二十九話
「山での事故の後、私は高熱を出しました。その時に、前世の記憶を思い出したんです」
摩訶不思議な話だ。この時点で信じられないかもしれないと様子をうかがう。尊氏様は、微塵も疑った様子も見せていなかった。
そうだ。
物語を信じ込んで忘れていたけど、尊氏様は真剣に向き合えばそれを返してくれる人だ。
「そして、この世界が前世で読んだ物語とほぼ同じであることに気付きました。その物語は、尊氏様と姉がずっと想い合い、それを私が邪魔する悪役でした。細かい事は省きますが、最終的に尊氏様と姉が結ばれてハッピーエンドという終わりです。……私は、当たり前のようにその筋書きがこの先に待っているのだと思い込みました。なら、最初から変えればいいと。婚約をしなければいいとも思ったんですよ。でも、尊氏を諦められなくて……婚約した後もずっと悩んでいました。それである日、悪役として身を引く決心をしたんです。悪役らしく、意地悪く嫌われるように過ごしました。実は、家が取り壊されることも知ってたんです。それで、捨てられるなら自ら捨ててやろうと、尊氏様を私から解放してあげるんだと家を出てここにいます」
今までの流れを捲し立てて話す。信じてくれだろうと分かっていても、これは幽霊を信じてと訴えるよりもハードルの高いことだ。自信の無さが私を焦らせる。
話している最中、胸に添えた手に目線をもう一度尊氏様に戻せば、尊氏様は左手を口に当て、何か考えている様子で。その反応をどう取っていいか分からない私は、手が震えて今すぐにでも立ち去りたい気持ちになる。
「じゃあ」
尊氏様が口を開く。
なんて言われるのか。信じるよ、言ってくれると期待して言葉を待つが尊氏様の放った言葉は予想外の言葉だった。
「不正を暴く際、あまりにも都合の良いことが何回かあった。もしかして手伝ってくれていたのか」
そこに、信じるも信じないの言葉もない。だけど、それが嬉しかった。当たり前のようにそれが真実と信じ切っているからこそ、わざわざ口に出さない。そういうことなんだろうと思うと、勇気を出してよかったと心から思う。木宮さんが最初に聞いてくれたからこそ、勇気を持てたけど私の半生を知らない木宮さんが信じられるはずもない。私と一緒に居たから、尊氏様は信じてくれるのかもしれない。
「はい」
「そうか。……ありがとう、美春。助かった」
目尻を下げて、困ったように尊氏様が笑う。
不意打ちだ。
こんな時に、ありがとうなんて。私の献身が無駄になったと思っていたのに、それなのに、身を捧げた人に肯定されるなんて。感謝されるなんて。助かった、その一言で今私がどれだけ助かったのか。
緊張で出なかったはずの涙がまたほろりと空に落ちる。
そうか。後悔だらけの過去でも正しいことはあった。尊氏様のために何かすることは出来た。私は、あの時生きていた意味はあった。
悔しくて、悲しくて、どうしようもなくて昔は仮面の下でしょっちゅう泣いていた。そのうち、涙腺が麻痺して涙が干からび涙も出なくなったけど、嬉し涙は初めてだった。
「ありがとうございます」
麻痺した頭では、こんな言葉しか出てこない。尊氏様からいただいた好きの告白が歓喜のファンファーレなら、今は安堵の風に揺れた草花の囁き。どちらも私の心をどれだけ潤したのか。きっと私以外誰も分からない。
嬉し涙だから、きっと私は笑っているのだと思う。
「ありがとう、はこちらの台詞だ」
ほっとした顔で、そのありがとうを繰り返す尊氏様は、まさか私を泣かしに来たのではないか。今ならいくらでも泣ける。きっと、この涙はダムから溢れ出した感情なのだ。だから、感情が治るまできっと私の頰を伝い続ける。
「そんなに泣くな」
だから、優しい声で言わないで。
「無理です。尊氏様は私の途方も無い話を信じてくれて、あまつさえありがとう、と言ってくれた。私を肯定してくれた。それが、私にとって、どんな、どんな意味があると」
「そうか……でも、信じるのは当然だ。私は、小さい頃から美春を見てきた。それに好きな女性の言っていることを信じない男はいないだろう?私は、昔の不甲斐ないどうしようもない自分に戻りたくない」
好きだから、信じる。なんて盲目的で愚かな理由なのだろうか。自分で愚かだと言っている賢い人が、本当の愚かに堕ちてしまう。悲劇なことに変わりないのに、私のためだと思うと嬉しくて堪らない。
今なら不安も恐怖も乗り越えて尊氏様の元へ行ける気がした。欲張りな私は、多分好きの言葉だけじゃ足りなくて、自分を肯定して欲しかったのだと思う。そうすることで、やっとどんなことも乗り越えられる覚悟が出来たのだ。
「恋人なら抱きしめてやることも出来たが、……歯がゆいな」
そんなこと言わずに、抱きしめて欲しい。世界でたった一人だけ尊氏様になら何をされてもいい。
それが、私をずたずたに引き裂こうとも受け入れよう。
そこで、ふと思いつく。いっそ思い切ってこちらから行ってみるか。
私は、躊躇いがちに五歩前に出て、尊氏様の至近距離に近づいた。
「頭、撫でてください」
流石に、抱きしめてくださいとは言えないけど少し甘えてみる。恥ずかしくて、とても尊氏様の顔は見られず下を向いていたら優しく優しく頭を撫でられた。
何故、頭なんだろうと考えれば、さっき木宮さんに撫でてもらったからだと思いつく。そして、知った。好きな人に頭を撫でられるとこんなに幸福な気持ちになれるなのだと。
こんな時間がずっと続けばいいと、要求を無言で伸ばしていたらいつまでも頭を撫でてくれるので、嬉しくて、もっと伸ばした。
「……美春、もう大丈夫か」
「はい」
涙が止んだくらいに尊氏様から声をかけられて、はいと答える。そうしたら、頭の上にあった手がなくなってしまい寂しくなった。尊氏様は二歩下がるとすぐ入口のドアの直前で止まり、最後の総括に入った。
「今日は話せてよかった。まだ、分からないこともあるだろうが今日はここぐらいにしよう。美春、私はお前が好きだ。私は美春を諦めない。だから、美春の恐怖と不安を取り除くために行動しよう。それが終わったら私はもう一度美春には告白する。その時は、正直に答えてくれ。どうせ私は諦めないのだから」
おそらく、私は尊氏様に陥落する。だって、そうと決めた尊氏様は有言実行の人だし、今、一過性でもこんな気持ちになっているのなら、最後どんな結末になるかなんて目に見えている。
「分かりました。今日はありがとうございました」
「ありがとう。……二時か。すまない。私はこの後会議で急ぐんだ」
「すいません。長くお引き止めして」
そう、尊氏様は本来とても忙しい人だ。公爵家の管理もあれば、貿易会社の経営もしている。華族で商いをしているのは珍しいが、その会社の影響が大きいからこそ公爵家になれたという背景もある。
公爵家の管理は殆ど従兄弟に任せていると漫画で描かれていたから当然のようにそう思っていたが、今は漫画が正しい世界では無いと知っている。聞きたいことがひとつ出来た。
「私が話したいと言ったんだ。行き過ぎた謙遜は、美徳ではないからな」
「はい」
こうして、私たちの話し合いは平和に終わった。今日の朝、木宮さんと話しに行くのが嫌で嫌でしょうがなくて、そんな時にそんな結末があると想像出来ただろうか。私がこんなに落ち着いて、話せたのも木宮さんのお陰もあると分かっているから、木宮さんには本当に感謝しなければならないと思った。
「……木宮さんにはお礼しなきゃ」
心の声がボソッと声に漏れたとき、尊氏様は回したドアノブを戻してこちらを振り向いた。
「彼とは、どんな関係なんだ?」
彼とは、木宮さんのことだろう。聞いてきた尊氏様はなんとも言えない、ドクダミ茶を飲んだ後のような顔をしていて。
なんでですか、なんてとぼけた事は言わない。木宮さんの態度は明白だったから。私は慌てて尊氏様が思う最悪の想定を否定する。
「木宮さんは、……友人みたいな人です」
「……客から彼と美春は付き合っていると聞いた」
まるで責めているような声音に、どきりとして申し訳ないような気分になる。
なんでそんな嘘を尊氏様に言うんだ!
「違いますよ!木宮さんは面白がってあんな風に言ってますけど、本当にもう違うんです」
「もう、か。まあ、いい。挽回してみせる」
私の言葉はあまりあてにされてないみたいだ。
何故だ。




