第四章「大母后と祖母」第五十七話
ユダヤ人のイーサクは、ギリシャ語で神々の名前を口にし、そしてしめやかに葬儀を始めた。髪の毛を剃ったパッラスは、今までとは見違えるほど聡明な横顔。王族の末裔であった事は、本当なのだと教えてくれている。
「ふむ、ではその髪の毛は後ほど火とともに。」
ギリシャでは、魂の去ったあとの肉体は汚れているため、まず火によって浄化しなければならないという考えがある。魂が天界に帰るために、魂の俗な部分を焼き尽くし、清らかな部分にするためには火が不可欠であった。
「これをそこに置いてった。そうじゃ。」
「パッラス、アクィリアを…。」
サリウスは布で優しく包まれたアクィリアを手渡し、パッラスはそっと薪のうえに遺体を乗せ、水で綺麗に顔を拭いてあげる。そしてアントニア様から手渡された小麦粉のお菓子をアクィリアの口に供える。
「子供だから、地獄の番犬も許すだろうたった。一応、硬貨も目に乗せておきなさい。」
硬貨をアクィリアの両目に乗せると、パッラス自身が火を灯す。イーサクは香油や香科を火の中に投じる。これは死者が天国に行く間に必要な装備との事。イーサクはわざわざ敬意を表わすために火の回りを3周回り、火が燃えているなかに葡萄酒を注ぎ、パッラスに自分の髪の毛を投じるように促す。パッラスは無言で放り投げ、ジッと火を見つめていた。
「うちのカカアが今夜は泣き女だからった。」
そう言うと、イーサクの奥さんがやってきて、最初はシクシクと、徐々に激しく泣いてくれた。あまりやりすぎて、時折喉を枯らし、イーサクからギリシャ式だと咎められている。
「では…。」
火が燃え尽きると葡萄酒で完全に火を消し始める。
すっかり小さくなったアクィリアの遺骨を、イーサクは両手で優しくかきよせ、骨と灰を拾い集めて壷のなかに納める。遺骨を葡萄酒で洗い、さらに油を塗っている。
「後で石の骨壷を作るから、とりあえず、木製の骨壷にいれて置いてくれ。」
「セルテス、分かったった。」
木でできた骨壷に遺灰を入れられ、近くにあった花や花輪も添えられていた。あんなに可愛かったアクィリアは、とっても小さくなってしまった。
「イーサクさん、その奥様、本当にありがとうございました。」
「いや、イイってことった。ただ、奴隷だった子供は生まれて初めてだったから、なれないとこもあったけど。」
私達は夜明けとともに、イーサクの住む場所から離れ、馬車でゆっくりとローマ市内へ向かった。私は馬車に揺られながら、そばで骨壷を抱きかかえて歩いてるパッラスに馬車へ乗るよう勧めた。
「アグリッピナ様…。」
「今日くらいは、立場を忘れましょう。さぁアクィリアをコッチへ。」
「ありがとうございます。」
なぜか不思議だったのは、パッラスの素直な態度が、私の悲しい心も救ってくれるような気がした事。
「アグリッピナ様…アクィリアは幸せだったのでしょうか?」
「きっと幸せだったと思う。本当にあの娘は食いしん坊だったけど、頼りがいのあるパッラスお兄ちゃんと、優しいフェリックスお兄ちゃんに囲まれて、絶対に幸せだったと思う。」
「僕…これからは真面目に働きます。奴隷とか王族の末裔とか、昔の事に拘るんじゃなくて、一生懸命真面目に生きて行く事をしてみたいです。」
すると、横にいるリッラが安らかな微笑みを浮かべて話掛けてくる。
「貴方はアントニア様に飼われて幸運だったのよ。私とシッラだって元々は奴隷。でも、アントニア様ほどこのローマで奴隷に対して寛容なお方はいないわ。しっかりと働けば、それを評価してくださるのがアントニア様なんだから。それに、アグリッピナ様だって本当に優しいお方。あそこまで奴隷の為に涙を流して泣いて下さる方なんて今迄見たことなかったわ。」
朝日を浴びてるパッラスの横顔に、少しだけ元気が戻ってきた。彼はずっと遠くの明けゆく空を眺めて、心の中でアクィリアと何かの約束をしたのかもしれない。
「アグリッピナ様、本当にありがとうございます。このご恩は、絶対に一生忘れません。貴女がこれから何かあった時には必ず、このパッラスがお役に立つように助力させていただきます。」
一つの命の灯火が消える頃、一つの結束という火が灯される。これが私とパッラスの誓いの始まりだった。
続く
【ユリウス家】
<ユリア・アグリッピナ(15年-59年)>
主人公。後の暴君皇帝ネロの母。
<ゲルマニクス(紀元前15年-19年)年の差+30歳年上>
アグリッピナの父
<ウィプサニア(紀元前14年-33年)年の差+29歳年上>
アグリッピナの母
<長男ネロ(6年-31年)年の差+9歳年上>
アグリッピナから見て、一番上の兄
<次男ドルスス(7年-33年)年の差+8歳年上>
アグリッピナから見て、二番目の兄
<三男ガイウス=カリグラ(12年-41年)年の差+3歳年上>
アグリッピナから見て、三番目の兄
<次女ドルシッラ(16年-38年)年の差-1歳年下>
アグリッピナから見て、一番目の妹
<三女リウィッラ(18年-42年)年の差-3歳年下>
アグリッピナから見て、二番目の妹
【アントニウス家系 父方】
<アントニア(紀元前36年-37年)年の差+51歳年上>
アグリッピナから見て、父方の祖母
<リウィッラ・ユリア(紀元前13年-31年)年の差+28歳年上>
アグリッピナから見て、父方の叔母
<クラウディウス(紀元前10年-54年)年の差+25歳年上>
アグリッピナから見て、父方の叔父
【アントニウス家系の解放奴隷、使用人および奴隷】
<ナルキッスス(1年-54年)年の差+14歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<パッラス(1年-63年)年の差+14歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<フェリックス(12年-62年)年の差+3歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<アクィリア(17年-19年)年の差-2歳年下>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<シッラ(紀元前15年-60年)年の差+30歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<リッラ(紀元前15年-59年)年の差+30歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<クッルス(紀元前15年-59年)年の差+30歳年上>
父ゲルマニクスの親友
<セリウス(紀元前15年-60年)年の差+30歳年上>
父ゲルマニクスの親友
<セルテス(紀元前12年-63年)年の差+27歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<ぺロ(17年-30年)年の差-2歳年下>
父方の祖母アントニアの飼い犬
【クラウディウス氏族】
<リウィア大母后(紀元前58年-29年)年の差+73歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の母親。初代皇帝アウグストゥスの後妻
<ティベリウス皇帝(紀元前42年-37年)年の差+57歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の兄弟。初代皇帝アウグストゥスの養子、リウィア大母后の長男
<ドルスッス(紀元前14年-23年)年の差+29歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の兄弟の息子。二代目皇帝ティベリウスの長男
<リヴィア(5-43年)年の差+10歳年上>
アグリッピナから見て、父ゲルマニクスの妹の娘。ドルスッスの長女
【ティベリウス皇帝 関係】
<セイヤヌス(紀元前20年–31年)年の差+35歳年上>
二代目皇帝ティベリウスの右腕。親衛隊長官
<ピソ(紀元前44年-20年)年の差+59歳年上>
二代目皇帝ティベリウスの親友。シリア属州の総督。
【後のアグリッピナに関わる人物】
<ウェスタ神官長オキア(紀元前68年-29年)年の差+83歳年上>
ウェスタの巫女の長
<セネカ(紀元前1年-65年)年の差+16歳年上>
アグリッピナの盟友
<ブッルス(1年 - 62年)年の差+15歳年上>
アグリッピナの悪友
<アニケトゥス(1年 - 69年)年の差+15歳年上>
後のアグリッピナ刺殺犯