十六話
「ちょっと何なの!はしたないわね貴女!!」
「す、すいません」
いきなりケチをとばしてくるこの女性には見覚えがある。尊氏様の婚約者時代はよく嫌みを言われていた。今も言われているのだけど。
全身ピンクの洋服で決める恰幅のよい彼女は、尊氏様の叔母に当たる人だ。彼女の元の爵位は子爵であるが葉月家に嫁いで本家ではないが元当主、尊氏様の父が病弱なこともあり、夫が活躍していたためそれなりの権力を持つ。彼女が元から権力欲が強いのか、それとも次男に嫁がされてから権力欲が強くなったのか。彼女は元から、我が強く意固地で子爵から侯爵に嫁げても出世であるから、それで満足できていない時点で彼女は権力欲が強いのだろう。
まさかこんな人と櫻子さんを間違えるとは。よく考えればあの趣味の悪い馬車の時点で気付くべきだった。
私はこの人が凄く苦手で、あの頃は会いたくない人一位だった。漫画の世界でもこの人は姉と尊氏様の交際をよく思わず、妨害を何回も仕掛けている。それが成功したことはなかったはずだが、私みたいなバグがいるのなら、「その成功したことはない」ということもバグになる可能性がある。つまり、成功しているということ。漫画の中で私の次に自業自得な目に遇わされた筈の彼女だが丸々肥えて傲慢な姿は、自業自得の後には見えない。
まさか、この人のせいで姉と尊氏様の仲が拗れたのか。だから、私は尊氏様からアドバイスを求められているのか。
「あら?貴女かしら。尊氏の新しい恋人というのは。ふん、はしたないわね。廊下を走るなんて淑女として失格だわ。嫌だわ。貴女のような猿みたいな女。尊氏の前の恋人は希代のジュリエット?いえ、ジャンヌダルクだったかしら。まあ兎に角、あの子の爵位は今や男爵で、うちに全く釣り合わないけど、まあ爵位が低い分あの子には話題性と名誉があったから許せたわ。ギリギリね」
「あの」
「ちょっと黙って聞くことが出来ないの!?最近の若者は。……でも、その子とも今は別れて独り身でしょ?だから、葉月家にふさわしい爵位のある女性を用意していたのに次の相手は貴女?笑わせるわね。私が用意していた子はね、公爵家の三女よ。公爵家の」
尊氏様と姉が別れた?
違う。尊氏様と姉はもう少しで結婚するのだ。
「何呆けているのよ。貴女、ちょっと顔が良いみたいだけど髪は老婆みたいで瞳の色は化け物みたいで気持ち悪いわ。……あら、そんな人を確か前にいたような気がしたけど……まあ、いいわ。貴女みたいな卑しい身分の女が我が侯爵家に嫁ごうだなんて考えないことだわ。あり得ないもの。尊氏だって貴女みたいな容姿だけの女、飽きたらすぐに捨てるに決まっているわ。だから、さっさと消えなさい。屋敷にまで住み着いているなんて、本当ドブネズミみたい」
色々酷いことを言われているようか気がするが、私の神経は全てあの言葉に向けられている。
「尊氏様が別れた?」
「あら、だから貴女がわいてきたんでしょ?早く尊氏の元から出ていくことね。ああ、それと尊氏には私が来たことは言わないでちょうだい。あの子は干渉を嫌うのよ、実の叔母である私でさえね」
やはりこの人は尊氏様が姉と別れたなんて世迷い言をはいている。そうだ、この人は昔から思い込みが激しい人だった。この人の勘違いに決まっている。
姉と尊氏様が別れたなんて、そんなはずないもの。
やっと受け入れた自分の献身の実がこんなに簡単に腐り落ちるはずはない。私は、尊氏様が幸せになれるよう。姉と尊氏様が結ばれるように身を引いたのだ。それが無駄になっている?私の身を切るような努力は?
目の前でまだ尊氏様の叔母は騒いでいたが、内容なんて耳に入ってこない。姉と尊氏様が別れるはずなんてない。
現れたはずの新しい道が急にボロボロと崩れていく。気が付けば足場は少なくなっていて身体がゆらゆら揺れた。崩れた道の後には暗黒が広がっていて。
私が歩いてきた破滅の道は。
為すべきと歩いた破滅の道は、私が勝手に作り出した道だったのだろうか。
「何よ。ものも話せないのね、貴女。もう、いいわ。兎に角、出ていきなさいよ」
いつの間にか、尊氏様の叔母様はいなくなっていた。
別にそんなことはどうでもいい。
グルグルと考えていくうちに、やはりあの人の勘違いだと思い至る。そうだ。そうだよ。
思えばあの人は、思い込みの激しいタイプの人だ。姉と尊氏様の仲が拗れて少し距離を取っていたから、別れたなんて勘違いしているんじゃないか。
私が今の尊氏様の恋人と勘違いしているのは、満更でもないが、やはり叔母様は誤解しているのだ。だって私と尊氏様は付き合ってもいないのに叔母様は私を新しい恋人と言った。そこがもう違うのだから、尊氏様と姉が別れたのも誤解しているのだ。
そうだ。なんで私は一瞬でも信じてしまったんだ。
「そうだ。勘違いに決まっている」
「ハル様!!遅れてすいません」
「……いいえ」
「ハル様?どうされましたの?顔色が酷いですよ」
「そうですか」
「ハル様?」
暫くしてから櫻子さんは現れた。私はさっきまで読みかけていた本を開いて、それなのに読むこともせず宙を見ている。本なんか読める状況じゃない。
未だ、疑惑ではあるが私にとっては大事件だ。もし、本当なら。もし本当に尊氏様が姉と別れていたら。
さっきあの人の勘違いだと決めつけたはずなのに、それは頭のなかを回って途切れることがない。
もし、本当に姉と尊氏様が別れていたら私はどんな反応をすればいい。昨日までは、ただショックだった。尊氏様が誰かの、……姉のモノになる哀しみと。ああ、私って本当にお邪魔虫だったんだなという自虐。
取り敢えず、正の感情はなかっただろう。
だけど、今は。
今は、違うのだ。昨日尊氏様と話しをして私は変わったのだ。
失望と怒り。
何故だろう。分からない。でも、私のなかはそれでいっぱいだった。尊氏様が他の誰かのモノにならない安心とか、またチャンスが来るかもとか、そういう希望じゃない。尊氏様を愛していることは変わらない。だから、幸せになって欲しかった。
私と幸せになって欲しかったけど、尊氏様がそれを望んでいないから姉と幸せになればいいと、そう思って行動してきたんだ。別に頼まれたわけじゃない。私がそうしたいからそうしただけ。それなのに。
尊氏様は、私のそんな思いだって知らない筈だし。だから姉と幸せになるよ、なんて約束もしたことはない。
だけど、私には裏切りに感じられるのだ。
酷く身勝手で、自分本意の愚かなモノであることは自覚している。だけど、自覚しているからって胸から沸き上がるこの感情をおさえることなんて出来なかった。
カンニングしてしまおうか、ちらりと櫻子さんを見る。櫻子さんは、私を困った表情で見つめていた。
「ハル様?」
やめておこう。
もし、万が一それが事実だとしたら私はどうなるか分からない。勿論、その事実を信じてはいないが、その可能性があるということだけで私の心はこんなに揺れている。
そうですよ、と頷かれたら私はきっと爆発してしまう。なんの関係もない、寧ろ善良で優しい櫻子さんに声を荒げてしまうかもしれない。それは、駄目だ。
私の下らない、馬鹿みたいな質問はちゃんと尊氏様に否定してもらおう。
そうだ。その方がいい。
「ハル様……」
机に置きっぱなしのメモ紙は、風に揺られ飛んでいく。私は、それを拾うことはなかった。