二十七話
「ハル、ではなく美春と呼んでいいか。私にとって美春はいつまでも美春だ」
意外だった。私は、あの頃とは違う。見た目は、180度変わったし中身も……前より正常になったはずだ。
ハルと美春を結びつける人は、木宮さん以外いなくて木宮さんは私をハルちゃんと呼ぶ。私は、家も捨てたがどちらかというと尊氏様への未練を捨ててハルになった。それなのに、尊氏様と関わっている今、私はどうなのだろう。
一回目の再会時、私は自分をハルと言い張り尊氏様を傷つけた。でも、自分を受け入れた今はそこまでの拒絶感はなく、寧ろ昔の自分を受け入れてくれているようで嬉しい気もする。きっと尊氏様が自ら私に話をしにきてくれて、悪感情がないと分かっているからだ。自分でも芯がぶれているとは思うがそれは心の成長でもあり、そもそも芯がはっきりしている人なんてあまりいない。
「はい。尊氏様の好きなように呼んでください。あの時は、ハルと言い張って申し訳ありませんでした。意地になってたんです」
「別に謝らなくていい。謝るべきは私だ。すまなかった」
尊氏様が深く頭を下げて謝る。完璧な尊氏様が謝る機会なんてないから謝っている所なんて見たこともない。しかもこんなに深々と。
それを見た私の思いは、ただ一つ。恐縮だけだ。
「そんな、やめてください。尊氏様は悪くありません。悪いのは私で、尊氏様は」
悪くない、と言いかけたところで、尊氏様が真剣な眼差しで言う。
「いや、悪いのは私だ。私は、美春を蔑ろにしてきた。自分のことばかりで」
「それは、私がどうしようもないことばかりしていたからです。尊氏様が謝ることはありません」
「それでも、私は酷いことを」
私たちは、頑として悪いのは自分だと譲らなかった。普通、悪くないのは自分だと主張するのに、私も尊氏様は違う。それに、まさかこんな言い合いを尊氏様と出来るとは思っていなかった。
そんな事を思ったら、嬉しくて、そして可笑しくなって、声を出して笑ってしまう。
「ふふ、ふふふ」
「……」
「やめましょう。こんな非生産的なこと。じゃあ、どっちも悪かった。それでいいですよね?」
これで、話の本題に入れるだろうと笑いながら思う。きっと尊氏様も納得してくれるだろう。
「好きだ」
へ、と間抜けな音が口から溢れる。聞き間違いだろうか。今、好きだと聞こえたような気がした。不思議に思って、尊氏様を見てみると綺麗な顔立ちに優しい微笑が浮かんでいて、現実感がなくただただ見惚れてしまう。尊氏様がこんな表情を自分に見せてくれるなんて夢のようで。
じぃっと尊氏様を見つめれば、その頰が少し色付いて。整った口がまた動いた。
「好きなんだ」
今度は、しっかり聞こえた好きの二文字。
私は、慌てて尊氏様から視線を外した。
そんなことあるわけないのに、きっと何か違うもののことを言っているはずなのに、木宮さんが言っていた葉月尊氏はハルちゃんのことが好き、という戯言を思い出す。
もしかして、私のこと?と思った自分を恥ずかしく思って、でも木宮さんの言葉を思い出して少し期待してるような、でも、困るような感情でぐるぐるしている私は、取り敢えず無難に何をですかと聞こうとしたのだが。
「美春、お前が好きなんだ」
それを先回りしたように尊氏様は言う。
誤解仕様のない言葉なのに、胸から溢れ出そうとする歓喜を冷静な私が必死に蓋をしようとしていて。確かめるように尊氏様を見てみれば、優しい顔で微笑んでいるから。
何も言えなかった。
視界がぼやけて、心臓がどくどく鳴っている。自分の息遣いだけが、静かな空間の中はっきり聞こえた。
尊氏様が私のことを好き?
こんな私を?
「嘘です」
「そう言われても仕方ないのは分かっている。でも、美春が好きなんだ」
「だって、」
尊氏様が好きなのは、姉で……
でも、姉とは婚約破棄していて、だから。
「美春が。美春が忘れられなかったから婚約破棄したんだ。美春が信じられないのは分かる。だから、信じてもらえるまで何度でも言う。美春が好きだ」
喉から手が出るほど欲しくて、ずっと諦めていたそれ。前世を思い出す前までは、何回も妄想したそれ。妄想には続きがあって、私はその告白を受け入れるのだけれど昔過ぎてその言葉は忘れた。
気高い尊氏様は嘘をつかない。だから、これはきっと本物。言わされてるわけでもなく、きっと本当。
頭の中で色々な思いがぐるぐる回って涙が出てくる。
嬉しかった。いや、嬉しいじゃまだ足りない。神様に、君は特別なんだって選ばれたような歓喜。苦しくて、どうしようもない体を優しく包んでくれるような喜び。
私の好きは、限度を越してるから。この生きててよかったとまで思う気持ちは、狂喜だろうか。
頭のつむじから足の指先まで、鳥肌が伝染する。知らなかった。人は感情が頂上を超えるとと具合が悪くなるんだ。
足元を見たまま、何も答えられない私は尊氏様がひたすら待っていてくれたことに気づいて、何か答えたいのになんて答えればいいか分からない。
「ゆっくりでいい。焦らなくていい」
その心を察したように尊氏は言ってくれる。
ああ、好きだ。心から思った。
私は心のまま言えばいい。
「……嬉しい。嬉しいんです。きっと尊氏様が思っている何倍も、何百倍も嬉しいです」
「ああ」
「私だって。私の方が、尊氏様を好きです。尊氏様の為ならなんだって出来ちゃうくらい大好きで、好きで、好きで、どうしようもなくて。……だから、苦しい」
尊氏様が好きだ。だから、苦しくて怖い。
「好き過ぎるから、尊氏様が世界の中心でその他が見えなくなってしまうんです。前はそれで構いませんでした。でも、今は。忘れたことは一度もなかったですけど、尊氏様と離れた時、違う幸せがあることを知りました。私は、自分が前のように狂気に囚われるのが怖い。好きです。大好きです。だから、一緒にはいられません」
あんなに欲しかった言葉を貰って、わがまま過ぎる。自分でもそう思った。私は、尊氏様が好きで、嘘のような話だけど尊氏様も私のことを好きと言ってくれる。
それでも、怖いのだ。
尊氏様のことを愛しているから、自分の人生が尊氏様一色になるのが怖い。私にとって奇跡のような、もしかしたら尊氏様にとって悪夢のようなこの状態から急に尊氏様の目が覚めたら?尊氏様に好意を寄せる女が尊氏様に近づいたきたら?
私は、きっと鬼になる。
成長した分、私は臆病になったのかもしれない。そんな私に、尊氏様が釣り合う筈もない。
「そうか。分かった」
私がまだ尊氏様の顔を見れない中、尊氏様は淡々と言う。
私なんかが断ってごめんなさい。そんな恐縮の心の中、これで諦めてくれるのならやっぱり断るべきだったのだと頭の奥で思った。好きの重量が違うと上手くはいかない。私の好きが重すぎて、きっと尊氏様の負担になってしまう。
「ごめんなさい。わがままで、怖がりで、どうしようもない私でごめんなさい」
だから、私以外の人を好きになってとは思わない。そんなこと一生思えない。好きになるのは、このまま一生私でいて。他の人を好きになんてならないで。私を忘れないで。
「謝らないでくれ」
尊氏様のその声があまりにも晴れ晴れとしていたから、私はつい顔を上げて尊氏様を見た。




