第六章「亡父」第八十四話
アントニア様は、普段の気さくさを失われてしまった。まるで狂気に駆られ、オルペウスをも殺害したマイナス達の様に…。
「アグリッピナ…。」
「大母后リウィア様。」
リウィア様は私を見るなり、直ぐにしゃがんで全身で抱き締めてくれた。唇は震え、頬から大粒の涙を流して、必死に泣く事を堪えようとされていた。小刻みに震えるリウィア様の肩が身体中に伝わってくると、私の切ない気持ちが一段と膨らみ、ジワジワとお父様がいなくなった虚無感に襲われてくる。
「アグリッピナ、無理しなくていいのよ。」
リウィア様は最初で最後の言葉を耳元で呟いてくれた。ギュッと私を抱き締めてくれるリウィア様の中で、私の涙腺はいよいよ緩み始め、今はここにいないお母様の代わりになる支えとして、リウィア様を抱き返し、言葉にならない言葉を発しながら、泣かせてもらった。リウィア様は私の髪を優しく撫でながら、再びご一緒に涙を流してくださった。
「アグリッピナ…。アントニアは、いるかしら?」
「はい…。寝室に。一週間以上、何も…口にされてません。」
リウィア様は、その言葉に心を痛めた様子で目を閉じた。後ろには、あの恐ろしく大きなガタイのティベリウス皇帝陛下が、物悲しい瞳を携えて立っている。以前見たときよりも、幾分、引き締まった身体になられていた。
「ティベリウス、いらっしゃい。」
「はい…。」
私はお二人をアントニア様の寝室へご案内した。二人の足取りは、それぞれ違っている。リウィア様は一歩一歩踏みしめるように。しかし、ティベリウス皇帝陛下の足取りは重いように感じた。
「アントニア様…ユリアです。本日はお忍びで、リウィア様とティベリウス皇帝陛下がいらっしゃいました。」
けれども、返事はまるっきりない。私は再び寝室の扉越しに大声でアントニア様へ呼び掛けた。すると、中から寝室の扉へ何かが投げられた音がした。
「アントニア…。貴女まで引きこもってるわけ?」
リウィア様は思いっきり寝室の扉を開こうとしたが、しかし中々開かない。ティベリウス皇帝陛下に指で扉を開くように指示をして、ティベリウス皇帝陛下は思いっきり右肩で扉を開けた。
「お義母さんの嘘つき!!!」
すると、寝室からはありとあらゆる物がアントニア様から投げつけられてきた。ティベリウス皇帝陛下は咄嗟にそれらをかわす事が出来たが、リウィア様は右のこめかみ辺りをぶつけられ、血を流されている。しかし、痛がる様子も束の間、実の息子にアントニア様を取り押さえる様に指示をする。
「アントニア!落ち着きなさい!」
「嫌です!どうして私ばっかりなんですか?!離して!イヤーーー!」
「ティベリウス!決してアントニアを離してはダメです。口を抑えなさい!」
リウィア様は御自分のストラを引きちぎって、まず自分の右こめかみを抑え、残りをティベリウス皇帝陛下へ放りなげると、何も言わず黙々と実の母親の指示に従っている。その間もアントニア様はまるで子どもの様に暴れて、目と歯茎を剥き出しにして恐ろしい形相を露わにしている。私にはその姿がショックで、絶対にマイナデスに呪われていると勘違いした。
「アグリッピナ、解放奴隷に暖かいお湯と布を今すぐ用意する事と、アブサン酒を直ぐに作らせなさい。」
「は、はい!」
絶対にそうだ!マイナデスに呪われてるに決まってる!私は慌てていたので、思わずペロの尻尾を踏んでキャインと吠えさせてしまい、そのまま転んで台所の手前の壁に頭をぶつけた。流石に慌ただしい様子に、庭で落ち込んでいたお兄様達も駆け寄ってくる。
「ユリア、どうしたんだ?!」
「あ、わああわ、アントニアああ様が、マイナデスの呪いに!」
「えええ?!」
私は直ぐにリッラとシッラに暖かいお湯を用意させて、こぼさない様にそれをリウィア様の元へ運んだ。頭の中は恐ろしい形相のアントニア様のお顔。
「ありがとう。あら、アグリッピナ?頭、大丈夫?!」
「ちょっと慌ててぶつけました。」
「これを当ててなさい。アブサン酒は作ってる?」
「あああ、はい!今すぐ!」
「ニガヨモギを多めに!それと木炭を入れないように指示するのよ!」
私はリウィア様の方を見ながらうなづいて、ちゃんと前を見てなかったから、また壁に頭をぶつそうだった所を、ネロお兄様が助けてくれた。
「ユリアは本当に慌てん坊だな。」
久しぶりに、ネロお兄様の笑顔が見れた。台所では、ドルススお兄様が二人の手伝いとして一生懸命ニガヨモギの皮をちぎってた。指を少し切ってしまい、傷口を舐めると物凄い大声で叫び出した。
「ゔ!にげぇーー!!なんだこの葉は?!」
「あー、それはニガヨモギです。とっても苦いので気をつけて下さい。」
「シッラ、もう少し早く教えて欲しかったよ~。」
良かった、ドルススお兄様も、普段通りの様子に戻られていた。料理上手のリッラと几帳面なシッラは、流石に仕事は早かった。ドルススお兄様のお手伝いが邪魔なほど。
「シッラ、ナツメヤシは?」
「あー、こっちに。」
「乳香三杯!」
「あー、はい、一杯、二杯、三杯。」
「コウスイガヤの葉。」
「あー、コスタスは六杯っと。」
「サフラン入れるの忘れてるよ、シッラ!」
「あー、カメリアのワインは何処?!」
「スパイス棚の下!」
普段なら、苦味を取り除くための木炭を使うが、リウィア様の指示で全く使われない。味合わなくとも、こちらまで苦味が伝わってくるようだ。
「アグリッピナ様!容れ物用意して下さい!アントニア様のお好きな容れ物を!」
「あ、はい!」
アントニア様が風邪などで体調が悪くなった時、必ず薬用酒として使う縁起物の容れ物があった。亡き旦那様の遺品でもある。私は割らないように慎重に用意して、腕を捲ったシッラがアブサン酒を注いだ。
「出来上がりです!」
「よし、僕が持って行こう。」
「え?ネロお兄様?」
「ユリアは慌てん坊だから。」
「はい。」
そう言うと、ネロお兄様は慎重にすり足に近い歩き方で、足音一切立てずに、アントニア様の寝室へ運ばれた。私もその後についてって、陰から寝室を覗いた。
「うぁあああああああっっっぐう!」
まるで猛獣のように、口から血を流して暴れて叫んでいるアントニア様が、ティベリウス皇帝陛下から羽交い締めにされて苦しんでる姿だった。
続く