第六章「亡父」第八十二話
太陽を失った。
全てが真っ白になるという事、全身の力が抜けてしまう事、大きな心の支えがなくなってしまう事、そして死を迎えた人が、決して二度と生き返る事が無い事を、私はわずか五歳で知る事になった。
「ゲルニクスが死んだ…。」
その知らせを伝えてきてくれたのは、いつも陽気だったドルスッス叔父様。現ローマ皇帝ティベリウス様のご子息であり、ゲルニクスお父様とは永遠のライバルと呼ばれていた。私達の祖母であるアントニア様は、何度も生死を確かめたが、ショックの余りに気を失ってしまった。
「そんな…。」
ネロお兄様も、ドルススお兄様も、居間の椅子に腰掛けて、床をジッと眺めながら静かに泣いてる。でも、私は、何故だか全く泣けなかった。ただ、ぽっかりと心の中に穴が空いたようで、その穴が何もかも吸い込んでしまって、大きな大きな不安だけがじめっと残ってる。現実の事だと、思えなかったから。
「…。」
暗闇に包まれたアトリウムで、大理石円柱に囲まれた水槽のインプルウィウムに冷んやりした水の中に足をつける。時折中庭から、円盤状の反射板であるオスクルムが、そよ風に流れて踊っているのが見える。心地よさそうな中庭だったけど、私は全く行く事ができない。ペロはドムス内の悲壮的な空気を感じとったのか、私の側にやってきて、ずっと前足をクロスさせて座ってる。
「ペロ、お父様がいなくなっちゃったって…。」
私は二三度頭を撫でて上げると、クーンと鳴いて、私の頬っぺたをペロペロと舐め始める。ペロの優しい気持ちが、私の心の中にお父様との想い出を蘇らせる。
"ユリア!思いっきりジャンプするんだ!"
辺り一体に響く低くて大らかな声。
馬の蹄が地響きのように、世界中を揺らしてくる。ゲルマニクスお父様の声だわ!私は顔に両手で目を塞いで、裸足のままジャンプした。
"ユリア、お前お尻が大っきくなったな〜。"
食事の時のお父様。
決して奴隷を使わせず、自分達で用意するように教えてくれた。
"自分達でできる事は、自分達で行うのだ。分かったな?"
"はい!"
"だがな、子供達よ。自分達で行う理由には、もう一つある。それは、メシが美味く感じるのだ!ガッハハハ!"
一度だってお転婆な私を叱った事は無かった。むしろ嬉しそうに聞いてくださった。
"ガッハハハ!ユリアは卵を三つ手に入れたのか?"
戦場から戻られたお父様は、私をいつも肩に乗せて、夕陽を一緒に眺めていた。
"ユリア…。お父さんはいつだってユリア達の事を愛している。だから、お前達とこうやって一緒にいる事が、本当に嬉しくて嬉しくて堪らないのだよ。"
"お父様、大好き。"
"ありがとう、ユリア。"
幼い私にさえ、ちゃんとありがとうと言ってくれる素敵なお父様。大きくて太い両腕が、私を空高く舞い上がらせる。私は一瞬、鷹のように空を飛翔出来たような気がしていた。
"ほうら!もう大丈夫だ。"
"本当だ…。"
"さすがお父様だ。"
"ユリア!お前は本当に高い処が大好きだな?がっはっはっは。"
"だって、見下ろすのが大好きなんですもの。"
"そっか!うんうん、いい事だ。"
私はいつもの様に、お父様のほっぺにキッスを三回した。
"ヨシっと!"
馬に乗ったお父様の両腕に、見事にお尻から着地した。
"只今、ユリア。"
"お父様!おかえりなさいませ!"
まるで太陽のように暖かく、山のように大きくて、青空の様に清々しく、お父様はニッコリと大きな笑顔で微笑んでくれた。
"ユリア…。この世で最も無用な物はなんだと思う?"
"何でしょうか?お父様。"
"無知と欲望の奴隷になった争いだ。これほど無用で醜い物はない。奴隷を雇う事は、己が欲望の奴隷になっている証拠なのだ。争いだけを求めるという事は、己が怖くて弱く、自分の考えが正しいと思い込んでいるからだ。"
お父様は目尻に涙を溜めながら、いつも私を大事に大事に抱き締めてくださった。
"だから父さんはお前達には、争いや身分や奴隷など必要のない、本当の平和を謳歌できる未来に生きて欲しい。空を見てみろ!あの広大さは誰にでも平等にあるのだ。"
"曇りの時でも?"
"あは、がっはっはっは!ああ!曇りの時でもみんなに平等に曇りだ!"
お父様がいなくなってしまったら、遺された私達の家族には、晴天の空も、曇り空さえも、全く見えない夜ばかり。
お父様のウソつき…。
この世の中は、不平等ばかりじゃないですか。
続く