二十四話
確かに会話の中で、彼女は自分をおかしいと表現していた。だけど、それはハルと如月美春の使い分けを無意識に自分の都合の良い方に使っていたからこそ、使われた表現だと思っていた。
普通、そう思うだろう?
困惑する僕を他所にハルちゃんは、ハルちゃんだった誰かがふふふ、と笑った。
「尊氏様はこんな私を見捨てませんでしたよ。ね、尊氏様は優しい人なんです」
この際、葉月尊氏が如月美春を見捨てたか見捨てていなかったかは主観ででしか判断できない。だから追及しても無駄だ。
でも葉月尊氏が如月美春を見捨てなかったのは、ハルちゃんの今の様な姿を見せたことがなかったからじゃないか。
そう言いたいけど、女の子に正気でない姿をしているなんて言えないから、何も言えない。
「尊氏様は知ってました。私があの日からこうなったことを」
「あの日から……?」
「私が顔に怪我を負った日です。その時、前世を思い出しました。私は変わったんです。あの日から。この世の正しい姿を私だけが知っていると悟った日。元から好きだった尊氏様が私にとって全てになった日。あの時、私は気づかなかったけど確かに変わりました」
「……ごめん。よく分かんないよ」
「分かりませんよ。分かるわけないじゃないですか。未来の自分の破滅を知るんです。それは絶対なんです。私、弱虫だから、その時その事実に耐えられなくて壊れちゃいました。私は、いつだって物語を変えることが出来た。でも、尊氏様との婚約を選んだ時それは出来なくなったんです」
ハルちゃんが繰り返す、物語の正しい姿。その言い方に、危機感を感じる。それは、今生きている世界を正しく認識出来ていず、自分をひとりの人間として扱っていないということを示している様だった。
純愛は狂気と似ている。聞いたことのある言葉だ。
でも、ハルちゃんのそれは狂気に似た純愛ではなく、純愛に似た狂気の様に感じる。
今まで全く気づかなかったハルちゃんの一面。さっき、少し愚かで少しネガティブなハルちゃんを知ったばかりなのに。
やっと気付いた、今まで散らばっていたハルちゃんのおかしさは今になって思い当たるものもある。葉月尊氏への異常な執着とハルちゃんを支配している義務感。僕の目にマイルドに映っていただけで、それは確かに常人では考えられないことも多い。
そもそも普通、ひとりの人間が好きな人のためだけに自分の人生を棒に振ることができるだろうか。
当たり前のようにハルちゃんは、自分の人生を放り投げたがそんなこと頭のネジが飛んでないと出来ないことに今更ながら気付く。
またハルちゃんが恐くなった。
それが表情に出ていたのだろう。ハルちゃんは仕方がないと言ったように笑って、その狂気を瞳から逃がした。
やっといつも通りのハルちゃんに戻る。
いや、いつも通りというのもおかしい。あのハルちゃんだってハルちゃんの一部なのだから。ハルちゃんを理解していると思っていたさっきまでの僕が知っているハルちゃんに戻ったのだ。
「そんなに怯えないでください」
申し訳なさそうに笑う。
「……怯えてはいないよ。驚いていたんだ。またハルちゃんの新しい一面を知れて嬉しいぐらいさ」
嘘だ。
ハルちゃんのこんな姿、見たくなかった。知りたくなかった。
もしハルちゃんと僕が付き合えたとして、このハルちゃんを僕は支え続けられるだろうか。
そんな打算ばかりが頭を巡って、口からは言いやすい言葉だけが心を無視してつらつらと流れていった。
「尊氏様はね、私が尊氏様を解放しようと決めて行動を移した日怯えていましたよ。それでも優しい尊氏様は私を窘めて、誤解が生じそうな時は、それを否定して言い回ってくれた。でも、私は何回も何回も何回も、尊氏様が私を諦めるまで繰り返しました。尊氏様は戸惑って戸惑って最後は達観して、それでも私の隣から離れなかった」
「それは婚約者だったから離れたくても離れ……いや、なんでもない」
ハルちゃんは力なく笑う。
「離れたくても離れられない、ですか。……私今なら分かるんです。尊氏様は私を冷たい目で見てたわけじゃなくて、困惑した目で見てたんです。私、今もおかしいですよね?でも、昔はもっとおかしかった。物語に雁字搦めにされて、私はこうあれと尊氏様に強要したんです。私、いっぱい酷い事もしました。尊氏様は幸せになるべきだから、尊氏様に敵対する人たちを漫画知識の姑息な手段で追い詰めたり、尊氏様に色目を使う女性を脅したり。なんでそんなことするのかと尊氏様に聞かれたこともあります」
僕は、実際に彼らを見たことはない。だから、安易に否定も出来ない。でも、もしそれが本当だとしたら。黒の貴公子と呼ばれる葉月尊氏が一人でいるところは見たことがある。彼は、あまり表情のない人だった。確かに彼をよく知らない人ならその困惑顔を侮蔑の表情と勘違いすることもあるのかもしれない。
それにしても、ハルちゃんがそのうようなある意味貴族的な行動をしていたとは知らなかった。諜報活動が得意な僕の家でも彼女が何か特別な行動を起こした記録は残っていない。
ハルちゃんはなんでそんなことをしたのか、という問いになんと答えたのだろう。
正直に、あの狂気であなたのためと答えたのだろうか。ハルちゃんが言うには、それでも葉月尊氏は引かなかったと言うのだからそう言ったのだろう。
もし、世の見方が間違ってて、ハルちゃんの言うことが正しいのなら葉月尊氏はどんな男だったのだろう。良い男とは思えないが僕が今思っているよりも最低な男ではないのかもしれない。
「私は、全てこれで正解なんです。幸せになるために、と答えました。やっぱり尊氏様は困った顔をしていました。それに実は、物語のイレギュラーとして尊氏様の叔母さんが強引に婚約破棄をさせようとしたこともあったんです。でも、私に怪我をさせた負い目がある尊氏様はそれを受け入れなくて結局なくなりました。私は、どうすればいいか分かりませんでした。せっかくの自由になるチャンスを私のせいで不意にさせる申し訳なさと、物語が変わらないことへの安堵、それに何より私を選んでくれた喜び。そうです。あの時、私はぐちゃぐちゃだった……あれ、なんの話をしようと、あ、いかに私がおかしかったのか、ですね。伝わりましたよね?」
「とりあえず、ハルちゃんが正しい物語に支配されていると言うことは分かった。それがハルちゃんをおかしくしていることも」
僕がハルちゃんを支えるには、まだ至らない男ということも分かった。
それでも、自分がおかしいと気付けたのだ。徐々に彼女は解放されている。それならば、長い時間がかかろうと葉月尊氏のための人生じゃなくてハルちゃんのための物語になるまで待てばいい。
まだ希望はある。
自分にそう言い聞かせる。いや、そう言い聞かせたかった。
まだ、リタイアしたくない。
好きなんだ。
君を幸せに出来るか不安だけど、僕が幸せにしたいんだ。
「でも、ハルちゃんは自分のおかしさに気付いたんだ。これから君は変わっていくかもしれない」
「どうでしょうか。でも、今回尊氏様が姉と婚約破棄をして赦せないのもありますけど、今話している最中にやっと少し目が覚めた気もします。私はおかしくて私が望んだ正しい世界は、尊氏様の望んだものではなかった。なら、私はそれを矯正する必要はない。……うん、そうだ。そうですよね。私は尊氏様が幸せならいいんだ。私が勝手に尊氏様を赦せなくてもそれはそれで。私の知っている物語は終わりでこれから新しい物語が始まるんです。私は自由だ。尊氏様も幸せになれるはず!」
ハルちゃんはスッキリした表情で笑う。それは、見たことのない清々しい笑みで、それが一番の正解なんだということを示していた。
僕はハルちゃんの悩みを取り除くために、この正解を導くために今日話し合いをしようとした。目的は完遂した。
それで、前を向いた君は素敵だよ。
でも、それでも。
それでも、君は葉月尊氏が好きなんだね。
別に、今日僕とハルちゃんの関係に決着をつけようとしてきたわけじゃない。でも、無意識に僕のことが眼中にないということが分かってしまった。ハルちゃんがどうしようもなく葉月尊氏が好きなことも。
僕はハルちゃんの狂気とも言えるそれを治した方が良いと思うが、葉月尊氏はそんなハルちゃんも受け入れるのだろうか。
そもそもハルちゃんに執着とも言えるほど愛されている葉月尊氏とは条件が違うのだ。彼と僕を比べるのは間違っている。
「そっか。そっかぁ、そうなんだね。ごめん。今聞くべきじゃないかもしれないけど、僕は分かっちゃたんだ。だから、教えてくれないか」
「何をですか?」
「僕を好きになってくれる可能性はある?」
ハルちゃんは目に見えて驚いた。
答えは分かっている。
ただ、決着をつけたいだけ。
ハルちゃんは、先程僕の高いプライドを見せてしまったからか、少し迷いつつも僕の目を見てはっきりと言った。
「ありません。きっと私は尊氏様以外好きになれないです。……木宮さんは良い人で、周りの人が応援してくれるから流されちゃおうと思った時もありました。でも、それは木宮さんに失礼だから。それに私もきっと苦しくなるからやめます。ごめんなさい。木宮さん。私はあなたを好きになれない」
「そっか」
男の矜持で格好悪いところを見せたくなかった。だから、笑う。
「ありがとう。はっきり言ってくれて。これで僕も前に進めるよ」




