第六章「亡父」第八十五話
「あわわ!アントニア様?!」
「落ち着きなさい、アグリッピナ!」
「でも!アントニア様はマイナデスに呪われているのでは!?」
「滅多な事を言うもんじゃありません。これはマイナデスの仕業ではなく、アントニアの心にある病のしわざです!」
「母さん!早く!」
ティベリウス皇帝陛下は、リウィア様へ合図を送った。すると、先ほどネロお兄様が慎重に持ってきたアブサン酒を取り、アントニア様の口を無理矢理開かせて飲ませようとする。だが、アントニア様は抵抗して、口を閉ざしたまま。
「アントニア!口を開きなさい!」
「うっがああああ!」
すると、リウィア様はたんまりアブサン酒を御自分の口へ含んで、強烈な苦味に目を閉じながら顔を振って耐えながら、アントニア様の鼻を摘まんで口移しで強制的に呑ませた。何度もその苦さに耐えきれず、吐き出そうとするものの、リウィア様はアントニア様の口を塞いでさらに呑ませる。
「うああああ!」
飲み切ったアントニア様はさらに苦しんで、暴れていると、隣ではアブサン酒の強烈な苦味に耐えていたリウィア様が、舌を出して吐き出していた。そして再びアントニア様の鼻を左手で抑えると、すかさず右手の指を二本伸ばし、アントニア様の喉仏へと突っ込んだ。
「我慢してよアントニア…。今、あんたは死んじゃいけないんだから。」
何かを探しているように、何度も口に突っ込んだ右手をグリグリと回してる。しばらくすると、アントニア様は、何度か苦しそうに咳を始めた。
「ティベリウス!離れなさい!」
同時に、アントニア様を羽交い締めにしていたティベリウス皇帝陛下が離れると、ゴボゴボとアントニア様のお腹の方で音が鳴りだし、リウィア様が指を勢いよく抜くと、一気に嘔吐を始めた。
「良くやったわね、アントニア。でも…もう一回行くからね?頑張りましょう。」
苦しそうに吐いてるアントニア様の背中を摩りながら、リウィア様は御自分の嘔吐物で汚れた指など気にもせず、再度、アントニア様の喉仏へ二本の指を突っ込んで嘔吐をさせた。本当に苦しそうに、吐き出しているアントニア様。私達三人はその光景に、ただ、何があったのか分からず怯えていた。後ろから、心配して駆け寄ったリッラとシッラが水と布を持ってきた。リッラは嘔吐物で汚れたリウィア様の右手を綺麗に拭きながら、シッラは嘔吐物で汚れたアントニア様の口の周りを綺麗に拭きながら質問をしていた。
「あー、大母后様?もしかして、リウィア様は…。」
「そうよ…。」
「まさか!御自分で命を?!」
「ええ。アントニアの旦那が死んだ時と、同じ事をしようとしたのよ。」
アントニア様の亡き旦那様は、ティベリウス皇帝陛下の実の弟であり、リウィア様の実の子供。29歳という若さで落馬して、この世を去ってしまった、私達のおじいちゃん。後から分かった事だが、アントニア様は身内での不幸があると、そのショックに心が耐え切れず、自ら命を断とうとする傾向が幼い頃からあったらしい。アントニウス様がこの世を去った時にも、自殺紛いをして、騒がせたらしい。
「母さん、見つかったよ。」
「…。」
ティベリウス様が、わざわざアントニア様の嘔吐物から黒い何かを拾い上げた。直ぐにリッラはそれが何であるかに気が付いて取り上げた。
「お前達は、自分の主人がこんな物を買っていた事も気が付かなかったのか?!」
突然の大声で、リッラとシッラを叱責したティベリウス様は、彼女らを震え上がらせた。しかし、リウィア様は冷静にリッラの手に隠した黒い何かを取り上げ、ゆっくり眺めている。
「一体誰がこんな物を…。」
「母さん、危険だから。」
「分かったわ。直ぐに処分して頂戴。」
ようやくアントニア様は落ち着いたらしく、リッラが寝床へ静かに運んだ。リウィア様もティベリウス様も、汚れた手を井戸の水で洗いに寝室を出られる。私達三人は二人の後について、綺麗な布を手渡した。
「ありがとう。」
ティベリウス様は優しく答え、アントニア様の爪で幾多も引っかかれた腕を拭いていた。
「君達は、ゲルマニクスの子供達だな?」
「はい。」
ネロお兄様が率先して答える。
「そうか…。」
ティベリウス様は、物悲しい瞳で何度も私達の顔を確認した。言葉は何一つ掛けてくださらなかったが、その寡黙な態度だけで、私達のお父様に対する悔やみの念を伝えて下さった。知らず知らずに、ネロお兄様が泣き出し、ドルススお兄様も泣き出し、そして私も泣き出してしまった。皇帝陛下は優しく何度も私達の頭を撫でてくれた。
「ティベリウス。そろそろアントニアを運びましょう。」
「分かりました、母さん。」
「リッラとシッラでしたっけ?後で使いの者を寄越すから、それまでにアントニアの衣類などを全て用意しておきなさい!」
「はい!」
「はい!あー、全てというと、何日分位でしょうか?」
「最低は三週間。最高でも二ヶ月以上よ。」
その指示に直ぐに従う二人だった。私達は涙を拭きながら、膝を床に付けて、両手を広げるリウィア様の元へ近付いた。
「怖かったでしょう…。でも、あなた達のアントニアは大丈夫よ。最高の治療方法で、必ず元の優しい頃のアントニアを連れて帰るから。」
「うう…リウィア様?」
「なに?アグリッピナ。」
「アントニア様は…ううう、本当に御自分で…その…。」
けれど、大粒の涙を流しながら、リウィア様は顔を横に振って否定した。
「そんな事、あるわけないでしょ。さっきも言ったように、これはアントニアの心の病の仕業です。この子の名誉の為にも、口が裂けてもそんな事を言ってはダメよ、アグリッピナ。」
「はい、リウィア様…。」
「貴方、一番上のお兄さんネロでしたっけ?」
「はい…。」
「私達二人はしばらくアントニアを宮殿で看護します。その他の事は、ドルスッスが取り仕切ってくれるでしょう。だから、長男として、しばらくアントニアのこのドムスを守って頂戴。」
「はい、大母后リウィア様。」
それに続いて、ティベリウス皇帝陛下がネロお兄様にお声を掛けて下さった。
「ネロ君、私からは近衛兵を三千ほど出兵させよう。ゲルマニクスの遺灰を必ずローマまで無事に帰還させるよう、彼ら近衛兵には私が直々に命令を下しておく。だから、息子のドルスッスと一緒に港町タッラキナまで、弟のドルススくんと妹のアグリッピナを連れて、ウィプサニアとゲルマニクスを迎えに行ってあげなさい。」
「はい、皇帝陛下殿!」
「うん、良い返事だ。」
私達三人は、結局、このお二人によって助けられた。同時に、無力な子供なんだと思い知らされた。だが、このアントニア様の心の病に関する出来事は、ゲルマニクスお父さまを愛するローマ市民と、お父様の遺灰と復讐という紅蓮の炎を抱えたウィプサニアお母様には、ある一つの誤解を生み出すキッカケになってしまった。その誤解こそが、私達家族が崩壊する道を辿る事になる。運命を分ける警鐘は、私達の誰にも聴こえなかったのかもしれない。
続く