第六章「亡父」第七十四話
《オッピドゥム・ウビオルム 初冬》
ゲルマニクスの所有する別荘のヴィッラは、たいそう立派な作りになっている。その寝室には、薄明かりの中でゲルマニクスが寝床で一点をぼうっと眺めていれば、そばではお腹が少し膨らみ始めた妻のウィプサニアが、雨を見ながら布をたたんでいる。
「あなた、雨はまだ止みませんね。」
「うん。」
「ネロやドルススはもう寝つかせました?」
「うん。」
「ガイウスもまだまだ子供だから、せめてカリガだけは…って、あなた?」
「うん。」
「もう、さっきから神々へ捧げられた羊のような返事ばかりで!全く聞いて下さらない!」
「うん?すまんすまん。」
ゲルマニクスにとって、それは痛手だった。自分が率いる兄弟とも思えるローマ軍団の反乱が、自分が思っていた以上に広範囲に広がっていたからだ。確かにローマ兵士一人一人同じ目的で動いているわけでは無い事は、頭では十分に分かっているはずだった。だが、苦楽を共にし、時にはその勇敢な意志に窮地から救われれば、嫌でも自分と同じ方向を向いていると錯覚してしまう。これが階級社会による価値観の違いであると。
「クッルスは、あいつは…元気かな?」
「突然、どうしたのですか?」
「ワシはなんだか、腹を割ってクッルスやサリウス達と酒を飲みたくなってきたよ。」
しかし、軽くため息をついて嫌悪感を表すウィプサニア。
「私は勘弁して欲しいですわ。あの方達と飲まれるときのあなたは、上機嫌で、大はしゃぎで、朝まで止めどなく飲まれて。それに、あの方々と付き合うようになってからのあなたは、言葉遣いも振る舞いも、野生的でまるで変わってしまったのですから。」
しかしゲルマニクスは立ち上がり、いたずらっ子のように目を輝かせ、ウィプサニアの後ろから急に抱きしめた。
「わっ!」
「けれど、お前は野生的な所が嫌いなわけではなかろう?」
頬を赤らめるウィプサニアの口元は緩み、ゲルマニクスは後ろから首筋をなぞる様に唇で辿る。満更でもないウィプサニアも、自分を抱きしめるゲルマニクスの腕を優しく掴んでる。
「ワシもお前の野生的な所は好きだ。」
「んっもう!それです。その"ワシ"ってご自分を卑下なさる言い方はおやめください。」
「どうしてだ?」
ウィプサニアはゲルマニクスの目の前に立ち、優しく瞳を見つめながら、右手の人差し指と中指を滑らすように、ゲルマニクスの耳上の髪の毛を整えてあげる。
「あなたは素のご自分のままでも十分魅力的な男性ですわ。私が貴方と出会った時から、これは運命的な出逢いだと何度も思いました。なぜならば、あなたには誰もが持つことの出来ない、高貴な輝きがあるからだと。」
「高貴な輝き…か?」
「ええ、なんと言うのでしょうか、存在感のようなものでしょう。例え貴方がどの階級にいようとも、貴方の魂から湧き上がる自然な魅力は、誰もを惹きつけるだけの力がありますもの。」
ウィプサニアの潤いを増した瞳は、夜空に輝きを見せる星達の様である。その瞳に見つめられたゲルマニクスも、ウィプサニアの腰元を自分に引き寄せる。
「でも、ワシを惹きつけたのはお前だけだ。」
「また!せっかくの百年の恋も醒めます!」
「ガッハハハハ。すまんすまん。うん?」
するとゲルマニクスは突然しゃがんで、ウィプサニアの膨らんだお腹に耳を当てる。
「今、蹴ったぞ!」
「まさか、まだまだですよ。」
「次こそは女子かな?」
「さぁどうでしょうね?フフフ。」
「また男だと喧嘩が絶えなくなるぞ~。ウィプサニア!お前のような美しい女子が欲しいな。」
「貴方ったら。」
二人の幸せな時間へ水をさすように、ある老兵が礼節を欠いていきなり寝室へ飛び込んだ。
「きゃあ!」
「随分と立派なヴィッラですな?ゲルマニクス様。」
「何のようだ?ここはプライベートな場所。貴様の無礼にもほどがある!」
「無礼はどちらでしょうか?ゲルマニクス様。あなた様は先ほど、ティベリウス様が承認されたという文書の中に『アウグゥトス様からの遺贈金は、二倍にして支払う』と書かれていると言われた。だが、あっしらはどうしたらそれを信じる事ができるのでしょうかね?」
「何だと?」
「若い連中は待遇改善など二の次、まずはゲルマニクス様が次期皇帝になるべきだ!などと、目に見えないものに命を掛けたくなる。だが、あっしらの様な老兵は、目に見えるものがなければ、自分の命を掛けてまでも奪い去るのみ。どちらにして、ゲルマニクス様、あなた様があっしらか連中かの意見を飲むようには思えないのでっさ。」
「…。」
「外は冬を迎える寒さしのぎが精一杯の連中ども。だが、あなた様がどんな高貴な血脈の持ち主であろうとも、バカにしちゃいけませんよ。まさか時間を稼ぐだけ稼いで、誰かをお待ちになってるわけないですよね?」
老兵は下から舐める様にゲルマニクスを見上げ、瞬き一つせずに早急の答えを求めているようであった。
続く