九話
それは、遠慮ぎみな「…………大丈夫か?」という一言から始まった。その聞き覚えのある声は、細く自信がないように感じる。
誰の声だろうか、……なんて。
この時点で、その男が誰であるか悟った僕は、いや、そんなはずがないと自分に言い聞かせた。そんなはずはない。だって彼は、こんな所にいる人間じゃない。
それに、あの完璧な男がこのような頼りない声を出すはずかない、と。実際は、彼が葉月尊氏でないことを祈っていたのだと思う。
もし、男が葉月尊氏だとしても。
これまでの情報を繋げると彼らの間にはそれなりの因縁があるはず。そして、それは悪い方向にあると考える方が妥当であり、彼と彼女がここで出会っても僕の恋路に影響はない。
……そうでなければ。もし、葉月尊氏が彼女に好感を持っていたら僕はこの男に勝つことが出来るのか。
それにしても、ただこの一言で全てを判断するには早すぎる。
「お前は、美春なのか?」
驚くべきことに、男は二言目にいきなり核心をついてきた。動揺しているのは、僕だけなのか。確かに、ハルちゃんが如月美春であることについてある程度の確信は持っていたが、改めて言葉にして聞くと一瞬時を止めるほどの衝撃がある。
ハルちゃんを如月美春なのか、と聞く男の言葉は質問ではなく確認だった。この男は、彼女の正体を知っているのだ。
言い逃れが出来ない。そんな状況でハルちゃんはどんな答えを出すのか、否自らの口で自分の正体をやっと口にするのか。僕は、不安のなかに少しの期待を見つけたのだが。
「誰のことですか?そんな方存じ上げません」
ハルちゃんは、それを全面否定した。確信している彼にとっては、しらばっくれているのと同じ事。あの明るく嘘のつけない彼女が済まし顔で悪びれなく嘘をつくのは、意外だった。これがハルちゃんの本質なのか。偽っていたのは、市街のハルで本性は如月美春?
僕の見ていた彼女は偽りのモノだったのか。
僕が疑心暗鬼で動けない頃、彼は怒りで身動きがとれていなかったらしく。一拍開けてから、響いた振動は純粋な怒りのみだ。
「何故、嘘をつく。お前は、美春だ。その銀髪とその声を私が見間違えるはずかない。顔の傷は見当たらないがとっくに治っていたのだろう」
「嘘ではありません。私はハル。ただのハルでございます」
「違う!!お前は、美春。私の元婚約者、如月美春だ!」
「……美春ではありません。名字もございません。ハルです」
「何故そんなにも頑ななんだ。私がどれだけお前を探したと……」
勢いのあった男の声は、重なるハルちゃんの否定で徐々に力を失っていく。最後に残ったのは、哀しみと悔しさか。
彼女は未だに自分を如月美春だと、そう、自白はしていなかったが。今の会話で決定的に分かったことがある。彼は、僕の予想通り葉月尊氏であることだ。
彼女の元婚約者は、葉月尊氏ただ一人。当たってほしくなかった僕の悟りは残念なことに的を得ていた。
それにしても、葉月尊氏のイメージは完璧に崩れかけている。彼は、たった一人の憐れな少女に無様にも懇願しているのだ。自分が如月美春であると名乗ってくれと。
否定しないで、と。
「何故探して……」
「お前が急にいなくなるからだろう!!」
彼女を探していたと知る僕にとっても今更な、その言葉はやはり葉月尊氏の燗に障ったらしく、これまでで一番大きく声を荒げた。
何故、如月美春を探しているのか。その答えを唯一持っている葉月尊氏は、結局のところ彼女の質問の本質をとらえてはいない。僕らが疑問なのは、何故今ごろになって急に彼女を探し始めたのか、であって、彼はその正しい答えを言おうともしない。
もしかしたら、噂と違い葉月尊氏は如月美春のことを嫌いではなかったのかもしれない。だから、いなくなったことに困惑したのかも。
……いや、それならばもっと早く彼女を探している筈だ。二年も経ってから、探し始める理由はない。では、反対に今になって探す必要が出来た?
最近、彼のなかであった大きな出来事は、恋人との破局。これなら如月美春にも関係性がある。
恋人と別れなければいけない原因が、如月美春にあるから彼女に用が出来た。そして、それを解決すればまた円満に恋人と復縁する事が出来る。そんな筋書きなのか。
と、
僕はあくまで自分に都合良く考えていた。
今まで僕を困惑させてきた会話は、全てが前置きであり、これからが本番なのだと、やっと僕は知る。
「それとも、新しい男が出来たから邪魔されたくないと?だから、嘘をついてここに留まろうとしているのか!!」
「……新しい男?」
「しらばっくれるな。私は『hope』の店長からお前らしき女が来店した、と聞いたから捜索範囲をここに絞って。今日だってお前を探しに来たんだ。こんなにすぐ見つかるなら、人なんか雇わずにさっさと自分で来れば良かった」
そうか、葉月尊氏は。
ハルちゃんは、葉月尊氏の本当の想いを理解していない。それでも、僕はこれらの言葉で彼の本意をすぐに察した。そして、ただただ呆れ驚く。高級ブランドのログがマークされ、丁重に包装された箱の中に野道に咲いた花が一輪入っているような、そんな驚愕。
だけど、その小さな花は僕の宝物だから。
それは。
彼の語るそれは、彼女への熱烈な愛の告白であって。
僕らは同じレースを走るライバルなのだ。
彼が語る言葉はいかにようにも受け取りかたは存在するが、所謂同志の勘というやつか、僕はこれが離れ行く彼女への不安と嫉妬、共にいたいと望む執着だと、当たり前のように受け止めた。
あの有名な葉月尊氏に嫉妬されたことに喜べばいいのか、思わぬ強敵に嘆けばいいのか、僕には判断しかねたが彼女には忘れられない人がいる。
元婚約者で、それでも自身の手によってそれを破棄した彼は兼ねてから恋い焦がれていた筈のハルちゃんの姉と結ばれて。はたまた、それでもやっぱり破局して婚約者の元へ帰ってくる。なかなかに複雑な話ではあるが、僕は彼は男としていかようなものかと、情けないというか、意気地無しというか、優柔不断というか、言いようもなく苦く感じる。
要は、軽く失望したわけで。
僕は、葉月尊氏に比べれば社会的立場も容姿も人望も劣ってはいるが、恋した人を大切にする誠実さだけは勝てているような気がした。これは、人と人との関係のうち一番大切なものであり、彼女の忘れられない人が訪れない限り僕の方が優位なのではないか、と思う。
「今まで、私に引っ付いてきたのに。私が告発を手伝ったから憎くなったのか!?それで、逃げたしたのか!?」
それは、貴方が言えた口か?
少なくともその件について、彼女が責められるべきことはないのではないか。ハルちゃんだって気付いていた筈だし。彼と姉が愛し合い、彼女がお邪魔虫であることは衆知の事実で、社交界の空気も彼女の存在を咎めていた。
葉月尊氏だってそれを、分かっていたはずなのに彼女には逃げ出した理由を聞くのか。もし、ハルちゃんが貴方を憎いと答えてもそれは、仕方のない道理だ。彼女は婚約者から邪険にされ、家も奪われ、挙げ句に自身の姉と婚約者が結ばれる。その上、世間には彼女の悪評で溢れている。
逃げたしたって仕方ないじゃないか。
ハルちゃんに、同情した。これでは、ハルちゃんが自分が如月美春でないと、否定してもしょうがない。
彼女には、その権利がある。
常に中立の立場で、との心掛けが崩れ去り、心の天秤が大きく傾いていた頃。長い沈黙を終え、聞こえてきたのは小さな怒りのようなものだった。
「……もし、もし私が美春だったとして貴方に私の気持ちが分かりますか。貴方に私の苦しみが、悲しみが。貴方に解る筈がない。私は貴方に会いたくなかった」
これは、彼女の声か。
彼女はこんなにも冷たい声を出せるのか。抱えてきた憎しみと彼を突き放す声は静かに、地から吹き出すように染み出てくる。
やはり、ハルちゃんは葉月尊氏は好んでいないのだろう。
「……美春、私は」
落ち込んだ、哀しげな声はポツリと、彼らの間を過ぎたがそれに答えるものはいない。
そんな、あからさまな痛ましさで彼女にすがるなんて。狡いじゃないか。
僕の苛立ちが最高潮に達したとき、人の気配を感じ、さっと姿を翻す。駆けつけてきたのは、武君だ。
「ハル!!大丈夫か!?」
僕の入れなかった空間に、迷わずさっさと乗り込んでいく進んでいく姿に憧れる。寧ろ、彼らに対して深く考えていないから出来ることだろう。
そして、武君というイレギュラーが入ったことで劇的に話が進み。
「……ま、待て!」
「…ハル、いいのか?」
「うん。いいの、もう二度と会うことはないから」
彼の懇願を無視して、ハルちゃんは去っていく。無言で俯いている彼は何を思っているのか。
勿論、同志としてその気持ちが分かる。
それでも、同情なんかしない。
彼は、暫く立ち尽くしてそれからその奥の暗闇に消えた。
「……」
当事者達の消えた舞台にやっと踏み込んだ僕のこの気持ちは、なんと言えばいいのか分からない。胸のなかには、恋情による悲しさ、苦しさ、空しさに歓び、優越感が渦巻いている。
ここにいてもしょうがない、と。
僕もまたここを去ろうとしたときに、地面がひとつ輝いた。角度によって見えたり消えたりするその光が気になって拾い上げたら、それは小さな薔薇だ。
「このネックレスは、あの子の……」