臆病
握り締めた手の中にあるのは制服の第2ボタン。いつも通りに「佐伯ー」と何気なく呼べば良いだけなのは分かっているのに、どうも緊張する。野球部恒例の卒業生送り出し会が終わり、3年間待ち合わせ場所にしていた下駄箱へと向かっていた。まだ僅かに残っている生徒の騒ぎ声がグラウンドの方から響いてくる。すると自分のことで頭が一杯で目の前に来るまで気づかなかったが、下駄箱前で二人の生徒が向かい合って話していた。その真剣そうな雰囲気を邪魔をしないよう咄嗟に身を隠す。緊張で火照っていたのか、背中に触れる金属製の扉が冷たく感じられた。
『佐伯先輩、俺の第2ボタン、貰ってください』
盗み聞きをするつもりはなかったのに、男子生徒の口から出た“佐伯”という名前に思わず耳をそばだててしまう。
『え、いや。だってこれから一年間困っちゃうでしょ』
『でも先輩が好きなんです』
聞くんじゃなかった。そう後悔したところでもう遅い。佐伯の背中で隠れて見えなかったけれど、おそらく相手は佐伯と同じ陸上部の2年生。小学生と見間違うくらい小柄で、変声期もまだ迎えていない彼は嫌でも印象に残る。まして部長である佐伯と部活の話をするために何度か教室まで来ていたから尚更。
(……あいつ、ボタン貰うの何個目だよ)
どうやら男には意外とロマンチストが多いらしい。自嘲も含めつつそんなことを思いながら、去年の今頃も佐伯が先輩から告白されているところに遭遇したことを思い出す。
『本気です。……けど先輩が俺のこと好きじゃないのは分かってるんで。せめてこれだけでも受け取ってください』
『けど……』
『俺のことそんなに嫌いですか!?』
『だ、断じてそんなことは!』
『じゃあ受け取ってください!!』
そう言い捨てると、彼は俺の横を走り抜けていった。さすが陸上部次期エース。なかなかの速さだった。
「佐伯、帰るぞ」
呆けたまま突っ立っている佐伯の背中を軽く叩くと、ビクリと大きく肩が揺れた。構わず俺は先に足を進める。
「ふ、藤崎、あんた聞いてた!?」
「んー。聞こえちゃった?」
とぼけたように首を傾げて返事をすると、小走りに追いついてきた佐伯に睨み付けられる。
「盗み聞きとかサイッテー」
「しょうがねぇだろ。つかお前、ボタンいくつ貰ってんの」
問い掛けながら、自分のはズボンのポケットにそっとしまう。
「い、いくつでもいいでしょ」
「ひゅー。モテモテだねぇ」
佐伯よりも数歩先を歩きながらおどけたように返す。
「藤崎の方こそ、ボタンどうしたのさ」
「……さー? 知らね」
「知らないわけないでしょ!」
向き合ったのはたった一瞬だったはずなのに、目敏いというか何というか。こちらが気付いてほしいと思うことには気づかないくせに。
「何ー、気になるの? それとも、俺のが欲しかった?」
顔だけ振り向きニヤリと笑いながら聞けば、即答で返事がくる。
「な、んな訳ないでしょ!」
何年も過ごした間、良い雰囲気になったことがないわけではない。けれどそんなものは俺の勘違いだってことをもう何度も思い知らされている。そばにいるだけで楽しくて、安心できて、だからこそ気まずくなってしまうのが怖くて、何となくずっと一緒にいて。そんな臆病な恋愛感情を抱いているのは自分だけなんじゃないかっていつも思う。
お互い黙りこくったままただ足を前に進める。気まずい沈黙に似合わず、春らしい鳥の鳴き声が聞こえた。
「こうやって帰るのも最後だな」
呟きながら軽く蹴った小石が誰かの家の塀に当たって砕ける。
「……高校も一緒なんだからまた一緒に帰ればいいでしょ」
少しの間を置いて返ってきたのは俺にとって嬉しい言葉。
「んー……」
それを素直に喜べないのは、俺の我儘でずっと佐伯の傍にいてもいいのだろうかと思ってしまったから。弱気の原因は考えなくとも分かっている。
「今までごめんな」
「何が?」
いつも通りの悪い目付きに加えて怪訝そうな表情で聞き返される。
「ほら、一緒に帰ってると勘違いされるだろ」
「……」
「……お互い好きでもないのに、付き合ってるとか思われたりしてさ。そのせいでお前に告白もせず諦める奴とかもいたし」
沈黙が居心地悪くて、早口に言い訳を付け足した。
「ごめんはこっちだ!」
佐伯から目は逸らしたまま言葉を続けようとしたのに、力強く投げ掛けられた言葉に呆気に取られる。今にも泣き出しそうに潤んだ目とか、耳まで真っ赤になってる顔とか、強く握り締められた手とか。……いくらでも都合よく解釈できる。
呆然と見詰めたままでいると、視線を逸らされた。
「藤崎こそ今までろくに彼女も作れなくて。……迷惑かけて悪かったね」
「さえ、」
こちらを向いてほしくて伸ばそうとした手も、告白をしようと開いた口も、佐伯の言葉に遮られる。
「別に私だってあんたのこと何とも思ってないからっ」
「……」
出かかっていた二文字はぐっと飲み込んだ。
「……じゃあね」
いつも別れる曲がり角を曲がり、佐伯はこちらを振り向きもせずに歩いていく。段々と小さくなる背中が見えなくなるまで、体が固まってしまったように動けなかった。
「あの時残したはじめの一歩」はこの後の話です。