一話
『可哀想な葉月様。未だに罪をきせられ、婚約を強要させられている。葉月様には想い人がいらっしゃるのに』
今日も誰かが言ったこの言葉が耳に入る。それでも、愛しい人が隣にいるから聞こえなかったように無邪気にうふふと声を出して笑った。私を仮面を張り付けたような無表情で見る尊氏様と、尊氏様を同情的に見ている周りの人々。
うるさい。
うらさいんだよ、あなた達全員。
何も口に出していない? 違うでしょ、煩いぐらいに目と態度が語ってる。
私が間違っていると。
鈍感で醜い美春は、愚かにもそんなことに気付いていない? 馬鹿じゃないの。こんなあからさまに気付かないわけないじゃないか。
私、如月美春と葉月尊氏様は婚約者同士だ。政略結婚でも恋愛結婚でもない。これは、私の両親が尊氏様に与えた罪の罰。愛の欠片もない償いの婚約。
尊氏様は私の姉に恋をしている。私と姉は四つ違いで、尊氏様にとって二つ歳上のお姉さんのような存在だったはずだが、姉は美しく聡明な人であった。美しいことだけが取り柄の母と、優秀ではないが、ズル賢さだけが取り柄の父との間に出来た考えられないほどの最高傑作。それが姉で、私は所謂、あの夫婦の子供だと納得出来るようなレベルの子で。
姉と尊氏様は家柄と年が近いこともあり、小さい頃から遊び相手として共にいた。姉は幼いながらに頑張って背伸びしている少年を愛おしく想い、尊氏様は美しく聡明な姉に淡い恋心を抱いていた。そこで、その時点で、二人の世界は繊細なパズルのように出来上がっていて、それが全てだった。
それなのに、それををぐちゃぐちゃに荒らし回ったのが私という存在。二人の寸分狂いのない美しい世界に、私という一つのピースが加わったのだ。
私を入れるため、一回崩したパズルは再び戻そうとしても、ピースが一つ多いから絶対に完成されることはない。私は本当に、あの二人の世界を崩した加害者でお邪魔虫で空気の読めない少女だった。
それでも、私はあの頃から尊氏様を愛していた。理由なんてない。生まれてすぐ目にしたあの人は、他の誰よりも輝いていた。幼子の私でもすぐにこの人が特別な人だと気付けるほどに。
人見知りでも引っ込み思案でもなかった私の行動は決まっている。一目惚れをしたその日から、私は尊氏様の後を追っかけ回したのだ。私にとって、無邪気な我が儘で、愛しい人と共にいたくて行った行動は、尊氏様にとっては迷惑でしかない。
私のせいで姉と尊氏様の二人きりの時間は消滅し、私の我が儘を、叶えるだけの時間に変わったのだから。
その頃、私は幸せだった。例え、迷惑そうに、嫌そうな顔をされても子供ならではの鈍感さで気付かなかったし、単純に愛しい人と共にいれるのが単純に嬉しかった。
だが、そんな日々も、ある事件で終わりを告げることとなる。
その日は、太陽かがジリジリと照りつける夏の日のことだった。私はいつものように、尊氏様の都合を考えず、後を追っかけまわしていて。何回怒られても反省せずに、自分の勝手だと思っていたのだ。そんな、私に尊氏様の堪忍袋の緒が切れた。
少し、痛い目にあわせてやろうと思ったのだろうか。
尊氏様は結果的に、屋敷の裏山で私を置き去りにしたのだ。別に、ついてこい、なんて言われてないし、反対に絶対についてくるなと言われていたので、殆ど私が悪い。
私は、木々の生い茂る光の届かない暗闇に五時間近く取り残された。尊氏様もまさかここまで大事になると思ってはいなかったようで、必死に私を探したそうなのだが、生憎私は道に迷い、獣道をうやむやに歩き回っていたから正規のルートにはいるはずもなく。
気が付けば、大騒ぎで。屋敷では捜索隊が組まれていたらしい。
私は只ひたすらに泣いた。最初は怖くて怖くて堪らなくて、途中からどうしてこんなことになったのかを考えて、最後に尊氏様に鬱陶しく思われていたことに気が付いて。
それでも、愚かな私は自分が悪いとは全く思わず、嫌いになれない尊氏様を恨みがましく思う。
歩き回った足が痛みを覚え、その場所に留まってどれほどの時間がたったのだろうか。日が沈む頃、遠くから尊氏様の声が聞こえた。
その声は、必死で、泣きそうで、途方に暮れた声で、私はそれに必死に答えた。炎天下で、渇いて干からびた喉を必死に震わせて叫んだSOSは幸いなことに。いや、今となっては不幸なことに尊氏様に聞こえてしまった。
途端に近づいてくる足音と、それが震わす草木の音は私に安心と喜びをもたらした。
これで帰れる!!
誰でもない尊氏様が迎えに来てくれた!!
そして、尊氏様の姿が見えたときそれは爆発して。
「尊氏様!!」
「美春!?ま、待て!!」
何故、尊氏様が静止を促したなんて気にもせず、一目散に愛しい人のところへ走ろうとした。
「あっ」
「美春!」
私はその時、気がついていなかった。尊氏様と私の間に大きな谷があることに。その谷が急斜面で危ないことを私は知らなかった。
間の抜けた声と共に斜面を転がり降りた私は激痛で意識を失う。覚えているのは尊氏様の私を呼ぶ声と傾いた私の視界のみだった。
目が覚めたのは、それから二日後のこと。怪我からくる熱と精神的ショックから来たものだと思われる。
不自然に狭い視界のなかで初めて行った行動は、自分の顔を触ること。半ば、確信しながら触ったそれはやはり、硬い何かに覆われていた。呆然としていた時間もほんの少しで、飛び込んできた侍女によって私が目覚めたことが屋敷中に広められる。
その時、私は静かに達観していた。
私は、当時の自分の状況とこれからの未来を知っていた。何故なら、高熱のなか見た夢は私の前世を映したもので、普通なら信じられないそれも何故か、心のなかにかっちりとはまり、当然のごとく受け入れられたからだ。前世の私は、ある少女マンガにドはまりしていて、それがこの世界と殆ど全て同じなのだ。
そのなかで、『私』は姉の恋路……姉と尊氏様の恋を邪魔する悪役令嬢。彼女は尊氏様と婚約をするきっかけの事件で、顔に大きな傷を負い、いつも仮面をつけている我が儘で傲慢な女だ。尊氏様が嫌がる素振りを見せると自分の顔をたてに愛を強要し、好き勝手に振る舞うのだ。
物語の中で、聡明過ぎる『私』の姉はどんどん意地悪な両親に嫌われ、冷遇されることとなる。それでも姉は懸命に誠実に生き、遂に如月家の隠蔽された犯罪の数々を見つけだし、自分の立場が危うくなるのも構わず、それを明るみに出そうと尊氏様に相談するのだ。その時、尊氏様はその件が終わったら姉と結婚しようと約束を交わす。
だが、愚かではあるが、尊氏様をずっと見てきた『私』は、尊氏様の様子が変わっていることにはすぐに気づき、その計画を知ってしまうのだ。
『私』は、その計画を恐れた。この国の法により、親の罪は子の罪とされはしないが、確実に今の立場はなくなる。我が儘に育ち、華族で特別だった自分が一般市民に落ちることが屈辱で許せず、何よりそうなれば愛しい尊氏様との婚約もなくなるだろう。その計画の成功は『私』にとっての破滅、バッドエンドと同義だったのだ。
『私』はそれから、計画の妨害を開始した。両親に伝えるのも手だったが、私は惨めな思いをさせられてきた大きな原因の一つである姉に自分の手で復讐するため、一人で動くこととなり、一見、『私』の出る足もないと思われたが汚いお金の繋がりは強く、姉と尊氏様を随分と苦しめることとなるのだ。
そして、物語の終わりは決まっている。姉と尊氏様の勝利でハッピーエンド。『私』は同盟関係の相手に捕まり、奴隷のような扱いを受けるというバッドエンド。
なんてこった、これから私を待ち受けるのはバッドエンドじゃないか。
これからの運命を悟った私はショックに打ちひしがれ、それなら最初から尊氏様と婚約をしなければいいのだと思い付く。
それでも、無理だった。父に尊氏様に責任を取らせるという言葉を聞かされて、私の口は確かに「それは、結構です」と動かそうとしたのだ。それでも、声が出なかった。自ら愛する人と結婚するチャンスを棒に降る行為など出来るはずもない。差し詰め、将来は腹のでたハゲ親父に奴隷にされる私は、この時、既に恋の奴隷だったのだ。理性が本能を操作出来ない。まさに、暴走状態。
言えなかった言葉を最初こそは後悔したが、尊氏様の窶れた、思い詰めた顔を見たらそんな事どっかに吹き飛んだ。この愛しい人が手に入るならどうだっていい。そう思ってしまったのだ。
その事件の後、私はずっと仮面を着けて過ごすことになる。これの効果は絶大だった。周りは、自業自得だと嘲笑ったが、尊氏様は私の仮面を見るたびに、拒絶をやめて苦しそうな顔で我が儘を叶えてくれる。
いつしか私の本当の顔は忘れ去られ、仮面の下には見るのも悍ましいほどに醜い顔があるのだ、と恐れられるようになるのだが。それは事実と異なった。
私の生まれてから持つ唯一の自慢は美しさだ。それだけは姉をも勝る絶対的美。小さい頃は天使のようだと。何より薄い菖蒲色の瞳は神秘的で、銀色の艶やかな髪はまるで生糸の如く美しいと頬を染めて褒められた。
それが、どうだ。
この顔を覆う仮面をしてから、人はこの菖蒲色の瞳を気味が悪いと嫌がり、銀色の髪はまるで老婆のようだと馬鹿にした。
そんな私だからこそ、両親にとって私の価値はその美しさのみだった。頭も良くはなく、不器用な私の唯一の利点が容姿が素晴らしいこと。両親はそれを政略結婚の道具に使おうとしていたのだ。それが、あの事件で傷つけられ、私の唯一の価値がなくなったに等しくなった。
それは、私の両親にとって最悪の事態であったが、一つだけラッキーなことがある。それは、傷つけた相手が家柄で言えば等しい、だが実力で言えば圧倒的に上位な相手の一人息子だということで。これ、幸いと両親は尊氏様に「美春の唯一の価値を貴方が奪った、これではこの子は誰とも結婚できないだろう」と責任を取らせたのだ。
よもや、価値のなくなった次女が、良い金蔓を引っ掻けたと大層嬉しがったことだろう。
控え目に言って下衆、大袈裟に言ったらクズだ。
そんな両親は、短絡的な人間だからだろう。根本的に勘違いをしている。
実際の顔の傷は大したことがなく、酷く大きかったのは左足の傷だけだ。右目の下にできた一筋の傷は浅く塗り薬を塗れば跡形もなく消える。
それを両親は早合点していたのだ。確かに血はたくさん出てきいたし、第一発見者の尊氏様も治らない傷だとお思いにはなるだろう。
今、現在顔の傷はすっかり治り、私の顔は世間一般的には美しい顔をしている。それでも、誤解を解かずに仮面を付け続けている理由なんて分かりきったことだ。恋の奴隷になってからは、元々頭のよくない私はどんどん愚かになっていて。
私は尊氏様と共にいるためだけにこの不名誉な仮面を受け入れたのだ。
それでも、人は成長していくもの。
私は、愛する人が愛する人と共に幸せになることが、私の幸せに繋がることを学んだ。
初めは、共にいられることだけで満足で。次第に尊氏様が私に本当の笑顔を見せないことが不満になって。それなのに姉にだけは惜しみ無く見せるのが憎らしくて。
そして、愛する尊氏様の幸せを奪っている事実が苦しくなった。あんなに喜ばしかった愛のない婚約は、鎖となって私の良心に絡み付く。
決心したのは、なんのこともない平凡な日だった。強いて言うなら、屋敷の庭で姉と尊氏様が笑いあいながら戯れていたのを昼間見てしまった事くらい。
その日私は、尊氏様を解放することを決めた。愛の奴隷のさらに奴隷、なんと滑稽で憐れではないか。
それは、尊氏様のためであって私の為でもあった。
幸いなことにも、この頃には聡明な姉が如月家の汚職に気づき内密に捜査を開始していた。私はただそれを利用すれば良かったのだ。