二十話
店が閉じてしまうわけでも、ハルちゃんが逃げるわけでもないのだが、店に勢いよく飛び込んだ僕に食堂の中の客も、ハルちゃんでさえもその美しい仮面を着け忘れて驚いている。
「どうしましたか!? 」
ただ事でない雰囲気を察して、ハルちゃんはすぐ僕に近寄り心配してくれた。
「僕は、僕は」
それでも、今の僕にはそれに感謝する余裕さえない。
「君と話したい! 」
「え、はあ……えっと何が話したいんですか? 」
大きな決意に反して出てきたのは、凡庸な言葉だけ。ハルちゃんは怪訝そうな顔をしながら、それでも一瞬体が強張っていた。何も分からないふりをしながら、きっと、なんとなくその凡庸な言葉だけで僕の言いたい事が分かったのだ。
「逃げないで。正面からぶつかってくれ」
「私は、……ごめんなさい。仕事があるので」
顔を上げ、ハルちゃんを真っ直ぐ見据えた僕は彼女の瞳の中、覚悟を決めた顔をしている。
ハルちゃんはそんな僕の決心を見るやすぐに、目を反らし後ずさった。何回も聞いた拒絶だ。それでも僕は挫けない。
「勿論、今からとは言わない。明日、明日君の時間を少し僕にくれないか? 」
「……明日は」
ハルちゃんは、見るからに嫌そうな顔をした。断りたいけど理由が見付からない、そんな気持ちがひしひしと伝わってくる。
苦しい。
例え必要な事であれ、好きな女性にそんな顔をさせるのは。
恐らくハルちゃんはどう断ろうか考えていて、いつもは騒がしい客も雰囲気に呑まれたらしく、この場所に似合わない静寂が訪れた。
断らないで。
少しでいいから、ほんのちょっぴりでいい。君のひび割れた心の隙間に僕を受け入れて。
「いいよ」
その肯定は思ってもいない所から降ってきた。
「あたしが赦す。ハル、あんたは明日休みだよ! そいつと腹割って話してきな」
「女将さん、そんな勝手に」
「うるさい。私はあんたの雇い主だよ。あたしの命令は絶対 」
厨房に続く暖簾から顔を覗かせた女将さんはいつも通り横柄な態度だが、今日は一段と厳しい。
「……」
「いつまでもそんな腑抜けた顔されちゃ、迷惑なんだよ。そろそろ決着をつけてこい」
酷い言い方ではあるが、女将さんもハルちゃんを心配している。ハルちゃんを心配する誰よりもハルちゃんに声をかけたがっていたのは女将さんだ。それは、元来の面倒見の良さなのか、ハルちゃんの人徳のお蔭で庇護欲が湧いたからなのかは分からない。
だけど、女将さんにしては珍しく(珍しくと言うほど彼女のことを知っている訳ではないが)ハルちゃんに言い出せず、苦い顔をしていた。
「あんたも! 格好つけずに、正直な気持ちでぶつかってくれ。……任せたよ、元ヘタレ野郎」
「はい」
さっきも聞いたヘタレ野郎というフレーズに、この漢気溢れる女性達の血の繋がりに感嘆し、傍目から見て自分がよっぽど情けない男に見えたらしいことに落ち込みんで、微妙な気持ちにはなりつつも女将さんの言葉には力強く答えた。
これは、エールだ。
ハルちゃんのことは、僕に任せるから頑張って、と。
これでは、益々逃げられない。あの少女と女将さんの期待を破ったら、後が恐くてしょうがない。
「という訳で、ハルちゃん。これからの話をしよう」
次の日の十時。
僕らは町外れの原っぱで待ち合わせをした。目印は、有名な一本杉。
賑やかな所の方が緊張が紛れるかもしれないが、ハルちゃんと正面から、本当の意味で二人きりで話がしたいからと場所は僕が決めた。
「お待たせしました」
「いや、時間ぴったりだよ」
小走りで来たハルちゃんは、五分前行動厳守なハルちゃんなのに時間ぴったりに現れた。それでも、嫌だけど遅れてはこないと言う所はハルちゃんの真面目さが表れている。
そういう僕も今さらになって緊張が襲ってくるものだから、お互いにギクシャクして、取り敢えず人通りのない道外れに進み、人の来そうにない所へ向かう。着いたらハンカチを敷き、その上に座った。
「ハルちゃんは僕がこれから話したいことが何か、についてはもう気付いてるよね」
「……はい」
隣に座って、自然と顔は真っ正面へ。心が真っ正面から向き合えるのならこんなことは些細な事だ。
「僕達はハルちゃんを追いつめたいわけでも、苦しませたいわけでもない。ただ、力になりたいんだ。普段なら無理矢理話を聞くことはしないけど今回は特別。きっとその悩みはハルちゃん一人じゃ抱えきれない、そうだろ?」
「……抱えきれない……ですか。どうでしょう。未だに納得は出来ていませんが、もう諦めてしまったので。今、特に困っていることはないんです。ですから、皆さん私なんかに構って下さらなくてもいいのに」
ハルちゃんは一つ、息を吐いてやけになったようにするすると話始めた。遠回しに私に構うな、と伝えてきている。
優しいハルちゃんに似合わない突き放すような冷たい言葉を、どんな表情で言っているのだろう。僕はちょっぴり気になったが、ここで横を向く勇気もなく、なるべく情に訴えられるように試してみた。
「それは、無理だよ。君が心配なんだ。ハルちゃんが心にもない笑顔を張り付けていることは、気付いているよ。そして、そう……心を閉じてしまうほどの何かが君にあったことも。もう一回言うよ。僕達は君が心配なんだ。君が好きだから心配なんだ。僕は君を助けたい。どうか君を助ける手助けをさせてくれ」
「そんな、私は放っておいて欲しいのに」
「それでも、僕らは放っておけない。君が心配だから」
「私はそんなこと頼んでません」
「ハルちゃんの為じゃない。このまま君が苦しんでいるのを見ているのは僕らが堪えられない。君のためじゃなく、僕らのために何があったかを話してくれ」
「いい加減にして下さい!! 私の事何も知らないくせに。私の本当の名前はハルじゃない。私は、ここにいるハルは私の上澄みのような物で、私は本当は皆に好かれるような人間でも……」
ハルちゃん。
君は一体誰になりたいの?
声を荒らげるハルちゃんに、確かに彼女はちぐはぐで歪であると、やっとこの時僕は確信した。
「それでもいい。まだ僕らがハルちゃんのことを知らないと言うのなら、これから知っていくから。ねえ、ハルちゃん。僕は君と出会ってからどんどん愚かになっていく気がするよ。君を知って、君を想ってから、僕は馬鹿みたいに色々な感情に振り回されるし、恋という鎖が僕を締め付けてならないんだ。苦しいよ、恋は苦しい。君を想い続けるのは苦しい。もう、やめたい」
「木宮さん……?」
「でも、それでもどうしようもないんだよ。理解は出来ても心はそこを退こうとしない」
ハルちゃんは、綺麗で優しく魅力的な女性だけどそれ以上に厄介な相手だ。今さっきの確信でそれはよりいっそう証明されて、利口な男なら見切りをつけて諦めるような、そんな女性。
だけど、利口だった僕の頭はいつの間にか、腐りかけて愚かに成り下がっている。
「……馬鹿ですね」
それはハルちゃん説得のつもりで言った言葉ではなかった。ただ、正直に自分の恥をさらしているだけ。
でも、ハルちゃんはその僕の愚かさを聞くと、急に態度が軟化して、考え込んでからポツリと僕を詰った。
これか!
「そうだね、僕は馬鹿だ。恋に振り回される滑稽な男だよ」
続けた言葉にハルちゃんは、強く反応して視線を右往左往にに動かした。心の天秤が揺れ始めている。
「じゃあ、私は大馬鹿者です」
そして、今度は自虐してから、考えるように黙りこむ。僕は次はどう言おうかとしばらく迷っていると、彼女はうんうんと一人頷き始め少し嬉しそうに言った。
「そっか……、木宮さんも私と同じ。同じだったんだ」
「僕だってお綺麗な人間じゃない。君と同じ」
同じ、その言葉をわざと強調する。
結局、ハルちゃんが僕に求めたモノは僕がどれだけハルちゃんを想っているかではなく、愚かな恋の奴隷という称号なのだろう。
僕にとっては、認めたくない部類に入るそれはハルちゃんにとって心を開くか開かないかを決める大きなモノだった。
自分と同じ。たった、それだけ。
負の共通点で繋がる仲間にだけ、ハルちゃんはきっと心を赦せるらしい。
だって、ハルちゃんはやっとこちらを向いて泣き笑いをしたんだ。
「木宮さん、聞いてください。私の話」
「喜んで」
「私は嘘つきなんです。それも、思い込みの激しい嘘つき。これで正しい、これでなきゃいけないって決め付けて自分勝手に行動してきました。……突然ですけど、木宮さんは前世を信じますか」
「え、」
真剣な話からまさかの方向変換に一瞬冗談かとも思ったが、ハルちゃんの声音は震えそうで、不安で、これでもかと言うほど信じて欲しいと訴えてくるから。
「うーん、どうだろうか。僕は無教徒だから、そう言うのはよく分からない。それは、そもそも魂と言う概念から考える必要があるよね。僕の知っている幾つかの宗教だと魂は輪廻転生されるとか、転生ではなく復活されるとかがあったけど」
「いえ、そこまで難しく考えなくても……。あの、もし……、もし私に前世の記憶があると言ったら信じてくれますか」
託したてて紡いだ言葉は、今度こそ確かに震えている。
僕が聞きたかったのは、二週間と一日前、ハルちゃんの様子が激変した理由で。そこまでディープなことを聞くつもりのなかった為に尻込みしそうになりながらも、せっかく話してくれるのだからと、自分の気を引き締めた。
「ハルちゃんに……?それは、僕が信じようとも信じなくともハルちゃんの中で前世があったことは事実だよね。その前世の記憶が僕の思う魂の残骸なのか、それとも生まれた時に染み付いた創造された記憶なのか、はたまた全くの妄想なのかそれは、今関係ないよ。大事なのは、ハルちゃんがそれが前世だと信じている事でしょ。今更、僕がそんなことはあり得ない、なんて非生産的なことはしないよ」
コレが僕の飾らない素直な反応。普通の女の子なら怒りそうな答え。
「……やっぱり木宮さんって変わってます。それに、全然愚かじゃない。むやみに信じるよ、よりはずっと納得出来る。ありがとうございます」
「そうかな、それなら良かった」
それでも、ハルちゃんはその答えに満足してくれたようだった。
では、引かないで聞いてくださいね、と杞憂な一言を置いてから、やっとハルちゃんは本当の告白を始めた。
「私がまだ幼いとき、不注意で怪我をしてしまったことがあるんです。その時、私は高熱を出して、この世界のことを思い出しました。この世界は私が前世で見ていた漫画……小説と瓜二つで、私は、私というキャラクターはその小説の中で悪役だったんです。彼女は、想い合っていた二人を切り裂いて、我が儘ばかり言って、醜悪で、最後は断罪されるそんな酷い人。私は、彼女みたいになりたくなかったから、これから起こるであろう未来を変えて、無かったことにしようと思ったんです」
信じられないような話。それでも、一言「そんな馬鹿な」とでも言えば、話は終わってしまう。
「ちょっと待って。僕らの現実世界が君の見た小説の世界と瓜二つだったと言うのは分かったが、だからと言ってその小説のストーリーが現実世界に反映されるとは限らないんじゃないかな?」
「あの時はパニックで、そんなこと思い付かなかったんですが私が受動的である限りその世界は確かに小説のストーリーをなぞって進んでいきました。だけど、私が能動的に動けば未来は変わったんです」
「じゃあ、君だけは未来を変えられた? 」
「……はい。私の、私の最大の罪はそれです。自ら運命を変えることが出来た筈なのに、自分の私利私欲に負けて私はそれを受け入れてしまった。それで、苦しむ人が出てきてしまった」
ハルちゃんは苦しそうに胸を抱えた。ハルちゃんの告白は抽象的でいまいち事態が掴めない。それでも、僕が詳しく聞き出そうとするともう二度と話してくれなさそうな危うさが彼女の顔にはあった。
「私のせいで。私が好きな人と少しでも傍にいるために、私の大切な二人の幸せを壊してしまった。それでも、私は罪悪感を覚えながらも嬉しかったんです。例え、その好きな人が私の事を憎んでいても」
憎いんでいる。それは、前から聞いていた事だ。彼女は悲しそうにそう言う。
「何で憎まれていると、そう思う?」
「それは、彼が私の罪の被害者だからです」
「そう、か……」
それが、彼女の主観が過ぎる罪だとしても彼女が罪を抱えているのは事実。
「君が抱えていたのは大きな罪悪感だったんだね」
ネックレスをくれたハルちゃんの好きな人、如月美春の過去、葉月尊氏への怒り、そして二週間と一日前、帰って来た彼女の急変。これらのピースはどうやっても上手くははまらず、僕の頭をよりいっそう混乱させた。
続きを催促しようと横を向けば、また彼女は下を向いて表情を見せない。
彼女がまた話し出すのを待てばいいかと長期戦を予想した時、漸くハルちゃんは断頭台に向かうかの如く辛そうに声をあげた。
「だから、私は正さねばと。私のせいだから、元のあるべき幸せを戻すのがせめてもの償いであると。そう思って、そうしないといけないと思い込んで。……私は、自分でも分かってたんです。そんなこと誰にも頼まれていないのに勝手に行動して、勝手に自らを犠牲にして。いつも頭の隅であなたはおかしい、って呟いていました。誰かの為に、彼の為にと言って歩んできた破滅の道は、全て私の自己満足。人は私の不可解な態度や行動をいつも不審がっておかしな女だと嗤いました。それでも、私は悪役なのだからと、彼の為にだからだとその人達を無視してきたんです。今、何で私がこんなに落ち込んでいるのか分かりますか?私は、そうあるべきなのだと期待して、頼まれている訳でもなく行動して、そしてその結果上手くいかなかったことに癇癪をおこしているだけなんですよ。私はそうやって、誰かに身を捧げて彼の幸せが自分の幸せなのだとそう、思い込ませて逃げて。その意味のない献身に必死にすがりついていたんです」
「君を助けてくれる人はいなかったの?」
「私は人を遠ざけていたから、誰も近くにはいませんでした」
そうだ。如月美春は孤独だった。彼女の周りには誰もいない。
「私は、酷く愚かで醜悪で最低な人間なんです」
懺悔だ。
彼女の告白は、そのまま懺悔である。
「君が愚か者にしか口を開けない理由がやっと分かったよ。それで、ハルちゃんは赦して欲しいの?責めて欲しいの?」
「……さあ、分かりません。私には赦して貰う資格もないし、責めて貰うには不安定過ぎる。もう、どうすればいいのか分からないんです。いいんですよ。こんなあやふやな説明をしている女の子なんて見離して」
「……うん」
その投げやりの態度に大人しく肯定を返しても、彼女は身じろく事もない。元からこの反応を予想していたかのように彼女は笑った。
多分、ハルちゃんがこんな態度をとらずに、普通に悲しんでくれたなら僕は次のような行動を取らなかった。でも、僕はこの時に何かが切れたのだ。
これでも尚、彼女の中で僕の存在はそんなに小さいのか。僕はそれほどまでに信頼に欠ける人間だと思われていたのか?
手を左の胸ポケットに突っ込むと、チャリっと金属が擦れる音がした。さっきまで、コレは僕の罪で。彼女に見せることが恐怖であった。
だけど、今は何故だかコレがとっておきの武器のように思える。
「ハルちゃん」
場にそぐわない自信ありげな声でハルちゃんの意識を再び僕に呼び戻し、僕は自らそれを自慢するかのように言った。
「君は言った。私には罪があると。でもね、罪を抱えるのは君だけじゃない」
そして僕は胸ポケットからそのとっておきを取りだし、彼女に見せた。目を見開いて、驚く彼女にしたり顔で僕は言う。
「ごめんね。僕も罪を持ってた」




