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第一章 葉 桜

三月に為った。


朝晩はまだ冷え込むが、三月と聞いただけで春を感じるのは何故だろうか。


田中は、さすがに手慣れたもので、仕事は速かった。

二月の終には店内の図面は、平面図はもちろんのこと、詳細図から仕様書に至るまで調い、内装工事が始まった。

私の方も、慌ただしく動き出していた。

開店のための許可申請の手続きやら、従業員募集の為の告知の準備、そして面接。

食器類とインテリア洋品の選択と買い付け。小さな店でも、開店するとなるとあれやこれやと仕事は多い。

おまけに、私が未経験者という事も在ってか要領も悪く、スムーズに事は進まなかった。

これで、田中の後押しも無かったら、私は多分投げ出していただろう。


店は、四月の半ばに完成した。


保健所の許可がまだ下りていない為に営業は出来ないで居るが、それも後十日も経てば下りる筈だ。取引業者も田中の紹介で、酒屋から割り箸を扱う包装資材業者から、清掃業者まで、店を経営をする為に、付き合う必要が有る業者は、ざっと計算しても三十社を超える。

業界誌に出している募集広告の反応はいまひとつで、採用が決まった者は居なかった。

私の予定では、厨房を任せる人間が一名、その補佐役が一名。

カウンターの中のバーテンダーが一名、女子スタッフが数名、女子スタッフの場合パートタイムが主流に成るため、カウンターの中には二人居れば充分なのだが、交代で働いてもらう都合上多めに募集をしておく必要が有った。


店は、玄関ドアに対して細長く奥へ伸びている、いわゆる『ウナギの寝床』型で、カウンターには九人の客が腰掛けることが出来、後ろの壁一面を使ったボトル棚はかなり余裕を持って造って在り、後ろは鏡張りなので、いろいろなボトルで埋め尽くされ、(しつら)えた照明に灯が入った時には、さぞかし壮観なことだろう。

反対側の壁に沿ってボックス席が四席それぞれ四人掛けである。

全体的には青を基調にしてあり、所々壁にはアクセントとに漆喰(しっくい)の欠き落としを用い、その他の壁材は粗い布目の白んだ青、日の出前の蒼白感を出したかったのだ。

店の屋号は、あれこれ迷った揚句、『凪』(なぎ)に決めた。

意味は特に無い、と言ったら無責任な話だが、穏やかな海、静かな海の底のような空間の店を、という以外、さしたる意味が有る訳ではなかったのだ。

四月も後半に為ってから、途絶えていた応募の問い合わせが相次いだ。

調理師の資格を持つ人間と立て続けに六人面接したが、それぞれ一長一短決まった者は居ない。

自分の優柔不断にも(いささ)か嫌気がさしていた。

ゴールデンウイークが始まった初夏を思わせる日の午後、部屋を出て一階の店へ行こうと、エレベーターを待っていた私の携帯が鳴った。

電話の相手は田中だった。

「朗報だぞ」と田中。

「どんな?」

「古い付き合いのレストランのオーナーから今連絡があって、腕の良いコックが居るらしいんだが、会って見ないか、この男なら推薦出来るって先方は言ってるんだ」

腕の良いコックが職を捜している、何か有るのだろうとは思ったが、こちらも時間に余裕が有る訳ではない、私は田中に早急に遭わせてもらいたい旨を伝え、携帯を閉じた。


店のカウンターに腰掛け新聞に眼を通していると、再び携帯が鳴る。相手は勿論田中だった。

「早急に、って言うから、先方に連絡着けて貰ったら、こっちさえ都合が付くならこれから伺うと言ってるらしいが、おまえの都合どうだ」

私は、差し支えないと、田中に伝えた。


その日の夕方、片桐繁はやって来た。

型通りの挨拶を交わした後、作業用の照明で明るく為っている店の隅のボックスで面接を始めた。


歳は三十八で今は独身だと云う。今はと云うからには過去には結婚を経験しているという事だろう。

彼は、中々の男前で背も高い。

清潔感と育ちの良さが匂い立つ彼の(たたず)まいが気に入った。

それより、彼が今まで面接した人間達と決定的に違っていたのは、自分の過去の経歴を饒舌に語らないことだった。

私の質問に対して、にこやかに、そして簡潔に彼は答える。

いろいろな形容詞や、手前みその 輝かしいエピソードは何ひとつ彼の口からは聞かれなかった。

どこそこの店の経営危機を自分が回避し、著しく業績を上げたとか、老舗ホテルの料理長として腕を振るう筈だったが、政治的なポジション争いを、姑息な手段を使って仕掛けてくる後輩に譲り、部下や経営者が引き止めるのを振り切り、惜しまれながら辞職したの何のと、異口同音にドラマのシナリオのような話しを聞かされて来たが、彼、片桐繁の話には、そのような自慢げな話は微塵も出ては来なかった。神奈川県の高校を卒業し、調理師の資格を取得するために、専門学校に二年間。その後は、都内のホテルのレストランに就職、三年で退職した後、ヨーロッパに渡り、五年間イタリア、フランスで修行を積み、三十歳迄の二年間はアメリカで過ごし、ニューヨークとロサンゼルスで働いている。

「料理をアメリカで勉強しようとは思いませんでした、ある程度のモノはそれ迄の五年間で学べましたから…」

片桐繁はそう言ってから、少し話に間を置いた。

私は黙って彼の次の言葉を待っていた。


「有名なホテルの料理長に成りたかった訳じゃあ李ませんでしたから、自分の店を持つと云うのが私の夢でした。ですからアメリカへは店のインテリアや、新しいレストランのスタイルを学びたくて行ってました」人懐こい笑顔の中に、しっかりとした意志が感じられた。

「それで、その夢は叶ったんですか?」その私の質問に、一瞬だけ片桐繁の笑みが消えたように見えた。

少しだけ間を空けてから

「そうですねぇ、どうなんでしょうか、叶ったような叶わ無かったような」 片桐繁は、その穏やかな表情からは考えられない、それ以上私が立ち入る事を許さない強い意志を見せた。

私は話題を変えた。


一時間近くの長い面接為ってしまった。厨房を、彼に見て貰った後、私は彼に働いてもらいたいと伝え、片桐繁は宜しくお願いしますと言って頭を下げた。

店の前の通を、行き交う人達の中に混ざるように帰って行く彼の後ろ姿を私は何時までも見ていた。

その時、髪の長い女が私の視界から片桐繁の姿を(さえぎ)った。

若い女だったが、何か体調でも悪いのかフラフラとした脚取りで調度、片桐繁の後を追う格好で歩いて行く。

少し気には為ったが、彼の採用を決めた昂揚感の為にか、その女の事は、直ぐに私の意識の外に行ってしまった。

彼ならやってくれると、私しは確信した。

私の店は、開店に向かって大きく前進した。


狩場早苗は、今自分が何処にいて、何処へ向かって歩いているのかが解って居なかった。

ただ両足が、自分の意志とは別に交互に前にでているのだ。

心はずたずたに引き裂かれたような感じがして、涙が拭っても拭っても、後から溢れ出て来るのだった。

なのに、彼女にはその苦しく悲しい原因が何なのか、どうしても思い出すことが出来ないのだ。

下腹に、不快な鈍い痛みが在り、時折その痛みは強くなり、その度に早苗は歩を止めてその場にうずくまりそうになる。

早苗が何度目かに立ち止まった時だった。

二人の男が建物から出て来て、何やら話している。

痛みと闘う早苗には、その内容迄は理解出来無かったが、若い方の男が、もう一人に一礼し、歩きだそうとして自分とぶつかりそうに為った。

男は、慌てた様子で早苗の方を見てから、

「あッ、済みません!大丈夫ですか?」と声をかけてから、歩きはじめた。

早苗も、歩き出していた。意識が朦朧(もうろう)として来るのを必死で堪えながら、早苗は歩く。


自分には抱えきれない、絶望感の中で、彼女の心のセキュリティが働き、記憶の一部が喪失したのだ。


やがて、道路の先が商店街に為っている場所迄来ると、早苗の意識は遠退き、彼女はその場に倒れた。

葉桜が、春の終わるのを告げる午後、夕暮れが西の空から近づいていた。

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