第七章「狂母」第九十三話
ローマの人々は一斉に休業した。
それも三ヶ月以上に渡って。こんな事は前代未聞な事だった。ゲルマニクスお父様の為に喪に服するというのが、表面上の理由だったけれども、根底には、国葬へ不参加表明をした皇族への不信感を抱いた民意の表れだったらしい。
「ええ、八百屋もどこもかしこも街みーんな閉まってますですよ。」
「あー、だからできるだけ直接一番から仕入れ値を安くできるようにしていまっす。でも、表立って赤ら様に商売なんてできない様子です、はい。」
料理人のシッラとリッラは、できるだけ何とかやりくりしている。だが、お父様の親友だったクッルスは、ドルスッス様同様に憤慨されていた。
「当然だ!皇族の連中はドルシッラ様以外、ゲルマニクスの国葬に参加されなかったのだからな!」
「おい、クッルス。いくらなんでもそれは過激な発言だぞ。我々は大母后様からの命で、アントニア様一族を警護する身。少しは己の感情まかせな意見を自重しろ!」
「いいや、セリウス。今回はお前とは意見を反する。何故我が友の最期にいるべき方々がおられない?!」
「だからな、それはお前も見ただろう?!アントニア様の病状を!」
「ウィプサニア様が言うように、医者ならば不参加は分かる。だが、国葬なのだぞ?!」
「クッルス!いい加減にしないか。」
「いいや、セリウス。俺たちは魂まで皇族へ売ったわけでは無い!飼い犬や開放奴隷などになるつもりはない!」
さすがに今のクッルスの言葉には、嫌な雰囲気が流れた。彼には珍しく、シッラやリッラの下等身分を卑下する物言いだったから。
「クッルス。頭冷やしてこい。」
「ああ、そうさせてもらぜ!」
怒りを抑えきれないクッルスは、表に出て行ってしまった。太っちょのリッラは心配そうに見つめている。
「あー、リッラ。あんたがいくら心配しても意味が無いんだからね。」
「でも、シッラ。クッルスさんが、あれじゃ可哀想じゃないか。」
「あー、リッラ。やめなさい。」
「シッラ、あたしクッルスさんが心配だからちょっといってくる。」
「あー、リッラ?!」
すると、リッラは一目散にドタドタ走ってクッルスの後を追って行った。私とシッラとセリウスは目をまん丸にして驚いた。暫くすると、ははーんとニヤリとしたセリウスが話し出す。
「シッラ、リッラはクッルスの奴に恋しているのだな?」
「あー、恋と言われても何と言うか…。えええ?!リッラがクッルスさんに?」
「あの様子じゃ、本当に好きなんだろうね。」
「あー、こんな時にですか?全く、はぁ…。」
恋?
何だろう?食べ物かしら?当時の私は何だかさっぱり分からなかった。誰かを好きになるなんて、私には考えられない事。だってやっぱり理想的な男性像はお父様のような方でなければ。それに、お父様がこの世を去ったというのに、まだまだ私はどこかで幻を見ている気分が抜けていない。
「アグリッピナ様?どうしました?」
「あ、セリウス。ううん、何でもない。」
「あー、何だか最近アグリッピナ様はぼうっとする事が多いみたいですよ。」
「そう?そうかしら。多分、最近リウィア大母后様の教室に行ってないからかな。何だか身体がなまっちゃって。」
「あー、リウィア大母后様の教室に、ですか…。」
「あはは…。」
セリウスとシッラは乾いた苦笑をしている。確かにそうだ。お母様が大母后様の教室へ行かせる事を許すはずがない。だってあれだけ毛嫌いしているのだから。でも、私は個人的に大母后様へ、何故お父様の国葬へ参加されなかったのかを聞いてみたかった。
「おーい、ユリア。」
「あ、ドルススお兄様。」
「お兄ちゃんと木登りしに行こうぜ?」
「木登り?!本当に?!でも…今は大丈夫かな?」
「大丈夫だって。喪に服するので木登り自粛なんて聞いた事ないだろ?」
「うん!やったーー!」
ドルススお兄様は本当に優しかった。もちろんネロお兄様もいつも優しいけれども、今年の成人式を控えているから忙しかった。私達は奴隷のパッラスを連れて、お父様の倉庫があるパラティヌス丘下の所で木登りをする事にした。
「ドルススお兄様~。早く!早く!」
「ちょっと待てって!ユリア、お前速すぎだぞ!」
「お兄様こそ運動不足なのですよ、アッハハハハ!」
「なにを?!見てろよ~!」
「もう、頂上まで着きましたわ!」
「え?!ウソ?!本当かよ…。あいつ絶対、アマゾネスのペンテシレイア様の生まれ変わりだ…。」
私達兄妹二人は、喪に服している間の遊びは大体が木登りだった。そうして、木の頂上からパラティヌス丘の上の宮殿を眺めていた。
「ドルススお兄様。これからどうなってしまうのでしょうか?」
「うん。お母様はあくまでもピソとその家族を裁判で断罪するつもりだよ。」
「そうなると、勿論ネロお兄様もお母様の意向を受け継がれるわけですよね?」
「そうなるな。でも…僕はあくまでもクラウディウス叔父様と同じ意見。真相を調べてからでないとダメのような気がする。」
「私は個人的に、大母后リウィア様にお伺いしてみたい。アントニア様の看護っていうのは分かるし。私達とリウィア様が血の繋がらないとはいえ…。」
「え?!」
「うん?」
「ユリア、お前何言ってるんだよ。大母后リウィア様は、僕たち兄妹の曽祖母だよ。」
「えええ?!」
「だってそうだろう?アントニア様の旦那様はティベリウス皇帝陛下の弟だろ?その兄弟のお母さんは誰になるんだ?」
「ああああああああ?!!!リウィア様だ!!!」
「だろ?お前、今迄気が付かなかったのか?」
「そういえば、ご本人から言われてたかも...。」
私は恥ずかしながら、この時初めてリウィア様と血が繋がっている事に気が付いた。
続く
【ユリウス家】
<ユリア・アグリッピナ(15年-59年)>
主人公。後の暴君皇帝ネロの母。
<ゲルマニクス(紀元前15年-19年)年の差+30歳年上>
アグリッピナの父
<ウィプサニア(紀元前14年-33年)年の差+29歳年上>
アグリッピナの母
<長男ネロ(6年-31年)年の差+9歳年上>
アグリッピナから見て、一番上の兄
<次男ドルスス(7年-33年)年の差+8歳年上>
アグリッピナから見て、二番目の兄
<三男ガイウス=カリグラ(12年-41年)年の差+3歳年上>
アグリッピナから見て、三番目の兄
<次女ドルシッラ(16年-38年)年の差-1歳年下>
アグリッピナから見て、一番目の妹
<三女リウィッラ(18年-42年)年の差-3歳年下>
アグリッピナから見て、二番目の妹
【アントニウス家系 父方】
<アントニア(紀元前36年-37年)年の差+51歳年上>
アグリッピナから見て、父方の祖母
<リウィッラ・ユリア(紀元前13年-31年)年の差+28歳年上>
アグリッピナから見て、父方の叔母
<クラウディウス(紀元前10年-54年)年の差+25歳年上>
アグリッピナから見て、父方の叔父
【アントニウス家系の解放奴隷、使用人および奴隷】
<ナルキッスス(1年-54年)年の差+14歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<パッラス(1年-63年)年の差+14歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<フェリックス(12年-62年)年の差+3歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<アクィリア(17年-19年)年の差-2歳年下>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<シッラ(紀元前15年-60年)年の差+30歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<リッラ(紀元前15年-59年)年の差+30歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<クッルス(紀元前15年-59年)年の差+30歳年上>
父ゲルマニクスの親友
<セリウス(紀元前15年-60年)年の差+30歳年上>
父ゲルマニクスの親友
<セルテス(紀元前12年-63年)年の差+27歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<ぺロ(17年-30年)年の差-2歳年下>
父方の祖母アントニアの飼い犬
【クラウディウス氏族】
<リウィア大母后(紀元前58年-29年)年の差+73歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の母親。初代皇帝アウグストゥスの後妻
<ティベリウス皇帝(紀元前42年-37年)年の差+57歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の兄弟。初代皇帝アウグストゥスの養子、リウィア大母后の長男
<ドルスッス(紀元前14年-23年)年の差+29歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の兄弟の息子。二代目皇帝ティベリウスの長男
<リヴィア(5-43年)年の差+10歳年上>
アグリッピナから見て、父ゲルマニクスの妹の娘。ドルスッスの長女
【ティベリウス皇帝 関係】
<セイヤヌス(紀元前20年–31年)年の差+35歳年上>
二代目皇帝ティベリウスの右腕。親衛隊長官
<ジュリア・セイヤヌス(17年-31年)年の差-2歳年下>
セイヤヌスの長女。アグリッピナの親友
【後のアグリッピナに関わる人物】
<ウェスタ神官長オキア(紀元前68年-29年)年の差+83歳年上>
ウェスタの巫女の長
<セネカ(紀元前1年-65年)年の差+16歳年上>
アグリッピナの盟友
<ブッルス(1年 - 62年)年の差+15歳年上>
アグリッピナの悪友
<アニケトゥス(1年 - 69年)年の差+15歳年上>
後のアグリッピナ刺殺犯
<ティベリ・ゲメッルス(19年 - 38年)年の差-4歳年下>
俗称ティベリウス・ゲメッルス。ティベリウス帝の遺言より兄カリグラと共同統治を指示されるドルスッスの双子の息子の一人。
<ゲルマ・ゲメッルス(19年 - 23年)年の差-4歳年下>
俗称ゲルマニクス・ゲメッルス。ドルスッスの双子の息子の一人。
<ガイウス・アシニウス・ガッルス(紀元前41年-33年 年の差+56歳年上)>
二代目皇帝ティベリウスの長男ドルスッスの母の再婚相手であり、母ウィプサニアの支援者
<マルクス・コッケイウス・ネルヴァ(紀元前58年-29年)年の差+72歳年上>
後の五賢帝ネルヴァの祖父で、母ウィプサニアの支援者