六話
「ハル、本当にいいのか?」
「うん、心配させたくないからこれでいいの。ありがとうね。私の我が儘に付き合ってもらって」
「それは、いいけど……」
私はそのまま、自室に帰ることにした。裏口からそっと入り、住居スペースの二階にかけ上がる。たけ君は、最後まで心配してくれたが、襲われたことより尊氏様と会ったことの方が衝撃的で。兎に角一人で考えたかった。
尊氏様が私のことを探していた。
今更ながらに驚き、力が抜けて尻餅をつく。
「尊氏様だった」
尊氏様を久し振りに見た。
「少し疲れてそうだった」
尊氏様をまだ馬鹿みたいに愛していた。
「私はこの苦しさから逃れられない」
尊氏様と会えて、嬉しいのか、苦しいのか、安堵したのか、不安になったのか。この感情の答えは何かは分からない。だけど、さっきまで忘れていた涙が勝手に頬を流れてしょうがない。
胸が苦しくて、やり場の無いナニカを叫びたくなるが、そんなことをしたらお店にまで聞こえてしまう。結局、持っていたハンカチで啜り泣く声を抑えるように口を覆った。とっくに五時は、過ぎているが、この状態でお店になんか立てる筈もなく。
たまたま、一人で上に来た女将さんに、今日はお休みしたいと告げる。人情深い女将さんは、真剣な顔で頷き「分かった。あんたに何があったかは知らないが、あまりに辛いんならあたしに話しな。一人で抱えると余計に悪く考えちまう。話したくないことは、話さなくて良い。それに、私は口だって堅いんだ。……こらこら、泣かなくていいから。これ以上泣くと目が腫れちまう。そしたら、明日働けないだろ」と言ってくれた。
小賢しい私は、女将さんがきっと、そう言ってくれるだろうと予想していて。だが、実際に言われると破壊力が凄まじいことは予想外。不器用な優しさは、とても温かくて再び涙腺が崩壊してしまった。
尊氏様を前に、咄嗟に逃げて来てしまったがそれに、後悔はなかった。これで良かったのだ。
それに、尊氏様は結婚するのだ。姉のモノになるあの人を見たくはない。
尊氏様は、私を探していると言っていたが、あんなにきつく言ったのだし。尊氏様の性格上、自尊心が深く傷付いただろう。きっと、今頃憤慨して私のことなど二度と見たくないと。そう、思っているはずだ。
ずっと尊氏様の隣にいた私が言うのだ。この二年で尊氏様は随分と変わってしまったが、人としての根本的部分は変わる筈がない。
安易かもしれないが、それでいい。
「もう、泣くな。目が腫れちゃう」
女将さんが言ったことを反芻して、自分に言い聞かせた。
忘れろ。忘れろ。
あれは、事故。必然的な偶然だ。
尊氏様が私を探していた為に、起きた出来事。
パンパンと、頬を叩き。己を叱咤する。
「如月美春とはさようならをしたんだ。頑張れ私。前に進め私」
私は次の日の仕事に向けて、瞼を冷した。
「もう大丈夫なのかい?」
「はい、大丈夫です。いつまでも泣いちゃいられませんよ」
「相談したいことは?」
「…それは、もう少し待って下さい」
「そうかい、ハルがそれで良いのならあたしは別に構わないさ」
「ふふふ、ありがとうございます。女将さん。あ、あと大将にも謝っとかないと」
「ああ、いいて。あの人は」
私を雇ってくれた張本人である大将は、寡黙で、だがとても優しい人。大将は謝られると、困って固まってしまうからありがとうございます、とお礼を言った方がいいのだろう。
「そうですね。じゃあ、我が儘を聞いてくださってありがとうございます、と伝えてきます」
「ああ、それがいい」
大将の返事は、おう。のみだった。こちらを見ずに、たった一言それだけ。それが、ありがたかった。
「あの人、あんなだけとハルのこと心配してんのよ。滅多に話さないくせに昨日なんてハルは大丈夫なのかってしつこくてさぁ。めんどくさい男だよ、ほんと」
「そうなんですか」
本当に、ありがたい。
そんなこんなで、仕事をし始めたが昨日のことは、広がっていないらしく誰にも聞かれることはなかった。噂好きの彼らにしては珍しいが、私には都合が良い。
今日は早めに仕事を切りあげる予定であり、たけ君が多分ここに訪れるだろうことはわかっている。たけ君は水曜休みで、休みはたまにここでお昼を食べに来る。それに、たけ君は優しい。そんな心配性で優しい彼に、また、私の我が儘に手伝ってもらうのだ。見返りは、ガッキーとの仲を取り持つこと。
たけ君は、ガッキーのことが好き。とても分かりやすいのにガッキーはなかなか気づかない。……何故だ。
「ハルちゃん、今日木宮君は来てるかね?」
「いえ、今日も来てないです」
木宮さんが顔を見せなくなって一週間。これまでも、仕事が忙しいと、やってこなくなることが多々あったので、特に何も思わない、というか。少しほっとするというか。でも、このお客さんは、木宮さんと政の話をするのが好きならしく毎日来ていないのかと聞いてくる。
お客さんは、もう五十を過ぎた禿げ頭のおじさんだが、こうも毎日寂しそうに聞かれると、恋する乙女か、と言いたくなる。が、恋する乙女という単語で自分の心が抉られてしまう。
私が抱えるこれは、「恋」なんてものじゃなくてもっとドロドロヌメヌメした愛……らしきものだが。それでも、やはり。
尊氏様と再開した余韻は、意外に少なかった。瞬間の衝撃は、凄まじく昨日の夜は寝れるだろうかと心配だったが案外寝れて。これは、何でだろうか。
全く吹っ切れてはいないのに、期待していなからだろうか。現実として受け止めてはいるが、今も苦しいが、動揺はあまり無い。
自分でも自分自身がよく分からなかった。
「よっ、大丈夫だったか? 」
「たけ君! 」
そして、やっぱりたけ君は来てくれた。午後に来るかもしれないと時間を開けていたがこれなら、切り上げる必要はなくなったかもしれない。
「まあ、大丈夫なんだけど……この後、ちょっと時間ある? お店が閉まる三時から五時の間」
「え、別にいいけど。どした? 」
さっぱり、悩みもせずに受け入れてくれたたけ君は、すぐに察して心配そうな顔をしたが、私はにっこりとした笑顔で返した。
「昨日、あそこで物をなくしちゃって。取りに行きたいんだけどまだ一人じゃ怖くてさ」
「はあ!? 一人じゃ怖くてさ、じゃねぇよ!! 怖くなくても一人で行くな阿保。ハルさ、俺が今日来なかったらどうする気だったんだよ……まさか、しょうがないから一人でなんて、言わねぇよな? 」
「う、うん。流石にそれは」
「そうか。なら、いいんだけど」
そういえば、たけ君が来ない可能性なんて考えていなかった。危ないな。短絡的になっていた。
私が今日探しに行くのは、あの薔薇のネックレス。尊氏様と繋がだていた唯一の証だし、昨日と今日で何回手が宙をまったことか。本当は、探しに行きたくてしょうがなかったのだけど、一人では怖いし、あそこは滅多に人が通らない、それに、暗いから気づかれないだろうと自分をどうにか納得させ我慢していた。
「じゃあ、三時半に迎えに来るから」
「うん。ありがとうね、たけ君。このお礼は主にガッキー関係で返すから! 」
「ほわっつ!? おま、な、なんでそれを」
私は、その時間まで仕事に集中出来ずにいて、久し振りにお皿を割るというミスをした。不甲斐ない。