五話
あっという間だった。
私を組み付していた男達は、尊氏様によってすぐに成敗されて。尊氏様が護身術を習っているとは知っていたが、この強靭な男達を圧倒出来るほど強いとは知らなかった。私を襲っていた男達は舌を巻いて路地裏のそのまた奥に逃げていく。
ああ、尊氏様のことは何でも知っていると豪語していたけど、私にも知らないことがあったのか、なんて的外れなことを思ったが今はそんな場合ではない。
覗かせた肌を隠す余裕もなく、目の前の尊氏様を眺める。尊氏様は男達を倒した後、此方を見ることもなく俯いていて。
何も話さず、ただ此方を向いて私を直視しようか躊躇っている尊氏様の後ろ姿はあの時より小さく見えた。
尊氏様が助けてくれた。
尊氏様が目の前にいる。
緊張が溶け、現実を呑み込むがそれでも、私の熟れた頭は尊氏様への想いで埋まった。襲われた直後だと言うのに、そんな事すっかり忘れて。愛しい人が目の前にいて。愛しい人が助けてくれて。愛しい人を久し振りに見ることが出来て。愛しい人とまた関わる事ができて。
尊氏様。
尊氏様。
尊氏様。
愛しい尊氏様。
離れてからこんなに時間がたったのに、貴方はまだ私の心臓を掴んでいるのね。
心は遠く離れているのに、私は貴方のことを驚くほど愛している。
けれど
何故貴方がここに?
何故私を助けるの?
何故私の目の前にいるの?
想いが溢れると声が出ない。予想では、もっと先の未来に尊氏様を見たときにはもうそれは過去になっていて、あの頃よりは平気になっていると、だから他人のふりをして。頑張れば話しかけられるかと思っていた。
混乱のなか、私はあることを見逃していた。私の中の常識と尊氏様の常識は異なる。そして、私の前提と尊氏様の前提は示し会わせていない限り同じかどうかは分からない。
つまり、私は尊氏様だと分かっても尊氏様は私が如月三春だと知らないことに気付いたのだ。
今の私は、仮面を被っていないし尊氏様は、私の素顔を知らない。銀髪は、そこまで珍しくないし、暗闇のなか、瞳の色まで分かるはずもない。
もしかして、いや……そんなはず。
分からない。
どういうことなの?
どれ程時間がたったのだろうか。頭の中で永遠だった時間は、尊氏様が振り返ることで動き出した。
暴かれた肌を隠したのは、女性としての本能。そして、そのまま顔を俯かせたのは私としての本能で。
「…………大丈夫か?」
それは、この場に相応しくない凡庸な問だ。いや、見ず知らずの女性を助けたならばベストな問いかけ。
私だと気づいて貰えるなんて、自惚れていたのか。
途端に恥ずかしくなって。
顔をあげれば。見たこともない尊氏様の泣きそうな顔があった。
今まで辛そうな、堪えるような、屈辱的な表情は見てきた。それなのに、この顔はそのどれにも当てはまらない。
小さくなった背中と子供のように泣くのを堪えたその表情は、私に尊氏様が弱くなったような印象を植え付けた。
あの頃は、もっと強い人だったのに。誰よりも優秀で、誰よりも格好良くて。心許した人には情があつく、私が婚約者なこと以外欠点なんてないように思われた完璧な人。
今では、家督をついで立派に当主を果たしているはずだ。
もしかして、姉との結婚がこの人から強さを奪ったのか。姉との愛で、悪に立ち向かう鋼の刃は溶かされたのだろうか。
「お前は、美春なのか?」
感慨深くなっていたからか、その核心的な言葉にあまり動揺することはなかった。なんだかんだいって、このうだうだで覚悟を固めていたから。
はい。そうです。
これが誠意ある答えなのだろう。嘘偽りなく、真実を告げるそれが。
「誰のことですか?そんな方存じ上げません」
でも、生憎様私は嘘の上で生きてきた。
気づいてくれて嬉しかったが、この答えが私と貴方にとって最も適当な返事だ。もう、貴方と私では生きていく世界が違う。
ただ、ほぼ核心している尊氏様にとって、それは馬鹿にしているのと同義なのかもしれない。
「何故、嘘をつく。お前は、美春だ。その銀髪とその声を私が見間違えるはずかない。顔の傷は見当たらないがとっくに治っていたのだろう」
「嘘ではありません。私はハル。ただのハルでございます」
「違う!!お前は、美春。私の元婚約者、如月美春だ!」
「……美春ではありません。名字もございません。ハルです」
「何故そんなにも頑ななんだ。私がどれだけお前を探したと……」
尊氏様が私を探していた?
「何故探して……」
「お前が急にいなくなるからだろう!!」
滅多に感情を表に出すことの無い尊氏様が、声を荒げ血走っている。
私は、尊氏様に追われるほど悪い事をしただろうか。もう、二年も経っているのに。時効では片付けられないほど、しっかりと自分の手で成敗しなければ気がすまないほど、恨まれていたのか。
「それとも、新しい男が出来たから邪魔されたくないと?だから、嘘をついてここに留まろうとしているのか!!」
「……新しい男?」
「しらばっくれるな。私は『hope』の店長からお前らしき女が来店した、と聞いたから捜索範囲をここに絞って。今日だってお前を探しに来たんだ。こんなにすぐ見つかるなら、人なんか雇わずにさっさと自分で来れば良かった」
『hope』、あの紅茶とスコーンの有名な喫茶店の名前だ。通っていたから店長とも顔馴染みであったが、まさかあの一回目のデートの時店長さんは勘づいていたのか。
それで、私を探しているという尊氏様にわざわざ連絡をよこした、と。
まさか、あの頃の知り合いには会う術もないし、住むところも違う為、私がここにいるとバレるわけがないと思っていたが、店員さんのことまでは考えていなかった。
だいたい、おおよそ上流階級の銀髪の娘が如月家汚職事件と同時期に、現れたのにそれをあの如月美春と結びつける人はいなかった。如月美春は、見るに耐えないおぞましい顔をしていて、人を見下した態度をした性格の悪い女という先入観があるからだろうが、その事で私は気を緩めてしまったのだ。
きっと、何処か何時か分からずとも私が如月美春なのではないか、と疑われると思っていたから。
本当の私は、世間で言う如月美春とそこまでかけ離れているのか。如月美春という怪物は、いつの間にそんなに育っていたのだろうか。
「今まで、私に引っ付いてきたのに。私が告発を手伝ったから憎くなったのか!?それで、逃げたしたのか!?」
きっと、貴方は、まだあの,サヨナラ,の意味を知らないんですね。
私が尊氏様を憎むわけないじゃないか。貴方を想って、貴方が心を痛ませず姉と結ばれればいいと。全て貴方のせいになんかしない。それでも、貴方の。貴方が。
無意識に首元に手を運ぶ。それは、以前木宮さんに指摘された癖であったが。
掴もうとしたそれは、首元から消えてすがり付こうとした手は宙に消えた。……ネックレスがなくなっている。
服を破かれたときにどっかに行ってしまったんだろうか。震えた手を握りしめたが、その事実は静かな動揺に、焦りをもたらした。
「……」
何も言えずにいると、尊氏様は一歩此方に足を踏み出した。その行為で私達の間にあったひとつの境界が崩れてしまい。
尊氏様は、迷わず決意したように近づいて来て、表情は怒りに満ちているから、それに反比例するように私は後ずさった。
愛しい尊氏様には、今までならどんなに悪い機嫌の時も怖いもの知らずですり寄った。今でも想う気持ちは変わらない。
だけど、今は。今は、あの頃の勇気も投げやりの行動も、傷付く覚悟も仮面と共に置いてきたのだ。
「……もし、もし私が美春だったとして貴方に私の気持ちが分かりますか。貴方に私の苦しみが、悲しみが。貴方に解る筈がない。私は貴方に会いたくなかった」
思えば尊氏様に、言い返したのは初めてかもしれない。愛と憎しみは表裏一体。愛しているからと言って不満がないなんてあり得ない。愛するが故憎しみだって深くなる。
合わせられなかった視線を定めて、黒い相貌のその中に冷たい何かが流れるだろうと予測していたが結果的にそれは、大きく異なった。
怯えている。
あの尊氏様がちっぽけな、悪役令嬢にさえなりきれなかった私を怖がっている。
時が止まったように動かなくなった尊氏様を見て、私だって動けなくなる。本当にこの人は変わった。
「……美春、私は」
聞いたこともない苦しく寂しそうな声で、独白でも始めそうな彼は本当に尊氏様なのだろうか。
そんな反応されたら、私だって困るのに。
「ハル!!大丈夫か!?」
大声を出しながら、走ってくる彼は衛兵している友人だ。多分誰かが通報して、助けに来てくれたのだろう。
そして、私は彼に二重の意味で救われることとなる。
「たけ君、!うん、なんとか」
「ってお前。服が、早くこれ着ろ!!」
友人、たけ君の登場で私達の間にあった緊張感が薄れたのだ。襲われること事態、非日常だったのに尊氏様にまで会うなんて。
浮いていた足を地面につけ、やっと少しの日常を取り戻した私は、取り敢えずこの場から逃げることにした。
たけ君にかけてもらった上着をきっちりと来て、震えた足に鞭を打つ。壁に手をあてながら、立ち上がった私はたけ君が尊氏様を不審そうに見ていることに漸く気が付く。
「……この人は?」
「えっと、助けてくれた人…」
私達の間に流れる雰囲気がおかしいことを理解しながらも、尊氏様の容姿と身なりからそんな野蛮なことを起こす人ではない、ことは一目瞭然で。たけ君は、私の短い説明であっさり納得してくれた。
「そうか、すいません。ありがとうございます」
「……あ、いや」
「たけ君、行こう」
「ああ、でもいいのか。この人なんか…」
尊氏様の何か言いたげな雰囲気を察して、たけ君は尊氏様に気を使うけど今は余計なお世話。特技のエアーリードは封印して私の意見に従って欲しい。
「助けてくださってありがとうございました。どこの誰かは存じ上げませんが感謝します。さ、早く」
「お、おう。えっと、ありがとうございました。早くこいつを落ち着かせた場所に連れていってやりたいので失礼します」
珍しく無愛想な私の態度に驚きつつも、たけ君は私に従いここを立ち去ろうと歩きだす。
暗い路地裏から、表の通りへ出ようとしたその時に。後ろから、懇願の声が聞こえた。
「……ま、待て!」
「…ハル、いいのか?」
「うん。いいの、もう二度と会うことはないから」
それでも、私は振り返ることも歩みを止めることもなかった。