第七章「狂母」第九十九話
《ピソの裁判》
この私、クラウディウスは、ドルスッス様と共に、裁判の行われる元老院の目の前広場に集まった人々に圧倒された。彼らは兄ゲルマニクスの死が、ピソによる毒殺だと心から信じている者達ばかり。いきり立ち、その腹に抱えた怒りは、スパルタカス暴動の歴史を連想させるほど。
「改めて、兄を慕う人々の数に、私はビックリしてしまいました。」
「ゲルマニクス…。死してもなお、さらに多くの人々の心を虜にしていったのか。」
「ですね。本当に凄まじい人間の数だ。」
「それにしてもです、クラウディウスさん。我々は建物まで果たして行けるのでしょうか?」
「参りましたね…。」
すると、我々がいる場所とは反対側から、罵声が飛び交始める。ある者は喉を枯らしながら訴え、ある者は護衛の兵士の目を盗んで、何とか物を投げ込もうとしている。そう、今回被告として訴えられた、ピソとその家族が元老院へ到着した様である。
「おい!ピソ!貴様の様なローマ人の風上にも置けないやつは、即刻死刑だ!!」
「俺たちを見下しやがって!余裕ぶっこいてるんじゃねーぞ!てめぇ!戻ってから直ぐにドンチャン騒ぎしたそうじゃねぇーか?!この裏切り者!レムス様の怒りを浴びちまえ!」
ここまで市民の怒りが頂点に達していると、さすがに呪われているのは、この者達ではないか?と皮肉の一つでも浮かんでくる。だが、ピソは動揺するどころか、堂々と胸を張って階段を登って行く。また、その堂々たるや姿が、怒りに満ち溢れていた群衆を逆なでしたのだろう。彼らは罵声を飛ばし始める。
「いいか?!ピソ!我らの救い主、ゲルマニクス様を亡き者にした罪は思いぞ!」
「元老院の豚ジジイ共が、いくら貴様を無罪放免にしようとも!俺たちローマ市民は黙ってねぇーからな!」
「貴様のにやけた皮は!この俺が斬り裂いてやる!」
「丁度いい!肉屋の知り合いに頼んでやろうさ!!」
「あははは!!!」
明らかに度の行き過ぎた罵声が飛び交っているが、ティベリウス帝位より、娯楽の一切を奪われたローマ人達の捌け口の矛先が、ピソへと向けられた怒りや憎しみという事であれば、理解し難い状況ではない。
「さぁ、ドルスッス様。今のうちに行かれてくだされ。」
「クラウディウスさん?」
「貴方と一緒に行けば、片脚を引き摺る愚か者の存在で、大変な騒動に巻き込まれますよ。」
「そうだな。彼らの勢いに後押しされて、我を見失っては裁判の本質が掴めなくなる。」
「ですね…。」
「では…クラウディウスさん、後ほど。」
ドルスッス様は凛々しくも群衆に見事混ざりながら、裁判所へと入っていった。さて、世界の最も注目を浴びる裁判がいよいよ行われようとしている。広場の血相とはまるで違って、院内はやけに静まり返っていた。しかし、今回は開廷をする際に、裁判長を務めるティベリウス皇帝が異例の注意を発したのは意外であった。
「今回の裁判を行うにあたり、元老院議員の諸君らには、一つ守ってもらいたい事がある。私とて、養子とはいえ、自分の弟の長男であるゲルマニクスの死には涙した。だが、裁判は公平かつ平等に行って欲しい。ゲルマニクスの死に関するピソへの起訴が認められるのが国家ローマの法ならば、被告の弁護に立つ者にも、告発者と同等の権利が与えられることが保証されるのも国家ローマの法でなければならない。法の前には、万人は平等均等に弁論の権利を有するものだ。」
ティベリウス皇帝から告発者に対する牽制なのか?はたまた皇帝としての立場を明確にしたのか?その真意は未だにわからないところではあるが、この裁判が彼らにとっても『繊細な問題』であった事は確かのようだ。
「しかるに、ピソ殿のような聡明で偉大な功績をお持ちの方が、このような告発に巻き込まれる事態、ナンセンスと言わざるを得ない。」
ピソの弁護側の無能さは、誰の目から見ても明らか。これでは本当につまらない歌劇を見ているようなもの。ピソの威厳や威信を盾に、飾り立てられた無駄な言葉を吐き出すだけで、何一つ弁護されていない。さすがにピソとは旧知の中である皇帝にとっても、時間の無駄な浪費と感じていただろう。
「もうよい!」
一方、兄ゲルマニクス側の若き四人の告発者達は、見事な手腕で次々とピソを法の下に糾弾していく。これは明らかに共和政支持者の長老たちによる演出だろう。彼ら四人は正義という名の下に、法を熟知した長老達から、敢えて感情を押し殺して裁判へ挑むように示唆をされたのだ。
「さらに、ここにはシリアにおいてピソ被告が直々に承認した書簡があります。これを持ってすれば、シリアにおける被告の実状がどうであったか、語る事を抜きにしても、明白になるはずです。」
「クッ!」
一つの理由には、裁判長のティベリウスも述べたように、冷静に告発することで均一均等に進めつつも、告発側に有利な評決の道へ導かれる可能性があること。もう一つは、若者に対してそのうぶさ故に邪知をしたがる年長者への牽制という演出だ。若者の心情は世論の風評を純粋に感じ取り、感情論に走り易いものである。だが、被告への悪感情を押し殺した四人の初々しさと不憫さに、皇族派の年長者達も心を奪われるだろう。結局のところ、裁判とは、法という名の脚本を元にした舞台劇であり、そこへ参加するものの心を掴むため、被告も原告も役者であるといえるのかもしれない。
「確かに、シリアでの軍に対する統率方法では、ゲルマニクス氏とは意見の衝突があったことは認める。だが、だからといって、それがゲルマニクスを殺す私の動機にはならん!」
「では、属州の総督である貴方にお伺いします。なぜ、二度も、任地から離れる必要性があったのでしょうか?」
「何?」
「その間に原告が軍に託した命令とは全く違った、軍の統率を混乱させるような命令書が被告より出されております。これが証拠となります。」
「ど、何処でそれを?!」
「そこには、原告ゲルマニクスの命令を無視せぬ者への処罰まで詳細に書かれております。また、今回問題となった原告によるエジプトへの未承認入国も、被告の原告に対する非協力体制によって生み出された状況による、被告から強要された結果だと考えられます。よって、被告は巧みな情報操作によって、原告を国家反逆罪の烙印を押す為の罠であった事はいうまでもありません!」
「馬鹿な?!さっきも言ったろう?!我々は確かに衝突はしたが、敢えてそのような境遇に陥れる事など、国家ローマを守る軍人として、また、ゲルマニクスの戦友として断じて無い!」
「では、戦友として、原告が国家反逆罪に捉われる可能性のあった、エジプト入国を何故止めなかったのですか?」
上手い。
感情の抑制の効いた若者ほど、真っ直ぐに問題へ光を当てる。それも真摯な表情を携えて。
「以上の状況からも、ピソ被告の国政に対する違反行為は明らかであり、また、逃れようのない事実でもあります。」
そして裁判は、被告の自決という意外な結末を辿る事になる。
続く