有縁-2-
それは、雷瀬には、結構安心できる平屋の日本家屋だった。
広い庭。小さな池。縁側のあるその家に、雷瀬はほっとする。
街中で見た、高い建物の一角などといわれたら、とてもではないが落ち着かないと思ったからだ。
「本家に比べちゃうとちっちゃいけどね」
変わらぬ調子でそう言う弥太郎に、雷瀬は首を左右に振った。
「大きさとか、関係ないですよ」
雷瀬にとっては、何処も一緒なのだ。
自分に連なるもののいないこの世界は、ハクがいるということだけが、全てだから。
「そう。ならよかった。
だって、前の家も大きかっただろうから、その方が安心するかなって思って、ちょっと心配だったんだ。でも、これでも、三人で暮らすには大きいんだけどね」
一人一部屋をあてがって、それでもまだ部屋は余っていた。
元々は、本家が別宅に使っていた家をハクを連れているというのもあり、弥彦が譲り受けたのだ。
理由はいたってシンプル。
長候補でなくとも、ハクを連れているものをみすぼらしい家でなど住まわせておけるか。
と言うことだ。
まあ、それを綾音との結婚が決まってかなり地に足が着いていなかった弥彦は、二つ返事で受け入れたわけだが、綾音とハクの三人でここに来た時は、家の広さにどう使っていいのかわからなかったくらいであった。
その後、だだっ広かった部屋を小分けに改装したりなどして、今の家になったのだ。
一行の帰ってきた気配を察したらしい綾女が、扉を開ける前にがらりと戸をあける。
「お帰りなさい」
弥太郎と弥彦に向かってそう言うと、綾女は雷瀬を見た。
「雷瀬君、いらっしゃい」
柔らかに微笑んでそう言葉にする。
「おじゃまします」
小さく雷瀬は頭を下げると、玄関をくぐった。
廊下を渡り、最初に通されたのは居間だった。
畳に四角い卓袱台。お茶請けが置かれ、茶器が用意されている。
お茶と言うと、本家では紫水の破壊行動を思い出させるが、ここではさすがにそれはないだろうと、雷瀬も落ち着いて綾女の行動を見守っていた。
「雷瀬君のいた時代って、お茶とかってなかったのよね。
たぶん、普通に飲んでいたのって白湯かなって思ったんだけど、皆で、お茶を楽しむには少し味気ないかと思って」
そう言って、綾女が取り出したのは、八重桜の塩漬けだった。
それを一つ茶碗に入れる。急須に湯を入れ少し温度を冷ますと、ゆっくりと湯を注いだ。
萎れた花が咲く様に、ゆっくりと開いていく様は綺麗だ。
「桜湯って、おめでたい席で出すんだけどね」
そう言って、綾女は笑う。めでたい席と言う意味が一瞬わからず、きょとんとしたが、綾女が笑ってそれを差し出しているのを見て、めでたい席とは婚姻などの事を言っているのだと言う事に気がついた。
一口含むと、素朴な味が広がる。
「お茶請けは、栗の甘納豆にしたの」
幸せそうにそう言う綾女の姿に、弥彦がこっそりと溜息を吐いた。
「結局お前の趣味か」
弥彦の言葉に、綾女は、むっとした表情をする。
「趣味も実益も兼ねてるだけよ」
険悪なムードになりかかる二人を横目に、弥太郎は茶請けの栗の甘納豆を頬張る。
「おいしいよ。雷瀬君。
ハクも出てきて食べなよ。綾女さん、ハクの分も用意してるから」
雷瀬の隣に用意されている、てんこ盛りの皿は、どうもハク用だったらしい。
当たり前に出されているハク用の食べ物。ハクがいることも、自分がいることも気遣わない態度。
久しく忘れていた感覚を雷瀬は思い出す。
本の少し前までは当たり前だった、家族がいた時間。桃花が火椎が、そして母がいた。にぎやかで穏やかな時間。
「雷瀬君。ぼうっとしてると、ハクに盗られちゃうよ」
悪戯っぽい口調の弥太郎の声にはっとすると、すでにハクは自分の分を平らげかけている。
「ハクの食い意地は相変わらずだな」
あれだけあった栗の甘納豆をすでに平らげかけているというのがとんでもない。
味わう間もなく口に放り込んだに違いないのだ。
苦笑を浮かべる雷瀬に気がつき、ハクは思わず手を止めた。
「雷瀬」
怒られるかなといった顔をしているハクに、雷瀬はただ苦笑を浮かべる。
こんなに自然に呼吸をしている自分が、雷瀬は不思議だった。
いつもどこか息苦しかった本家とは違う。ハクも緊張していないと言うのが更に自分を安心させているのだろうということに、雷瀬は気がついた。
「ありがとう。ハク」
なぜ礼を言われているのか分からないハクは、きょとんとして雷瀬を見る。
「でも、お茶請けはあげないから」
しっかりと自分の分を死守する雷瀬に、ハクは。
「あああ」
と、情けない声を出す。
「あれだけあったの、よく味わいもせずに平らげたのはハクだからね」
取り合わないと視線を逸らす雷瀬に、ハクは捨てられた猫のような顔を向けた。
しっかり雷瀬の分を狙っていたようだ。
「まったくハクは。
どうせ足りないって言うだろうと思って、お菓子は買ってあるから、勝手に取ってらっしゃい」
溜息交じりの綾女の言葉も全く気にせず、ハクは早速お菓子を取りに台所に向かった。
「本当に高いものの食べさせ甲斐のない」
その姿に、綾女はぽつりとそう漏らす。
質より量を重んじるハクに、高くて美味しいものは物足りないのだ。
「ハクは甘い物好きだよね。本当に」
笑う弥太郎を見て、雷瀬は、契約を交わしてしばらくした頃、蜜蜂の巣を抱え、得意げに笑っていたハクを思い出す。
すでに捨てられた巣であったため、中は空っぽだったし、さらには、蜜を溜め込む類の蜂ではなかったため、もしも蜂がいたのなら、刺され損だったわけなんだが。
「皆で食べよう」
そう言って差し出したハクの笑顔はきっと一生忘れないだろう。
そこでやっと思い至る。
ハクが甘いものを好きになったのは、自分の言葉であったのかもしれない。
「美味しいものを食べると、それだけで気持ちが優しくなるよ」
何気ない言葉。
それをハクは覚えていたのかもしれない。
しかし。
大量のお菓子を抱え、幸せそうに頬張る姿を見て、それはさすがに思い違いなのかもしれないと思いつつ、初めての弥太郎たちの家での一日は、ゆっくりと過ぎていった。