第六章「亡父」第七十八話
《オッピドゥム・ウビオルム 初冬 真夜中》
雨は既に上がり、冷んやりとした空気が辺りを包む頃、妻ウィプサニアを中心とした長兄ネロ、次男ドルスス、三男カリグラ達は、逃避の準備のため、荷車へ荷物を乗せたりしていた。
「お母様?」
「ガイウス、軍靴のカリガは置いていきなさい。」
「で、でも…。」
「仕方ないだろ?今はとにかく急がないと。」
「ドルスス兄さん。」
「大丈夫。また、ドルススと兄さんで作ってやるから。」
「分かったよ、ネロ兄さん…。」
百人隊長である生真面目なカッシウス・カエレアは、それでも寂しそうに地面に置かれたカリガを見つめるカリグラを不憫に思い、仕方なく日頃の苦手意識を捨てた。
「カリグラ様、貴方様のカリガは私がお持ちましょう。」
「え?本当か?」
「ええ、大切な軍靴なのですから。」
「カッシウス、良いのですよ。この子は常にお前には迷惑ばかり掛けているのですから…。」
「ご安心下さい、ウィプサニア様。」
「本当にありがとう…。ほら!ガイウス。あんたもちゃんと感謝の意を伝えなさい。」
カリグラは、少し気まずい感じでカッシウスを見上げ、口を尖らせて感謝する。
「ははは、無理なさらずに。毎日私を男性生殖力の神プリアポスと呼んでいたのですから、急に感謝だなんて無理でしょう。」
「それだけじゃない…。」
「え?」
「プリアポス神像は、豊かな実りを嫉妬する者からの邪視を防ぐ役割もある護符なんだ。」
カッシウスは、そのカリグラの言葉に嬉しくなって、目尻に涙を少し浮かべながら微笑んだ。
「カリグラ様…。私は貴方を一生涯、護符としてのプリアポス神像の如くお護りしましょう。」
さっきまでの曇った顔から笑顔を取り戻したカリグラ。カッシウスに大きく抱かれて荷車へ載せられると、ちょこんと膝を整え、ジッとカッシウスを笑顔で眺めている。
「プリアポス、大丈夫か?」
「はい、カリグラ様。大丈夫でございますよ。」
二人の友情はこの時に始まった。後にカッシウスがカリグラを何度も刺殺するまで…。
「うん?!」
「おい!荷車の音だ!みんな起きろ!」
「元老院の使節団の豚どもが逃げるぞ!!武器を持て!」
「クソ!俺達の待遇改善要求をやっぱり破棄しに来やがったんだ!」
反乱分子は使節団の逃避だと勘違いして、一斉に荷車へ刃を向けようと向かう。百人隊長カッシウスは軍靴のカリガを抱えたまま、幼子を胸に抱いたウィプサニアと三児を守るために必死に攻防している。
「カッシウス!貴様、なんでそんな元老院の豚どもを守るんだ!」
「何?!」
「お前にはローマ兵としての誇りはないのか?!」
「何を貴様らは抜かしておるんだ?!」
「所詮お前も豚どもから金をせびっているんだろうよ!その腕に抱えた戦利品はなんだ?!俺にもよこせ!」
「これは軍靴のカリガだ!」
「騙されやしないぞ!!」
「貴様ら!それでも栄誉ある第一ゲルマニカ軍団か?!」
カッシウスは彼らを一括した。だが、その隙に反乱分子の一人である老兵は、鋭い刃でカッシウスの右肩を斬りつける。大事にしてたカリグラの軍靴を地面に落とし、激痛に大きく叫ぶカッシウス。その声を聴いたカリグラは荷車から飛び降りて、カッシウスを庇った。
「カッシウス!!!みんな!!カッシウスを殺さないでくれ!」
「何!?子供の声?」
「おい!これは軍靴のカリガ!」
「ま、まさか!!?カリグラ様か?!」
「ガイウス!!!」
「ドルスス!ガイウスを守るんだ!」
「ネロ兄さん!!」
そこには怯えたカリグラの姿、必死に美しき兄弟愛で守ろうとするネロとドルスス。そして傷を負った状態のカッシウスは、必死に立ち上がり反乱分子へ一喝する。
「汝らが…刃を向け、命を奪おうとした相手が誰なのか?!まだ分からぬのか!?」
そして死すら恥じぬ高潔な態度で、ローマ兵達を憐れむように睨みつける懐妊中の母ウィプサニア。
「一体どういうことなんだ?!」
「なぜ?!ウィプサニア様やカリグラ様達が真夜中に?!」
「まるで自分達から逃げるように…。」
「守るべきものに刃を向け、己の私欲に魂を奪われた亡者どもたちよ!」
「もういい、カッシウス。」
一同は、ゲルマニクスの言葉に息を呑んだ。普段の平民の言葉遣いでは無く、その言葉はやけに丁寧で冷淡であった。幕僚達と共に静かに騒ぎの中心へ向かってきたゲルマニクスは、自らの腰に携えた剣を無言で抜いて地面に突き刺した。
「あああわわ!あれは?!」
「どうしたんだ?!爺さん?!」
「アウグストゥス様が施行した、十分の一刑の合図!」
老兵が驚くのも無理もない。
十分の一刑とは、ローマ軍隊において反乱や上官への不服従など重大な逸脱行為に対して行われた兵士に対する罰則。兵士の中から十人に一人を選び、その一人を他の九人で棍棒・石打などでリンチにすることを命じられる。撲殺から逃れた残りの九人も、馬の飼料を喰わされ、一般兵士と同じテントでの寝泊りは許されず、野営地の外での野営をさせられた。刑罰は兵士の階級や年齢などは一切関係なく無作為に行われ、この刑はローマ軍においては極刑として扱われていた。
「そりゃ、そうだろう…。俺たちは勘違いして、ゲルマニクス様の家族を襲っちまったんだから…。」
「なんて早とちりをしちまったんだ…。」
だが、ゲルマニクスは暫く反乱分子達の様子を見ながら、静かに語りだした。
「妻や子供達は、私にとって新皇帝ティベリウス様の治める国家ローマに比べたら重要ではない。貴様達の栄光の為なら、いかなるものも犠牲にする覚悟は常にある。だが、今夜、私の愛する家族を貴様達から遠ざけ、ガリア属州へ行かせようとした意思は、貴様達の蛮行を、この私一つの命だけで食い止めるためだ。」
反乱分子達はゲルマニクスの意思に愕然として次々に膝を落とした。ローマ市民として誇りを持っている兵士達は、自分達が見下していたガリア人よりも信頼が出来ぬと、ゲルマニクスに無様にも公言されたからである。
「私は、服従を破った兵士達にさえ『我が市民諸君達』と呼びかけた神君カエサルや、そのお姿だけであらゆる兵士達に畏敬の念を抱かせた神君アウグストゥスには決して及ばない。だが、ローマ人によって与えられた屈辱は、ローマ人によって晴らされなければならない。ローマ人の誇りを失った罪深きお前達に家族が殺されるくらいならば、神々にも禁じられているガリア属州民に、名誉ある行為を任せたほうがマシだ!」
すると、ゲルマニクスはカッシウスに無言で合図をして、自分の家族をガリア属州へ向かわせるよう合図した。すると反乱分子達はゲルマニクスの本気さを感じ取り、泣きながら必死になってウィプサニアの一団を止めようと懇願し始めた。
「待って下さい!ゲルマニクス様!」
「蛮族のガリア人の所へなどに、ゲルマニクス様のご家族を向かわせないで下さい!」
「カリグラ様は、あっしらにとって勝利のご加護。そんな愛くるしいご子息を、蛮族の人質などにさせないでくだされ!」
「どうか!この罪深きローマ人の我々を、敵の血で血を洗い清めるため!我々を導いてくだされ!」
彼らはようやく己の恥に気がつき、奪い去った主導権という幻想であった銀の皿をゲルマニクスへ返した。だが、ゲルマニクスは地面に刺した剣を抜いて、無造作に彼らの前へ放り投げる。
「己の恥を背負ったまま生きることを選ぶのか、もしくは己の誇りの為に生き抜いた証を今夜ローマ人としてここに示すのか。私は貴様達の意思を尊重し、貴様達に下す裁断はこのローマへ信義を示す、私の刃に全てを託すがよい。」
ゲルマニクスはそのまま自分の寝室へと帰っていく。ローマ軍団はゲルマニクスの言葉に従い、自発的に今回の暴動の首謀者達を、自らの手で次々と斬首した。その首謀者の中には、孫の姿を一目みようと早期の除隊と二倍の遺贈金を願う為、ゲルマニクスの寝室へ欲を出して押し入って脅した老兵の姿もあった。
続く