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 蝉時雨が騒がしい昼下がり。

二十年以上も連れ添った祥子は、信じられないほど呆気なく家を出て行った。

私は、蝉時雨の中、地上12階、3LDKの箱の中に取り残された。


 私が部屋を引き払ったのは妻の祥子が出て行ってから三ヶ月程が経っていた。

予想以上に、時間がかかったのは、住まいの売却に手間取ったことや家財道具の処分に苦労した為だった。

気がつくと季節は、秋を通り越していた。街にはクリスマスキャロルが流れ、電飾に彩られた街路樹やショウウィンドウはこの季節ならではの、華やかさに溢れている。


マンションの売却で手にした金の大半を妻に送り、妻からは、署名捺印された離婚届が送られて来た。


私と祥子の20年は終った。

二人に子供が居たら私達は同じ選択をしたのだろうか。

 年が改まった。


私は滑り込みで、暮れのうちに新居に入ることが出来ていた。大学時代の友人、田中衛が経営する賃貸マンションのひとつだ。そのマンションは新宿区、と云っても市ヶ谷の閑静な高台に在り、8階建てで部屋数もさほど多くはない。1階は入居者の為の駐車場と美容室に喫茶店、来月に成ると日本蕎麦屋が開店するという。

景気も良い訳ではない時節からか、正月気分もそこそこに、世間は新しい年を進み出していた。松が明けたら就職活動を、と思っていた私は十日から心当たりの処を廻り始めたのだが、五十歳に成った身には、簡単に職が見付かる訳も無く、時間ばかりが過ぎて行った。

暦は既に二月。

さすがの私も、焦り始めていた、職は未だ見つかっていない。


東京にしては量の多い雪が降った翌日の昼下がり、田中衛から携帯に連絡があり、これから会いたいのだが都合はどうかという問い合わせだった。無職の五十代、しかも昨夜来の大雪、都市の機能は著しく麻痺している。

こんな日に出掛ける用も無い、私は部屋で待って居ると田中衛に伝え、携帯を切った。

30分程で田中はやってきた。


「元気そうだな、安心したよ」と言いながら日に焼けた顔に真っ白な歯が爽やかな田中は、真っ赤なアルパカのセーターにオフホワイトのコーデュロイのパンツといういで立ちで、玄関に立っていた。

どれも高級なブランド物なのだろうが、着こなしが良いためだろうか、いかにもと云う処が無く彼のセンスの良さが光る。


私がこの部屋に越して来てから田中とは二度会っている筈だったが、いずれもこの部屋の入居にあたっての打ち合わせで、旧交を温めるといったようなゆっくりしたものでは無かった。


こんな天気の日に田中は、わざわざ出向いて来ていったい何を話そうと云うのだろうか。

「コーヒー有るか?」と田中は、狭いリビングのソファに腰を降ろしながら尋ねる。

「インスタントなら有るけど」と私。

「構わんよ、一杯ご馳走してくれ」

「ちょっと待ってくれ」

私は、キッチンに立ちインスタントコーヒーを大きめのマグカップに入れ田中の前に置いた。


「インスタントでも、結構イケるな」田中はそんなことを独り言のように呟いてから、雪の中をわざわざやって来た理由を話しはじめた。

「おまえ学生の頃、ショットバーみたいな店をやりたいって言ってたろ、そんな考え今も持ってるのか」

「そんなことを考えたこともあったな、それがどうかしたのか?」

「うん、実はな」田中は、マグカップを、ゆっくりとテーブルに置き、灰皿を自分の方へ引き寄せてから、タバコに火を着け、深く吸い込むと、

「おまえさえよければ、今住んでる処の一階でそんな感じの店、やってみないか」突然の提案に少なからず驚き、応えに困っていると、

「いやいや、勿論資金は俺が出す、心配するな、だからって雇われ店長ではおまえもつまらんだろうから、月々の売上の中から返済して貰って…」

いろいろ例を挙げながら、田中は熱心に話しを続けている。

私は、唯黙って彼の話しを聞いていた。


「今更元の業界に戻るつもりも無いんだろ」

たしかに私には今までの業界に戻る気は無かった。

だからと云って、この歳に成っていったい何をすれば好いと云うのだろう。

田中の、時折身振り手ぶりを交えての話しを聞きながら、あらためて自らの将来が、けして楽なものではないという事を、感じていた。


窓の外がすっかり暗く為った頃、田中は帰って行った。

灰皿に山盛りの吸い殻を残して。


私は、田中の提案に乗ることにしようと、心に決めていた。

明日の朝には、田中に伝えよう。


私の人生のひとつの章が終わり、暫くの空白の後、新しい章が始まろうとしている。


窓の外の闇の中を冷たい風が吹き荒れ、窓を叩いている。

冬はまだ終らない。

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