八話
木宮視点。
手元にあるのは、銀色の薔薇。小ぶりなそれは、良く見るとメッキではないシルバーの気品を感じさせる。
ついこの間、拾ったこの薔薇にはチェーンがついているが、手のひらで転がしても微かな重みしか感じない。静かなそれに反して、僕の心は鉛のように重苦しく嵐の海に沈んでいった。
このネックレスは、間違いなく彼女のものだ。
疑いの余地もなく、これは彼女の宝物で、彼女の思う彼の存在そのものを表している。僕は、このネックレスに少なからず、いや大きな嫉妬と不満を覚えていた。無意識でも、彼女が求めているのはいつも顔も知らない誰かであり、僕ではない。それが、悲しく、苦しかった。未だに抜けない癖も彼への執着をまざまざと見せていているようで、それを見るたびに僕は、まだ彼に勝てないのかと……
今は、彼より僕の方が会っているはずなのに。
だが、今はまだ彼女の思う誰かが、誰であるかを僕は知っていない。だけど、やっと彼女の正体を知ることが出来た。随分とおかしなことだ。僕は好きな人の本名さえ知らなくて、それ以前に知ろうとも思わなかったのだ。
だって、僕にとって彼女が何者かは問題なかったから。彼女が彼女であれば、それで、……それだけでいいのに。
それだけで良かったのに。
その真実のピースの欠片は、全く関係ないと思われた事柄から突如発生した。
「えっ、あの葉月殿が?」
僕の家は子爵ではあるが、勤勉な姿勢で国家に仕え、多少の実績をあげていたためにそれなりの地位持ち、情報収集能力においては侯爵家以上と自負する情報家でもある。
ある日、『hope』からテイクアウトした紅茶とスコーンを摘まみながら、書類を片付けていた僕に入ってきたのは驚きの内容だった。
それは、あの葉月尊氏と如月家の長女が破局した、という信じられないもの。葉月家とは、侯爵家であり立場としては公爵家の下に当たるが、彼らの実力と王からの信頼は公爵家のものと等しく、正しく権力者の家のひとつであることは明白な事実であり。その上、現当主である葉月尊氏は歴代当主の中でも一二番を争う賢主と言われ、政に居座る負の怪物を見つけ出し、次々の駆除する姿は正に理想の騎士である。たぐいまれなる才能と実力と、蛇足と言われる程に整った彼を悪く思う者は、モテない男か何かしら罪を犯したものだろうと、そんな噂さへまことしやかに囁かれる。
そんな完璧と言わしめん程に神に愛された男は、冷遇された美しく聡明な女性に恋をした。深く愛し合う彼らは、彼女の実家の妨害や醜い妹の我が儘に耐え、破り抜き、漸く結ばれたのだ。と、こんなドラマチックなノンフィクションに人々は理想を見たはず。そして、もうそれから二年も月日は経ち葉月尊氏が一掃した汚職の山は、着々と増え続けている。
彼らは、当たり前のようにそのまま結婚するのかと思っていた。あれだけの大きな事件を起こし、九年ぶりに結ばれたのだ。まさか、別れるとは思わないだろう。
折角結ばれたロミオとジュリエットを破局させる作者はこの世にいるだろうか。絶対にいない。
だが、彼らはそれをやってみせた。
その事実は、勿論僕を驚かせたが。更に意外なことは、今になって葉月尊氏が元恋人の妹、如月美春を探しだしたことだ。それまでは、元からいなかったが如く探してもいなかった彼女を、急に大がかりな人を使って探し始めるというのは、おかしな話である。この事は、彼女との破局以上に首を傾けさせた事であり謎でもあった。妹の美春は公に罪をおかしてはいなかったと判断され、世間での評判はともかく、失踪を咎める者はいない。
何故、急に彼女を探しだしたのか?
恋人と別れるのは、痴情のもつれからだと深く疑うことはしないが、妹の探索だけは理由が分からず何らかの事件性を匂わしている。
それから、僕は情報通の名に恥じない様その件について調べることを始めたのだ。
葉月尊氏。彼は、調べても調べても、人間ひとつはあろう汚点というものは殆ど存在しなかった。彼の辿る道は、清く正しくを体現していて。弱味というものは、存在しない。彼とは、協力関係でも対立関係でもないが、いまこの家が彼と対峙しなくて良かったと心から思った。
ただ、ひとつ。気になる点があるとしたらそれは、あの如月家の次女如月美春のことについてのみだ。華族、庶民と一般的に広がっている彼女の噂は、大半が彼女に不利なものであり、あの仮面の下には、彼女自身のもたらした我が儘による傷がまざまざと刻まれているのだろうという。実際に僕だって、当たり前のように聞いた噂をそのまま受け取り、それを信じこんでいた。
彼女が悪いのだろう、と。
僕は失念していた。噂はただの噂で、事実はいくらでも改竄出来るということを。目の前に広がる餌に無闇に飛び付くのは阿呆のすることで、僕らはまずそれを観察して、見極めなければならないのだ。
結果的に、彼女の顔の傷は彼女自身の我が儘も含まれていたが、葉月尊氏にも過失はあった。彼は、当然の贖罪をしているに過ぎない。
彼の性格から、彼自身が彼女をわざと不利にするはずもない。かといって、わざわざ訂正して回るほどの聖人君主でもないからきっと、他の誰かが意図してその噂を広げたのだろう。
そして、キーパーソンは、如月美春。彼女は葉月尊氏にとって元恋人の妹であり、元婚約者である微妙な立場の女性だ。彼女は、件の顔の傷のため顔をすっぽりと覆った仮面を常に身につけ、随分と傲慢に振る舞っていたらしい。
情報によると、事件以前は少し我が儘だが素直で活発な少女。いや、美少女だったらしいが、性格が酷くねじ曲がってしまった。婚約者の前では、甘く甘えて見せたが裏ではやりたい放題の問題児。社交界からも、両親からも、まして葉月尊氏にさえも見放され嫌われていた少女は、告発の日と同時に忽然と姿を消した。
当時、彼女は犯罪に手を染めてはいないと判断され、指名手配を受けることなく今は何処かで静かに暮らしているのか。それとも、行きなり崩れた豪華な暮らしに耐えきれず何処かでのだれ死んでいるか。二年前は、どうでもいいと思っていたのだ。だから、わざわざ探そうなんて思いもしなかったのだ。
今回の婚約破棄の裏には彼女がいると思って間違いはないだろう。彼女は一体何をしたのか?
一体どんなことをしてあの黒の貴公子を焦らせているのか。
検討もつかないが、それはきっとこれからの木宮家の政治活動において重要なカードになり得るのではないか。完璧であるはずの葉月尊氏の弱味を握られるのではないか。
僕だって、お優しい人間ではない。家のために、時には汚い手も危ない手も使って見せる。
二年前の事柄だって僕の情報網を使えばきっと掴める。何の理由もなしに市街へ出向いているわけではない。華族たちが一見馬鹿にしている市街は、情報の宝庫だ。そして、そこにいる人々は位の高い人間に排他的でなかなか口を割ろうとしない。だから。何かしらの情報を得るには、市街に出向きそこにいる人々とふれあい懇意になること。重要な情報を掴むことが出来るのだ。
まあ、最初はそんな理由で市街へ赴いていたが今は違う事情もある。生まれて初めて恋をしたのだ。
恋した彼女は、明るく活発な、どことなく儚さを感じさせる美少女だ。華族は一般的に美しい女性が多いがあれほど綺麗な女性はそう、いない。隅々までとはいえないが、天使の輪が輝くような銀色の髪と微かに瑠璃紺色の混ざった菖蒲色の瞳は、神秘的でそれこそ地上に降りた天使のように見えるし、何より笑顔が可愛らしい。真っ白な肌にぼんやり赤い頬。作り笑いでなく目を細めてくしゃりと笑う彼女は純朴で誰よりも美しく。
これが、女性本来の自然な美なのではないか、と社交界の禍々しい女性たちを見た後には多大なるカルチャーショックを僕に起こさせた。
彼女は美しい。僕が出会った誰よりも美しい。
だが、ここまで惚れている理由は容姿だけのせいではない。彼女は二年前忽然と姿を表した。訳ありのようで、慣れない様子で仕事をしている様子は見ているだけでひやひやしたし、フレンドリーで親しみやすい市街の人とぎこちなく遠慮ぎみで話す様子は、危うさを感じた。
不思議なことに、彼女の容姿であればもといた場所でも大いに口説かれたろうに、初期の彼女は一回一回顔を赤く染め、慌てるものだからうぶで可愛らしいと男女問わず好かれるようになった。何故、彼女は褒められるのになれていないのか、理由は分からないがその頃にはだったら僕がたっぷり褒めて慣れさせてあげようと自然に思っていた。
彼女は、努力家で笑顔を絶やさず、いつも人を気遣っている。……そして、一途だ。
だからこそ、ここまで惚れている。美人は3日で飽きるというがそれは嘘だ。実際は三ヶ月。三ヶ月で見慣れてしまう。それでも見飽きはしないのだが。
そして、僕が彼女に積極的にアプローチをかけ始めたのは彼女がそこで勤め始めてから七ヶ月目から。僕は、外見だけでなく、中身も彼女を好きになってしまったのだ。
身分差だってある。薄々彼女には忘れられない人がいるのも気付いている。彼女の外見がもし酷く醜かったとしても彼女にゾッこんだったなんて嘘くさいことも言わない。外見だって大切なのだ。
それでも、事実として僕は彼女に恋をしている。彼女と結ばれたいと思う理由なんて、頑張る理由なんてそれだけで充分じゃないか。
話が脱線していた。
恋は人を愚かにするらしい。
ふとした拍子に思い付くのはいつも彼女、ハルちゃんで。色ボケた頭を必死に振り分け直そうとしてやっと気が付く。
「嘘だろ……」
どうして今まで思い付かなかったのか、呆然とするほどに目の前の、明白に目を閉ざしていた。
「まさか、ハルちゃんが如月美春?」
導き出たのは、二年前忽然と姿を現せた、食堂で働く美少女ハルちゃんが、それと同じ時に失踪した仮面の少女如月美春であるということ。
よくよく考えればすぐに繋がることなのに、如月美春が見るに耐えない醜い容姿である、という固定概念が僕を疑わせなかったのだ。
この結論は、ほぼ断定的にとらえてもいい。
銀髪に、瑠璃紺色の混じった菖蒲色の瞳。これは仮面の厚さによって如月美春の正しい瞳の色は知ることが出来なかったが彼女の瞳か紫色なことは知られている。これらは、見ようによって180度その姿は変わるのではないか。一方は、神々しい天使のようで、
もう一方は異教徒の老婆。市街のハルちゃんと如月家の美春は同じ材料から出来ている。
ハルちゃんは如月美春と大きく異なり、容貌は醜いのではなく美人で気立てのいい明るい女の子だ。それでも、性格だって偽ることが出来たし、如月美春はそもそも仮面の下を誰も見たことがないのだから本当に醜いか、なんて分かるはずもないだろう。如月美春は、本当は美人だった?
あのハルちゃんの性格は、僕が一番知っている。いつも心優しく、明るいあれが偽りのわけがない。彼女の本性はハルちゃんだ。僕は、彼女をずっと見てきたのだ。それくらい、分かる。
では、何故ハルちゃんは如月美春の時にわざと我が儘に傲慢に振る舞っていた?
何故だ。理由が思い付かない。彼女がそんなことをするメリットは?彼女が本当に心優しい性格ならどうして、そんなことをする必要があったのか?
分からないことだらけだが。だからこそ、確かめなければならない。最早、これは家の繁栄のためでなく、一人の男としてハルちゃんの事が知りたいんだ。
そう、そう思っているのに、僕は彼女に会いに行くことが出来ない。仕事の忙しさに構えて、真実を知るのが怖くなっていたから。もし、万が一なんて事があったら僕はどうすればいいのか、なんて悩んで屋敷に閉じ籠った。
「大変です! ハルちゃんが!!! 」
ちょうど僕が彼女に会おうと決心した日の事だ。店に向かう道中、顔見知りの警備員に呼び止められた僕は急いでその現場に向かった。
どうしてよりにもよってあんな道を通るんだ、ハルちゃん。
「っはぁ」
僕が彼女を助けてあげないと。僕だけが彼女を助けられる、僕が彼女を助けたいのだと走った先には、地面にのびたごろつき達と服を破かれ踞った彼女。そして、その間に立つ一人の男だ。
その時僕の体中を駆け巡ったのは、安堵と嫉妬。もう少し早ければ僕が彼女を助けていたのに。先を越されてしまったと。
……自分の腹黒さは自覚していたが、ここまで性格が悪いのも初めて知った。
彼らのいる路地裏は屋根に囲まれ光を通さない。僕のいる明るい道からそこを見るのは困難に等しかったが、それでもシルエットは見えて。顔はさっぱり見えない。
そして、当然僕はその中に入ろうとした。が、始まった彼と彼女の会話は僕を停止させるには充分すぎる内容だったのだ。