第二章「父」第七話
「うわあ!」
「どうした?ガイウス?!」
「左手が!ネロ兄さん!」
私達がいつもと同じように、自宅の庭で遊んでいると、カリグラお兄様が突然苦しみだした。
「大丈夫だ、ちゃんと息を吸って!」
「ううう、怖いよ。」
「泣くな!男だろ?おい!ドルスス!お母様を呼んできてくれ!」
私は"それが"いつも信じられなかった。普段はいつも私の事を100パーセントの力でいじめるくせに、それが出てくると、すぐに弱気になって甘える。ズルいと思った。
「ガイウス、取り敢えずこの木の枝を口に咥えろ!!」
ネロ兄さんは、冷や汗をかきながら、カリグラ兄さんの口に、真一文字に横へ、枯れ木を咥えさせ、舌を噛ませない様にした。
「ガイウス!!!」
お母様が血相を変えて飛び出してきた。ドルシッラから手を離し、ドルススお兄様に連れられてる。私はお兄様の目配せで、ドルシッラをあやすように言われた。置いてきぼりにされたドルシッラが泣きそうになる前に、まるで魚でもすくいあげるように、私の両腕の中へ抱き寄せた。
「ネロ!ドルスス!すぐに家に運ぶのです。」
「はい!」
カリグラ兄さんは、枯れ木とお母様の手を咥えながら、目がトロンと項垂れている。まるでいつも私を虐めてる時と、全く違う様子に見えた。
「ガイウス兄さん…。」
夕刻が過ぎて、お父様もお戻りになり、カリグラお兄様の事で、お母様と台所で色々なお話をされている。私達は不安になりながらも、見守っていた。
「ガイウスは連れて行く。」
「でも、貴方!戦場でもし引きつけを起こしたらどうするのです?」
「それが現れても、男は自分の名誉をわざわざ汚すような事はしない。」
「無理をさせるというのですか?!」
「ガイウスは、自分が何を求めているのか?そして何を求められているのか?はっきりわかっている子だ。ぬるま湯の環境よりも、厳しい環境の方が、こやつのそれは暴れたりはせんだろう?」
うちの家族では、「てんかん」という言葉は禁句だった。カエサル様もまた、実はてんかんの気質があるお方だった為に、うちの家族は掛かりやすい傾向にあると信じられている。ましては、二人の男の子を未熟児として失ってるお母様としては、カリグラお兄様のご病気には、神経を尖らせていた。
「普段のあの子は元気があるのに、どうしてこんな宿命に…。」
「悔んでも仕方ない。お前も稚児をそろそろ授かるのだろう?シリア遠征途中に、レスヴォス島というとても居心地の良い島がある。どうだ?一緒に行かんか?」
「子供達はどうするんです?!」
「稚児を産むまで、みんなでそこで過ごすのだ。」
「そうはいきません!」
「だが、お前をローマに置いては行けぬぞ。それにわしは稚児をこの手で抱かねばならない。」
「子供達には、『ローマにて教育を受けさせる。』これは、私と婚約された時に、お約束された事ではありませぬか。」
お母様が、レスヴォス島まで行く事を躊躇されたのは、お兄様達の教育が疎かになってしまう事だった。アグリッパ様の血筋を受け継いでる、お母様ならではの冷静さ。ローマを離れては、最高級の帝王学を教える師範がいない。ましては遠征の同行になれば、半端の無い額を請求される。
「分かった!ドルスッスとクラウディウスに頼もう!」
「ええ?!」
「あの二人だったら、見事にやり遂げてくれるはずだ。」
お母様が驚くのも無理は無かった。
ドルスッス・ユリウス・カエサル様は、当時帝位していたティベリウス皇帝陛下の実子。お父様とは皇帝継承のライバルとされたお方。一方、クラウディウス叔父様は、お父様の実の弟で、生来吃音と身体半分の自由が効かない方。だが、お二人とも、実はとってもとっても心優しい方で、ユリウス家にとって、面倒見の良い紳士だった。
「ガイウスとドルシッラと腹の稚児は、わしはどうしても連れて行かねばならぬ。だから、ドルスッスにはレスヴォス島までついてきてもらう。ネロとドルススとユリアはローマに置いて、弟のクラウディウスに面倒を見てもらう。どうだ?」
「…。」
「嫌か?」
お母様はこちらをチラチラ見ながら、特に私の方を見ては懸念されていた。
「ユリアは…?あの子は、貴方と離れる事はきっと嫌がるでしょう。」
「ユリアがか?」
私はお父様と離れ離れになる事は嫌だったけれど、でも、立ち上がって、しっかりと背筋を伸ばして、こう告げた。
「お父様、お母様、どうかご安心ください。私、ユリア・アグリッピナは、ユリウス家の名誉に掛けて、ネロお兄様とドルススお兄様の三人で、このローマにおいて立派に成長してみせます!」
ネロお兄様とドルススお兄様も、すぐにあとに続くように立ち上がって、お父様とお母様へ膝を下ろした。
「ネロ、ドルスス、ユリア。お前達は本当に立派な子供だ!」
お父様は喜んで、私達を大きな両腕の中に入れて抱擁してくれた。その時も、涙を恥ずかしげもなく流されている。その後ろで、お母様も涙を流して泣いてくださっている。子供が親を喜ばす事や、安心させる事は、時には必要な事だと、私達は帝王学から既に学んでいたからだ。
「ユリア、お前はきっと世界中から愛される、いい女になるぞ!」
いつものように、お父様はご自分のあご髭を私に摺り寄せて、私はお父様のほっぺたに三回キッスをした。
「お父様…。」
お父様のあご髭がチクチクするたびに、切ない私の弱まった心が、悲しく涙しているのを感じていた。
続く
【ユリウス家】
<ユリア・アグリッピナ(15年-59年)>
主人公。後の暴君皇帝ネロの母。
<ゲルマニクス(紀元前15年-19年)年の差+30歳年上>
アグリッピナの父
<ウィプサニア(紀元前14年-33年)年の差+29歳年上>
アグリッピナの母
<長男ネロ(6年-31年)年の差+9歳年上>
アグリッピナから見て、一番上の兄
<次男ドルスス(7年-33年)年の差+8歳年上>
アグリッピナから見て、二番目の兄
<三男ガイウス=カリグラ(12年-41年)年の差+3歳年上>
アグリッピナから見て、三番目の兄
<次女ドルシッラ(16年-38年)年の差-1歳年下>
アグリッピナから見て、一番目の妹
<三女リウィッラ(18年-42年)年の差-3歳年下>
アグリッピナから見て、二番目の妹
【アントニウス家系 父方】
<アントニア(紀元前36年-37年)年の差+51歳年上>
アグリッピナから見て、父方の祖母
<リウィッラ・ユリア(紀元前13年-31年)年の差+28歳年上>
アグリッピナから見て、父方の叔母
<クラウディウス(紀元前10年-54年)年の差+25歳年上>
アグリッピナから見て、父方の叔父
【アントニウス家系の解放奴隷、使用人および奴隷】
<ナルキッスス(1年-54年)年の差+14歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<パッラス(1年-63年)年の差+14歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<フェリックス(12年-62年)年の差+3歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<アクィリア(17年-19年)年の差-2歳年下>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<シッラ(紀元前15年-60年)年の差+30歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<リッラ(紀元前15年-59年)年の差+30歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<クッルス(紀元前15年-59年)年の差+30歳年上>
父ゲルマニクスの親友
<セリウス(紀元前15年-60年)年の差+30歳年上>
父ゲルマニクスの親友
<セルテス(紀元前12年-63年)年の差+27歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<ぺロ(17年-30年)年の差-2歳年下>
父方の祖母アントニアの飼い犬
【クラウディウス氏族】
<リウィア大母后(紀元前58年-29年)年の差+73歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の母親。初代皇帝アウグストゥスの後妻
<ティベリウス皇帝(紀元前42年-37年)年の差+57歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の兄弟。初代皇帝アウグストゥスの養子、リウィア大母后の長男
<ドルスッス(紀元前14年-23年)年の差+29歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の兄弟の息子。二代目皇帝ティベリウスの長男
【ティベリウス皇帝 関係】
<セイヤヌス(紀元前20年–31年)年の差+35歳年上>
二代目皇帝ティベリウスの右腕。親衛隊長官
<ピソ(紀元前44年-20年)年の差+59歳年上>
二代目皇帝ティベリウスの親友。シリア属州の総督。