢えは性欲を減退させるものなのか定かではないが、少なくても、野中の場合は違っていた。


長い五月の昼間が西の空から暮れて行き、朱ね色の夕焼け空は、裾の辺りから、紫色に変わり始めて夜がやって来た。


その数時間後、狩場早苗は疲労に背中を押されるように眠りの底に引き込まれていた。

「お客さん、お客さん!」

運転手の声で、早苗の眠りは破られた。

「お客さんの言ってた三丁目は此処らへんだと思うんだけど…」

タクシーが停まった場所は早苗の家から通り一本南側だった。

家までは歩いても三分とは掛からない近さだ。

「あぁ此処で結構です、此処で降ります。」

運転手は、家の前まで車を着けると言ったが、早苗は料金を支払いタクシーを降りた。

タクシーが走り去ると、街路灯の辺りを除いて、漆黒の闇が拡がる。

車の流れはもちろん、人の歩く姿も無い。夜風の心地良さに誘われて早苗は、家の裏手に当たる通りを歩きはじめた。

点滅信号の赤が明滅している十字路までは50〜60メートルだろうか、そこを右折して一本目をまた右折すれば、すぐに狩場の家の門が見えて来る。早苗の足の運びは、少し速まり、十字路を右に折れ建物の塀が高く巡らされた通りのガードレールとの間の狭い歩道を歩く。

人ひとりが歩けるだけのスペースですれ違うことすら容易には出来ない、その時だった。

早苗の家の在る通りの方から人影が現れ、こちらへ歩いて来る。

夜遅いとはいえ住宅街のこと、人が歩いて居ても不思議ではないのだが、早苗はその人影に少し怯えていた。

男性だというのはわかっていた。

直ぐ前に人影が迫った時、早苗は歩を止めて相手をやり過ごそうとした、嫌な予感が頭の隅の方に燈り、直ぐに消えた。

男は、早苗の横をすり抜ける様に通り過ぎる。

汗の煮詰まった()えた臭いが、鼻腔を突く。

今、早苗の横を通り過ぎようとする男の、伸ばし放題の髪といい、吐息といい、身体全体から発散する悪臭が早苗に嫌悪と恐怖を呼び起こした。


「たまらねぇ…」

確かに早苗は男が呟く声を聴いた。


早苗の首に男の腕が絡みつき、早苗は身動きがとれなぃ、突然襲い掛かって恐怖に、叫び声をあげることすら出来ないでいる。


閑静な住宅街の夜。


狩場早苗の身に起こっている恐ろしい出来事に気づいている者は居ない。

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