有縁-3-
久しぶりに味わう穏やかな時間は、逆に不安も掻き立てた。
何が不安と言うわけでも、何が怖いと言うわけでもない。
ただ、漠然とした、言葉にしがたい雰囲気のせいで、なんだか寝付かれなくて、雷瀬は縁側に座り、一人空を眺める。
空には星が瞬いていた。
自分の知る空よりずっと星の数は少ない。星読みは困りそうだなと、無意味な感想を上らせ、雷瀬は見るともなしに空を眺め続ける。
空だけは、時代が変わっても変わらない。
延々と続いているただひとつのもの。
けれども、ここに来て知った無粋な科学と言うものは、幻想を見事に打ち砕いていた。月に人が降り立ったとか。宇宙と言うものが空のさらに上にあるとか。
理屈はわかる。感覚的にも納得はいくが、どことなく寂しい。
全てをあからさまに晒さずともいいのではとも思うが、だからこそ、今の時代は自分の居たころより静かなのだとも思う。
それを寂しいと思うのは、やはり我侭なのだろう。
溜息を吐き、雷瀬は目を瞑り、顔を下げた。
「眠れないの?」
不意に響いた穏やかな声に、雷瀬はゆっくりと視線を向ける。そこには、綾女が立っていた。
心配するでもなく、ただ紡がれた言葉は気負いなく返事が返せる。
「何となく、寝付かれなくて」
穏やか過ぎて落ち着かない。
矛盾しているかもしれないが、結局はそう言うことだ。
そう言う雷瀬の横に、綾女はすとんと腰を下ろす。
「ねえ。もし雷瀬君がいやじゃなかったら、雷瀬君の家族のこと、訊いて良い?」
唐突な言葉に、雷瀬はビックリとした目を綾女に向けた。家族の事を訊いたのは、綾女が初めてだったからだ。
「別に構いませんけど」
なぜ家族の事を訊くのだろうと、雷瀬は不思議そうに綾女を見つめる。しかし、そんな雷瀬の視線もものともせず、綾女は言葉を続けた。
「そうだな。雷瀬君のお母さんはどんな人?」
そんな雷瀬の気持ちを知ってか知らずか、気楽な綾女の声が響く。
「母、ですか」
問われて雷瀬は、晶杷を思い出す。
雷瀬が覚えている晶杷は、いつも笑っていた。穏やかに。
けれども、晶杷は決して弱い人間ではなかった。
時に激しさを見せたこともあったらしいが、それは雷瀬が生まれる前の事で、雨竜から本の少しだけ聞いただけだった。
「優しくて、穏やかで、そして、凄く強い人です。
父が死んだ時も、僕が時渡りをするときも、笑って送ってくれました」
雨龍の死が告げられた時、晶杷は誇らしげに笑った。
「己の成すべき事をなされたのですね。
ならば私は悲しみません。笑って貴方を見送りましょう」
そう言って。
その凛とした姿を雷瀬は思い出す。
「良いお母さんなんだね」
「はい」
晶杷を誉められるのが嬉しくて、雷瀬は笑った。
晶葩と雨龍と桃花と火椎。家族五人で幸せに暮らしていたあの頃。こんな風に別れがくるなどと言うことを思いもしなかったあの時。
後悔はしていないつもりではあるが、淋しいと、そう思ってしまう。
その後も、綾女は穏やかに微笑みながら晶杷の事を問うてくる。問われるままに、雷瀬は晶杷のことを話して聞かせた。
どんな風に暮らしていたのか。どんな家族だったのか。晶杷の失敗談や、雨龍のこと等。零れ落ちる言葉は、どれも雷瀬にとっては何物にも変えがたい宝石のようなもの。
逢えないけれど、こうやって思い出すことはできる。その時の空気も、仕草も、すべて雷瀬は記憶しているのだから。
「ね。さっきからたまに出てくる、雷瀬君の弟さんや妹さんってどんな子?」
更に、綾女は質問を続ける。興味津々で聞く綾女に、雷瀬は苦笑を浮かべると、桃花と火椎のことを思い出す。
二人ともまだ幼くて、自分の後を付いて回っていた。
つぶらな四つの瞳が、信頼を向けて自分を見上げていたのを雷瀬は鮮明に思い出し、穏やかに微笑んだ。
「そうですね。桃花は、ちょっとおてんばが過ぎたりすることもありますけど、とっても素直な良い子ですよ。
火椎は、とっても聞きわけがよくて、ちょっと心配なんですけど。桃花によく振り回されてますしね」
そこから堰を切ったように雷瀬は二人の事を綾女に話して聞かせる。
まだ歩けるようになったばかりの火椎をお供に、家の中を探検だと言って、縁の下に潜って迷子になり、泣いているところを発見されたり、桃花の逸話は数知れない。
しかし、そんな桃花の無茶に、火椎は根気良く付き合っている事が多かった。
何故かと一度だけ問いかけた事がある。
その時火椎は、言葉すくなにこう言った。
「一緒にいれば、出来ることもあるでしょう」
無茶が過ぎる桃花の行動をよく分かっている火椎の言葉に、雷瀬は苦笑を浮かべた。
本当に良く出来た弟だと。
穏やかな目をして、兄弟のことを語る雷瀬を綾女は柔らかな笑みを浮かべながら眺めていた。
その視線に気がついて、雷瀬は、ちょっと慌てた顔をする。
「えっと、どうかしましたか?」
どこか綾女が寂しげな目をしている気がした。何でそう思ったのかは、雷瀬自身もよく分からないのだが、なんだか、今にも泣き出しそうな、そんな風に思えて心配になる。
「ううん。兄弟のこと、本当に可愛いんだなって思って。
ほら、弥太郎には兄弟がいないでしょう。いたら、違ったのかなとか。ふっとそんなこと考えちゃった」
笑ってはいるが、やはりその瞳はどこか寂しげな色をしていた。
それは失うことを知っている瞳。失ったものはもう二度と還らないと言う事を知っている瞳。
その瞳を雷瀬はよく知っていた。
自分の、晶杷の、桃花の、火椎の。失った時の痛みを上らせた時の瞳によく似ていたから。
「でも良いよね。兄弟って」
振り切るような綾女の言葉に、雷瀬は笑う。
「はい」
「ね。雷瀬君。
たまにこうして雷瀬君の家族のこと聞いて良い?」
穏やかに笑う綾女に、雷瀬は笑みを崩さず。
「ええ」
そう言った。
「あ。綾女さんずるい。一人で雷瀬君と話してる」
ムッとしつつも、どこか眠そうな弥太郎の声が唐突に響く。
「えっ。弥太郎さん?」
確か寝ていたはずだったのだが、何時の間に起きてきたのだろう。ビックリとして雷瀬が弥太郎を見ていると。
「どうしたの?」
寝つきがよく、一度寝たら滅多なことでは起きない弥太郎が起きて来たという事に、綾女もかなり驚いているようだ。
「んー。父さんとハクのやり合ってる声、久々だから耳についちゃって目が覚めちゃった」
眠そうに目をこすりつつそう言う弥太郎に、綾女は凶悪な笑みを浮かべる。
はじめてみたその表情に、雷瀬は思わず腰が引けた。
「あのばか者どもがっ」
押し殺した声を発し、綾女は、弥彦とハクがいまだいる居間へと向かった。それを呆然と見送っていると、弥太郎が眠たそうな目をしつつ、ほやんと笑っていた。
「えっと、もう寝ましょうか」
どう考えても寝ぼけていそうな感じがしたので、雷瀬はそう提案する。
「そうだね」
提案はあっさりと受け入れられたので、雷瀬は弥太郎を伴って部屋に戻ることにした。
背後では、綾女の怒声。
そして、今更に雷瀬は思い出す。
綾女が一度も自分の家族に対して過去形を使わなかったということに。
それが気遣いから出た事であったのか、無意識だったのかは分からないが、嬉しいと雷瀬は思った。
自分にとって、家族の事は、過ぎ去ってしまった過去の事ではない。本の少し手を伸ばせば届きそうな、そんな微妙な位置にあるものなのだ。
伸ばした手が決して届かないことは承知はしているが。
こっそりと苦笑を漏らすと、雷瀬は、今日はなんだかゆっくりと眠れそうだと思った。