第六章「亡父」第七十三話
父ゲルマニクス・ユリウス・カエサル。
三十四歳の若さでこの世を去った。
気が付いたら、今の私は十歳もお父様より年齢が上になってしまっている。
私個人は、何度も自分に親しい人達の死を目の当たりにしてきたはずなのに、幼い頃に体験したお父様という大きな太陽の消滅だけは、自分の心の中でぽっかりと穴が空いている状態。いつも思い出そうとすると、自分の心臓を抉られるような気分になってくる。
セネカにそれを相談すれば、『死自体よりも死の随伴物が人を怖れさす』と案じられ、ブッルスには『無理に過去をほじくり返す必要は無いのでは?』と問われる。けれども、二人が共通して言う事は、本当の事実を知る者は、私しか残されていないのだと。
だから、今回は勇気を持って記憶の扉を開く事にしようと思う。そこに何があり、何が起こっていたのか。そして幼いながらも父ゲルマニクスの死によって、何を感じ、何を思い、再び生きて行こうと思えたのか。身近で見守ってくれていたパッラスの話や、私の最後の夫でもあったクラウディウス叔父様が書き残した歴史書を確認しながら、亡き父の姿も添えて、筆を進めてみることにする。
10月10日。
私は何度もこの日に神々を呪った。後にウェスタ神官長になった親友のソリアは、なんたる冒涜だといつも叱るのだが、私がこの日に神々を呪うのには、それなりの理由がある。それは、父ゲルマニクスがこの世を去った時に、虫の知らせも、神々のお告げも何もなかったからだ。
私達兄妹三人は、呑気にもその事を全く知らず、いつものようにパラティヌスで浮かれていた。特にドルスッス叔父様のイリリクムでの偉業を追いかけるように、お父様が小アジアのカッパドキア、コマゲナをローマの属州に編入したという報告を受けていたからだった。
「それにしても、ゲルマニクスお父様はやっぱり偉大な方なんだな。カッパドキア、コマゲナをローマ属州に編入させるなんて。」
「本当ですね、ネロお兄様。」
「でも、ネロ兄さん。ユリアがまだウィプサニアお母様のお腹にいた頃の、オッピドゥム・ウビオルムは大変な時期でしたよね?」
「そこって、私が生まれた場所でしょ?ドルススお兄様。」
「うん、そうさ。」
「あの時は、ひょっとしたら、僕ら家族はローマ兵士達に殺されてたかもしれなかったんだよ…。」
「ええ?!」
私がお母様のお腹にいた頃は、初代皇帝アウグストゥス様が崩御され、ティベリウス様が帝位された年。しかし、同時に東方地域パンノニア地方と、ゲルマニアでローマ軍団による反乱、蜂起が起こった年でもあった。
承知の通り、ローマ軍団は給料をもらい、ある程度の定年に達すると退役金を得て退役するという職業軍人達。戦がなければ給料も低い土木工事などの人足となるので、不満を抱える者も少なくなかった。事実、当時は退役金不足対策として、兵役満期でも除隊出来ないようになっていた。それでも彼らが耐えていたのは、アウグストゥス皇帝陛下の治世があったからこそ。彼らのローマ軍団としての誇りを刺激されていたからだ。しかし、ティベリウス様に帝位されると、彼らは手のひらを返すように待遇改善の声をあげ、暴動で自分たちの要求を飲ませようとし始めたのだ。
「でも、お父様はローマ軍団がティベリウス新皇帝陛下へ楯突く事など許さず、むしろ忠誠を誓うように説得したのさ。お父様は恥も外聞もかなぐり捨てて、一人一人に声を掛けては、何度も何度もローマ兵士達を説得してたよ。」
「僕も覚えてるよ、ネロ兄さん。それでも、時々僕らが寝ている所へ、脅かすようにローマ兵士達がやってきては、お父様へ不満を述べたり、お父様を崇拝している者達は、今こそティベリウス様を討つ時だ!ってお父様が皇帝になるべきだ!って物騒な事も叫んでた人もいたっけ。」
「そうそう、そこで待遇改善を約束する文書をわざわざお父様は作成されて、自分の財産を投げ打ってでも退職金を彼らに支払うよう約束したんだ…。」
ネロお兄様とドルススお兄様の細かい描写を添えたお話を聞いていると、まるで自分もそこにいたかのような錯覚さえ覚えた。勿論、私はお母様のお腹の中にいたのは事実なのだが…。
《オッピドゥム・ウビオルム 初冬》
冬の訪れをいまかいまかと待ち焦がれている寒さが、ここオッピドゥム・ウビオルムに冬営するローマ第一及び第二十軍団へ容赦無く雨と共に降り注ぐ。憔悴しきっているはずの彼らなのだが、ローマに対する反乱の意志は、冬でも鋭い眼つきで睨む狼のようだった。
「我が栄光の輝きと、最上の誇りを有するローマ兵の兄弟達よ!ここにあるのは、ティベリウス皇帝陛下から直々に承諾を受けた、貴様達の待遇改善を約束する文書だ。モゴンティアクムに冬営するお前達の兄弟とも言える第二、第十三、第十六、そして第十四軍団の兵士達もこれに了承した!これを見ても、まだなお、貴様達はこのワシに信義に反し、ローマへ刃を向けろと言うのか?!」
だが、第一及び第二十軍団のローマ兵士達は、ゲルマニクスの懇願に首を立てに振る事はしない。むしろ憐れみの目で見つめるかのように、ゲルマニクスへ詰め寄ったのだ。
「ゲルマニクス様。奴らとあっしらは携える信義が違うのです。待遇改善など二の次であり、我々が求める事はただ一つ。あなた様こそ次期のローマ皇帝に値する方であると考えているからです。なぜそれが分かって下さらないのですか?!」
「分からぬわけではない!だが、我々はついこの間まで、ティベリウス様に率いる兄弟として、共にゲルマニアで戦ったではないか!」
「我々の魂は、クラウディウス氏族から帝位した途端に、偉大なるカエサル様の名前を、鞍替えして使うような輩と共にあるわけでは無いのですぞ!我々の命は、カエサル様の血を引く勇者と共にあるのです!その勇者こそ、ゲルマニクス様、あなた様なのです!」
彼らの身体は冷え切っていた。
しかし、怒りに満ち溢れて肩をあげている猛者どもの身体からは、闘志とも似た死を決意させる気迫がこみ上げていたのである。
続く
【ユリウス家】
<ユリア・アグリッピナ(15年-59年)>
主人公。後の暴君皇帝ネロの母。
<ゲルマニクス(紀元前15年-19年)年の差+30歳年上>
アグリッピナの父
<ウィプサニア(紀元前14年-33年)年の差+29歳年上>
アグリッピナの母
<長男ネロ(6年-31年)年の差+9歳年上>
アグリッピナから見て、一番上の兄
<次男ドルスス(7年-33年)年の差+8歳年上>
アグリッピナから見て、二番目の兄
<三男ガイウス=カリグラ(12年-41年)年の差+3歳年上>
アグリッピナから見て、三番目の兄
<次女ドルシッラ(16年-38年)年の差-1歳年下>
アグリッピナから見て、一番目の妹
<三女リウィッラ(18年-42年)年の差-3歳年下>
アグリッピナから見て、二番目の妹
【アントニウス家系 父方】
<アントニア(紀元前36年-37年)年の差+51歳年上>
アグリッピナから見て、父方の祖母
<リウィッラ・ユリア(紀元前13年-31年)年の差+28歳年上>
アグリッピナから見て、父方の叔母
<クラウディウス(紀元前10年-54年)年の差+25歳年上>
アグリッピナから見て、父方の叔父
【アントニウス家系の解放奴隷、使用人および奴隷】
<ナルキッスス(1年-54年)年の差+14歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<パッラス(1年-63年)年の差+14歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<フェリックス(12年-62年)年の差+3歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<アクィリア(17年-19年)年の差-2歳年下>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<シッラ(紀元前15年-60年)年の差+30歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<リッラ(紀元前15年-59年)年の差+30歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<クッルス(紀元前15年-59年)年の差+30歳年上>
父ゲルマニクスの親友
<セリウス(紀元前15年-60年)年の差+30歳年上>
父ゲルマニクスの親友
<セルテス(紀元前12年-63年)年の差+27歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<ぺロ(17年-30年)年の差-2歳年下>
父方の祖母アントニアの飼い犬
【クラウディウス氏族】
<リウィア大母后(紀元前58年-29年)年の差+73歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の母親。初代皇帝アウグストゥスの後妻
<ティベリウス皇帝(紀元前42年-37年)年の差+57歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の兄弟。初代皇帝アウグストゥスの養子、リウィア大母后の長男
<ドルスッス(紀元前14年-23年)年の差+29歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の兄弟の息子。二代目皇帝ティベリウスの長男
<リヴィア(5-43年)年の差+10歳年上>
アグリッピナから見て、父ゲルマニクスの妹の娘。ドルスッスの長女
【ティベリウス皇帝 関係】
<セイヤヌス(紀元前20年–31年)年の差+35歳年上>
二代目皇帝ティベリウスの右腕。親衛隊長官
<ピソ(紀元前44年-20年)年の差+59歳年上>
二代目皇帝ティベリウスの親友。シリア属州の総督。
【後のアグリッピナに関わる人物】
<ウェスタ神官長オキア(紀元前68年-29年)年の差+83歳年上>
ウェスタの巫女の長
<セネカ(紀元前1年-65年)年の差+16歳年上>
アグリッピナの盟友
<ブッルス(1年 - 62年)年の差+15歳年上>
アグリッピナの悪友
<アニケトゥス(1年 - 69年)年の差+15歳年上>
後のアグリッピナ刺殺犯
<カッシウス・カエレア(紀元前12年-41年+27歳年上>
後の兄カリグラ刺殺犯