第六章「亡父」第七十六話
私の知っているゲルマニクスお父様は、大きく笑い声を上げて、ご自分の事を『ワシ』と、わざと庶民的な言い方をされる方だった。けれど、後々に色々な人から聞いた話によれば、実はとても綺麗なギリシャ語も使う事ができ、上品な佇まいの時もあったらしい。つまり私には生前見せてくれなかった、もう一つのお姿があったということ。お父様の弟であるクラウディウス叔父様はこんな事も教えてくださった。
「ゲルマニクス兄さんのいた世界の男子たるものは、血脈だけで己の力を誇示する様な愚か者は尊敬に値しないのさ。だから普段のがさつで野暮ったい喋り方は、明らかに兄さんの天性ではなく、親友のクッルスさんの影響を受けて覚えた平民の言葉だ。けれども、兄さんが本当に激怒した時には、恐ろしいほど丁寧な言葉で、冷酷に感じるほど相手を圧倒させるんだ。」
幼い頃からアキレウス様を密かに崇拝し、アレキサンダー様に憧れていた父ゲルマニクス。再び、ネロお兄様とドルススお兄様のお話、そしてクラウディウス叔父様の残してくれた歴史書を元に、私の知らなかったお父様のお姿を追ってみる。
《オッピドゥム・ウビオルム 初冬》
その日の夕方、生真面目で有名な百人隊長カッシウス・カエレアは、ゲルマニクスから厳重な警備を任されていた。彼は個人的にもゲルマニクスの家族達の警備も兼任するほど、ゲルマニクスからの信頼を勝ち得ていた人物。だが、そんな生真面目な彼にも苦手な人物がいる。
「プリアポス!プリアポス!」
「?!」
「お前のアレは大きいのだろう?だから予に見せてみろ。」
「カ、カリグラ様?ですか?!」
「へへん。」
それは、ゲルマニクスの三男ガイウス・ユリウス・カエサル。即ち後の狂帝カリグラであった。幼い頃は、父ゲルマニクスの戦場において、必勝祈願的マスコットとして、軍靴のカリガを着せられローマ軍団から可愛がられていたのだが、とにかくワガママで悪戯好きで活発な男の子だった。
「カリグラ様、只今自分は職務中でありまして、そのような不作法な事は…。」
「なんだよ!イイじゃんか。それでもローマ兵士かよ?」
「あ、いえ…はい。」
カッシウスはローマ兵特有の男子。血脈だけで全てを鼻に掛け、威張りくさる人間は大っ嫌いだった。ゲルマニクスには高貴な血脈があれど、そんなところは一切見せなかったので常に尊敬している。だが、男子のくせに水泳を嫌い、親の七光りで無理難題を押し付けて来るカリグラにはほとほと参っていた。
「予は、アウグストゥス様、アントニウス様、そしてアグリッパ様の血を受け継ぐ高貴な生まれの男子だぞ!お前はそれを知った上で断るつもりか?!」
「あ、いえ…。ただ、カリグラ様。やはり今はどうにかお許し願いませぬでしょうか?」
「ダメだ!僕がヤレ!って言ったらプリアポスはやらないとダメなんだ!」
もはやここまでコケにされると、苦手意識は自然と高まるばかり。ましては、ギリシャ神話に出てくる男性生殖力の神プリアポスと馬鹿にされれば、奴隷扱いをされたようで殺意さえ覚えてくる。
「ガイウス!いい加減にしなさい。」
「お、お父様?!」
その静かで丁寧な口調でカリグラを叱りつけるゲルマニクスの様子は、カッシウスにとって明らかに今までとは違っているように感じた。
「お前は何を勘違いしているのですか?己を神々の子でも思っているのですか?」
「ごめんなさい、お父様。」
「足りません。侮辱されたカッシウスにも心から詫びるのです。」
カリグラは目を強張らせ、深々とカッシウスに頭を下げて謝る。すると、ゲルマニクスは顎だけでカリグラに自分の部屋へ戻るよう指図した。
「済まなかった、カッシウス。」
「あ、いえ…。」
「あいつはいつもあんな風にお前を茶化しているのか?」
カッシウスは答えにくそうに口を閉ざしたが、ゲルマニクスはその様子を察して小さく頷く。
「分かった。悪いがとにかく今夜も頼む。今は並ならぬ状態と化している。万が一の時には、貴様だけが頼りだ。」
「お任せください、ゲルマニクス様。」
ゲルマニクスは暫く歩いていたが、再びカッシウスの元へ戻り、ある質問を投げかける。
「カッシウス、貴様はどのように考えているのだ?」
「と、言いますと?」
「貴様も外の奴らと同じように、何か不満でもあるのか?」
カッシウスは少し考えて、それからゲルマニクスに答える。
「私なら、銀の皿に盛り付けられた料理を残さず食べ上げ、皿は綺麗に洗って持ち主にお返しします。」
「うん、そうか…。それを聞いて安心した。ありがとう。」
ゲルマニクスは普段通りの笑顔に戻り、自分の寝室へと消えていった。
続く