二十一話
「それ、私の……」
「ごめん。実は僕が持ってた」
驚くハルちゃんに満足した僕は今度こそ、頭を下げて謝罪した。十秒ばかり下げた頭をそのままにして、沈黙が続き、心の片隅にあった赦しへの期待を捨て、またハルちゃんと顔を会わせる。
変わらず驚き、混乱した顔。
「取り敢えず受け取って。ちゃんとハルちゃんの物か確かめてみて? 」
「……はい」
小さく頷くハルちゃんの差し出した手は震えていて、受け取ったそれをひとしきり眺めてからぎゅっと握り締めて額に掲げた。その姿はまるで祈っているようで、どれだけ彼女がそれを大事にしていたか分かる。
やはり、したり顔で取り出すのは申し訳なかったと後悔してしまう。
それでも、盛大な意趣返しをするには。僕が彼女の心の隙間に入り込むには、こんな下衆な手しかなかったのだ。また謝りたくなる気持ちを抑えて、僕はそれを拾った背景を説明し始めた。
「それを拾ったのは、ハルちゃんが襲われた路地裏で。……僕の勝手で返さなかった。それがハルちゃんと彼を繋ぐ物だと知っていたから、もう思い出して欲しくないから返さなかったんだ」
「……勝手ですね」
台詞だけ聞けば、間違いなく僕を責めるモノなのにその声には感情が乗っていない。憎しみも苛つきも何も籠っていない。
「そうだよ。それが無くなればハルちゃんは僕を見てくれるかもしれないと期待したんだ。実際、君は案外早く立ち直ったのだし別にいいだろう? 」
「私はこれを必死に探したんです。でも見つからなかった」
「僕が持っていたのだからそうだろうね。酷いことをしたかもしれないが君の届かない想いを断ち切る良いきっかけになったんじゃないか。それにその彼は君を嫌っていたのだろう? 早く諦めて、そんなものさっさと捨てるべきなんだよ。僕はただ、それを手伝おうとしただけだ」
我ながら最低な言い分。それでも、ハルちゃんの心を少しずつ波立たせている実感があったから止めはしなかった。
そうだ。怒れ。
もっと怒れ。
下衆で最低最悪な『酷い』人間に怒ってしまえ。
「私がどんな思いでっ……」
溢れそうな怒りをハルちゃんはそれでも、嚥下する。
「だいたいそれを寄越した相手が良い奴とは思えない。嫌いな相手に、そんなあからさまな物を贈るかな? 矛盾している。ああ、それとも彼はよっぽど軟派で節操のない男だったのか」
「……違います」
「いや、実際にそうだろう。君がいなくなってからその彼は君を探しに来てくれたの? 来ていないよね。随分と薄情な男だ」
「いい加減にして下さい。 私のことは何て言っても構いませんが彼の事を悪く言うのは赦せません。そもそも、今の今までこれを返してくれなかったあなたに言われる筋合いはないです」
「分からないな。何で君はそんな酷い男を庇うのか。そんな男の事なんてさっさと忘れるべきだ」
「だから」
「だって、そうだう? 君のしていることは不毛だ。そんなモノを持っていても何の意味もないし、その彼が振り向くこともないんだよ? 」
「それは私が決めることです」
「ああ、やっぱり返さない方が良かったかな。僕の罪は隠すべきだった」
そこで、やっとハルちゃんは握り締めた拳を下ろし、こちらを向く。その顔には明らかな怒りが乗っていた。
「あなたは酷い人です」
そして、出てきたのは僕が言わせたかった言葉。
ありがとう。ハルちゃん。こんな安い、酷い挑発に乗ってくれて。
「やっと気付いた? 僕もハルちゃんと同じ。罪を持った酷い人間なんだ」
どんな顔をしていたのか、分からない。でも、多分嬉しそうな顔をしていたのだと思う。
ハルちゃんは、さっき見たばかりの驚きの表情をまた浮かべた。
「僕はね、聖人でも良い人でもないんだ。酷い人間同士、気楽に話そうよ」
伝わらないだろうか。僕のこの気持ちが。
少しでも君に近寄りたくて、悪ぶっている僕の献身を気付いてくれるだろか。
「あなたは、……いえ、木宮さん。木宮さんってやっぱり変わってますよ。最初からそのつもりで?」
嵌められた。そう呟くハルちゃんは、悔しそうに口を曲げた。
「どうだろう。思い付いたのはさっきだけど」
「まあ、いいです。今度こそ堪忍します」
この件は、本日二回目。一回目は愚かな人間、二回目は酷い人間。ハルちゃんが心許せる人は、相当罪深い者のようだ。今度こそ、ハルちゃんの信頼を得られただろうと予想した僕は、間髪入れずに次の爆弾を投下する。
タイミングは今しかない、そう思ったから。
「ねえ、ハルちゃんは誰になりたいの? 」
「え? どういうことですか」
「言い方を改めようか。さっき君は自分をハルじゃないと言ったよね」
「……言いましたね」
「でも、以前君は葉月尊氏の前で自分はただのハルだと。名字も何もないただのハルだと言っていた。本当はどっち? 」
この問いは僕がハルちゃんが歪だと確信した時のモノで、僕が彼女の全てを、隠そうとしていた殆どを知っているという告白でもある。今までの押し問答を全く無視した暴力的な質問だ。
それならば、最初からとも思ったがそれでは意味がない。僕は事の真実でなく、彼女の心が欲しいのだから。
多分、また抵抗されるのだろうと思っていた。
だから、また気を入れ直したのだがハルちゃんは一瞬息を止めただけで、白状するように話始めた。
「なんだ。知ってたんじゃないですか。本当に酷い人」
詰る声は軽やかに、重りがとれたよう。
「そうですね。自分の都合に合わせて? です。如月美春が嫌なときは、ハルに。ハルが嫌なときは如月美春に。そうやって心の平穏を保ってました。なんだ、口で言ってみるとしっくりきますね」
「……驚いたな。もっと思い詰めるかと思っていたのに、あっけらかんに言うんだね」
「だから、言ってるじゃないですか。私は私が可笑しい事を知っていたし、ただそれを認めるのが怖かっただけだって。ここまで来たらいっそ清々しいです」
呆れたように言うハルちゃんは、僕の初めて見る人だった。
「……うん。そうか……これが本当のハルちゃんなんだね。うん。大丈夫。やっぱり好きだ」
「そういうの恥ずかしいので止めてください」
「手厳しいなぁ」
追い詰められたハルちゃんは、容赦がない。それは優しく、どちらかと言えばか弱いという印象と違って、女将さんやあの勇ましい少女のような逞しさを感じさせた。
それでも、不思議だ。
彼女の事をより一層好きになった気がする。
初めて彼女と心を通わせられた。その事実が嬉しくて、もしかして僕は世界一幸運な男なのかさえとも思った。
やっと、これからの話を始められる。
やっと、僕の知らない彼に追い付けなくとも、背中を見れたとそう思った。
だけど、違った。違ったのだ。
僕は最初から間違えていた。
「もう……。知っているなら説明を省いて言っちゃいますけど、私を嫌っている人、私にコレをくれた人は」
最初から、僕のゴールに彼女はいない。
僕がレースだの、勝負だの言っていたのはただの茶番だったのだ。
「元婚約者の葉月尊氏様です。流石にこれは知りませんでしたよね? 」
「呆れましたか? 彼が私を嫌いなことは有名でしたし、姉とは相思相愛でしたから。……あの、どうしたんですか? もしかしてこれ拾ったとき、あの場にいたとか言いませんよね」
「……そうだね」
「それはどっちですか」
「……いたよ」
「まさか、本当に?……もう、驚きませんよ。じゃあ、私と彼の間に亀裂があることも知っているんですね」
頭がフリーズしている僕を置いて、僕が聞き出そうとした話を彼女は話始めた。
待って。まだ頭が追い付かないんだ。
置いていかないで。
僕の誤解と彼女の誤解。そして、彼の誤解。これら全てを繋ぎ合わせて出来たきっと彼等の知らない本当。
「私は尊氏様が好きでした。気付いた頃から、ずっと。尊氏様が姉を好きだと分かっていても好きで好きで堪らなくて、顔の傷が出来た時も最初は私の我が儘が原因だったんです。流石に出回っていた噂とは違いますが、この世界が小説の世界だと気付いたのも時で。それから、私はその小説の世界に囚われたんです」
「……小説の世界では、最後姉と尊氏様が結ばれて幸せになっているんですよ。だから、その通りにしないとって嫌われるような勝手な献身捧げて。……私が如月美春からハルになったのだってそれが理由です。二人の前から私は消えないといけないから逃げた」
詳細な説明ではない。まだ、細かいことは分からない。それでも、僕は根本的な、一番大切な事を知ってしまった。
僕が何も言わないのを違う意味で受け取ったのか。ハルちゃんは自虐するように言い捨てた。
「私は言い聞かせました。二人の幸せが私の幸せなんだって。正しい在り方に戻すのが私の使命なんだって。……それなのに、尊氏様ったら可笑しいんです。私は姉と別れた、姉のことを愛してないって言うんですよ。愛しさ余って憎さ百倍ですよ。尊氏様の為に全てを犠牲にしてきたのに、その本人がそれを捨てるんです。私が必死に掴んだモノをあの人はあっさり捨ててしまった! 尊氏様は私を否定したんです! 赦せない。絶対に赦せない。逆恨みだと分かっていても自らの幸せを捨てたあの人が赦せなくて…………」
見たこともない形相で吐き捨てた後、弱々しくハルちゃんは言う。
「でも、尊氏様を赦せない私も赦せない」
それで。
「それで、結局葉月尊氏の事がまだ好きなの? 」
今までと違う低いトーンで、棒呼びで言った言葉。それは僕が、否定して欲しくて、でも肯定されるだろう問いだ。自ら首を絞めるなんて愚かだ。
好きな子と結ばれたい欲と、好きな子の為に教えてあげたい欲。
良い人なら後者を選ぶのだろうけど、僕は咄嗟にそれが出来ない。諦めれない。
僕だって幸せになりたい。
「はい。まだ好きなんです」
そう言われても、僕は諦められない。きっと葉月尊氏がハルちゃんを好きなんだろうことは、言えない。
「いいえ、もう好きではありません」
そう言われたなら、僕は手放しで喜んでその両片想いを墓場まで持っていく。
答えが否定でも肯定でも、僕は多分、自分可愛さに言うことはしない。だから、無駄な質問。どうせ、何て言われても言う事は出来ないだろうという打算。
知らない彼等と知っている僕。
僕の方が有利で、言わなくとも責められる事もない。
「……え。…………えっと……」
ハルちゃんの答えは沈黙だった。それも、僕を見て躊躇うような、遠慮するような沈黙。
今まで散々好きだと連呼していたのに、今更口ごもる理由は? 意味は?
「あの、……でも届かない人なので」
気持ちを圧し殺している訳ではない。哀れな者を気遣う声音。
「屈辱だ」
「え?」
こんな時、ひょっこり現れたのは僕の自尊心。




