第五章「パラティヌス生活」第六十八話
ネロお兄様、ドルススお兄様、そして私の三人は、パラティヌスの端にある崖から空を眺めていた。薄い雲達が、まるでお魚の大群のように、海原のような青い空をゆっくり遊泳しているよう。けれども、私達家族にとっては重々しく、穏やかな時間ではなかった。
「ネロお兄様…。」
お父様の無承諾によるエジプト訪問。お兄様の話によると、毎日ピソとの牽制で疲れていたお父様への、お母様からの提案だったらしい。ネロお兄様は非常に長男として、責任を人一倍に感じている。
「僕は素直に喜んで、本当に馬鹿だったよ。長男としてとても恥ずかしいよ。」
「ネロ兄さん、今悔やんでも仕方ないよ。アントニア様もおっしゃってるように、"これまでのことを嘆くよりも、これからをどうするか?考えなさい"でしょう。」
しかし、ネロお兄様は頷くどころか、首を横に振ってドルススお兄様を否定した。
「ドルスス、世の中が全てその道理で運ぶなら、誰も彼もが幸せだ。だがな、エジプトへ行くことはもっと別の話だ。アントニウス様の一件から、ある意味アレルギーになっているのだから。」
「でも、アントニア様や大母后様が連携を取って、防衛策を立ててるとおっしゃってるじゃないですか。」
「アントニア様はな。だが、大母后様は侮れない。」
「お兄様?!」
私は感情的にだが、お兄様の発言を遮るように声を荒げた。しかし、ネロお兄様は、あの時のお母様のような目つけで、私を憐れむようにみつめている。
「ドルスス、見てみろ。ユリアが良い例だ。あのお方はユリアを人質にローマに残して、今みたいに手なづけたんだ。」
「兄さん、それはなんでも言いすぎだ!ユリアのお陰でお母様はお父様と一緒にいられる事ができたんじゃないか。それにユリアは大母后様の所で本当に教養だって身につけてる!まだ、ちょっと計算に弱くて馬鹿だけど。」
ギク。
ドルススお兄様、そんなズバリ馬鹿って言わなくても...。
「でも、もし大母后様が本当にユリアを人質にしてローマに残したのなら、わざわざそんな事しないよ!兄さんは神経質過ぎるんだ。」
「なんだと?!」
「じゃあ聞くけど、それを知ってたとして、未来の家長として、ネロ兄さんは何ができたんだよ?!兄さんはお父様やお母様を止める事ができたのかい?!」
「出来たさ!少なくとも、踏みとどまらせる事ぐらいはさ!」
「はぁ?!あの状況下でかい?お父様の兵士達もみんなピソ様との牽制にうんざりしてたじゃないか!」
「ピソ様なんて言うな!ドルスス、貴様、兄の僕に向かって!」
「兄さんが分からず屋だからいけないんじゃないか!」
「何だと?!この野郎!言わせておけば、調子に乗りやがって!」
凄まじかった。
私は初めてお兄様達の喧嘩を目の当たりにした。殴り合い蹴り合い、相手の髪を引っ張り合い、まるで狼の縄張り争いのように。私は怖くなって、床にへばってしまった。
「あわわわ、パ、パッラス!!!」
気が付くと、一目散でパッラスが向こう側からやってきて、お兄様達の喧嘩を必死になって止めてくれた。
「ネロ様!ドルスス様!どうかおやめください!」
「うるさい!ネロ兄さんは分からず屋だから、口で言っても分からないんだ!」
「黙れ!ドルスス!分からず屋はお前の方だ!お母様やお父様の事を心配している僕が、どうしていけないんだ!?」
「お二人とも、おやめください!アグリッピナ様が怯えてます!」
「うるさい!パッラス!これは兄弟二人の問題なんだ!」
「そうだ!止めるな!家族を守る為のことなんだ!」
「でしたら!ここはポメリウム内の神聖な場所です!家族を守る為なら、ご兄弟仲良くなさってください!」
パッラスの大きな声に、お互い息を荒くしながらも、我に帰って争う事を一応やめる感じだった。ポメリウム内では、政務官を警護するリクトルが手にしているファスケスからも、斧部分を外さなければならないほどの神聖な場所。クレオパトラ女王様でもポメリウム内には入る事さえ禁じられていた。アクィリアがローマ郊外で火葬されたのも、当然ポメリウム外でなければいけなかったから。つまり、宗教的かつ政治的な理由も含めたローマ本体となるのがポメリウム。それ以外はローマの領土されている。だから、パッラスは聖なるポメリウム内で争う二人を諌めたのである。
「ネロ様、アントニア様が午後から付き添って欲しいとの事でしたが…。」
「そうだった。」
「さぁ、参りましょう。」
ネロお兄様はドルススお兄様をきつく睨んで、クルリと背中を向けてパッラスと歩いてしまった。私は床に尻もちしたまま、怖がってドルススお兄様を見てた。
「ユリア、ゴメンな。」
「いいえ…。」
「ネロ兄さんとはお前の知らない所で、たまに喧嘩はしているから、そんなにビックリしなくて大丈夫だよ。」
「…。」
「ただな、俺はネロ兄さんがユリアの事をあんな風に言うのが許せなかったんだよ。お前一人だけ置いてけぼりにされてさ。」
私はドルススお兄様の優しい心遣いに、今までずっと我慢していた寂しさを吐き出すように大泣きした。でも、昔の幸せはどんなに泣いても戻ってこないのだから。
続く