第二章「父」第五話
「お父様、ヒステール川(現ドナウ川)って、何処にあるのですか?」
「うん?ユリア。ヒステール川はな、この先をずっとずっと、北に向かうとあるのさ。」
私は夕暮れ時になると、お父様の肩に乗る事を楽しみにしてた。山のような大きな大きなお父様の肩に乗ると、まるで自分も大きくなったような気がしたから。
「あの、大きな大きな雲よりも、うんとうんと先ですか?」
「ああ、うんとうんと先にあるんだ。」
同じように、カリグラ兄さんも望んでいるの知ってたけど、私が必ず先。時々、お父様の首に抱きついて、後ろで待ってるカリグラ兄さんにベロをベーって出して勝ち誇ったりもした。
「お父様、そこはどんなところなのですか?」
「まるで海のように広くて、灘らかで、小鳥達が楽しそうに囀るような川だ。」
お父様はいつも遠くを見つめていた。そして、子供達の質問に丁寧に答えてくれた。私は、お父様と過ごす夕暮れが堪らず好きで、いっつもほっぺにキッスを三回していた。
「ユリア…。お父さんはいつだってユリア達の事を愛している。だから、お前達とこうやって一緒にいる事が、本当に嬉しくて嬉しくて堪らないのだよ。」
そう語ると、お父様はいつも瞳に涙を溜める。幼い頃から、それが嬉しくて泣いてる事が分かっているから、私は敢えて何も言わず黙ってお父様のお顔を抱き寄せる。きっと自分が一丁前にも、母親になった気だったのかもしれない。でも、お父様は何一つ嫌がる事なく、むしろ喜んで私に抱かれて涙を流す。
「お父様、大好き。」
「ありがとう、ユリア。」
それが、"ゲルマニアを征服せし者"という、個人名のプレノーメンを受け継いだ『ゲルマニクス・ユリウス・カエサル』お父様の魅力だった。
「やぁゲルマニクス。」
「うん?ピソじゃないか!どうした?まぁ上がれ!」
「ありがとう。」
「ネロ!ドルスス!ユリアを頼む。」
私はヒョイっと、お父様の肩から外されて、長男のネロお兄様に預けられる。最近、お父様がローマにお帰りになってから、あのピソという人がいつもお父様を訪問してくる。お父様はいつもの様に快く受け入れていた。
「はい、ユリア。」
「ありがとう、ネロお兄様。」
ネロお兄様は、いつも私を太腿に乗せて歩かせてくれる。そして、ドルススお兄様がお父様のお仕事の話の邪魔にならないように、庭の外で遊ぶように連れてってくれるのが定番。
「カリグラ!ユリア!こっちで駆けっこをしよう!」
「はい!ドルススお兄様!」
しかし、カリグラお兄様はさっきの仕返しと言わんばかりに、私のソレラを無理矢理奪って家の方に放り投げてしまった。
「ユリアのバーカ!」
「ガイウスお兄様!もう!」
すでにネロお兄様もドルススお兄様も、駆けっこを始められていたのでカリグラお兄様のいたずらには気づいていない。私は泣くのが癪なので、ケンケンをしながら放り投げられたソレラを探した。
「全く!本当にカリグラ兄さんは子供なんだから!もう!」
家のそばの茂みの中を探していると、ようやく裏返しになってる自分のソレラを探し当てた。
「どういう事だ!ピソ?!話が違うじゃないか?!」
私は家の台所付近から、テーブルをバンっと叩くお父様の大きな声を聞いた。
「ゲルマニクス、もう少し頭を使え。ティベリウス皇帝陛下は、何も撤退するとは命じておらんのだ。エルベ川からライン川まで部隊を移動されたいのだ。」
「それを撤退と言わずしてなんと言うのだ?!」
「だからこそゲルマニクス、お前の中東への派遣が役に立つではないか。『ローマの生きる英雄』であり、『ゲルマニアを征服せし者』であり、軍旗を二つも取り戻した男なのだぞ。」
「…。」
「今やお前の存在は、このローマ市内においてあの『黄金の鷲』をカエサル様の為に取り戻した、百人隊長であったヴォレヌス様とプッロ様の人気に匹敵する勢いなのだぞ。今、ここで小アジア遠征に行かなかったらどうするのだ?!」
「ピソ…。お前もヒスパニアの総督だったならば、若いローマ兵達にとっては時期早々である事ぐらい分からんのか?!」
「フン!」
私は自分のソレラを履くことも忘れて、ピソとお父様のお話に耳を立てしまった。
「たった軍旗を二つ取り戻したことは、栄誉でも名誉でも無い。むしろ、その軍旗を取り戻す為に一体いくらの若いローマ兵達の命と、敵達の命が奪われたと思っているんだ?!」
「それがどうしたというのだ!数は問題ではない。」
「数は…問題ではないだと…?貴様!それでも軍人か?!」
「問題なのは亡くなった命の数ではなく、如何にローマの名誉の為に命を捧げられたか?という事だ!我らローマ市民の宿命である事を、忘れてはあるまいな?!」
「忘れるわけがなかろう!」
お父様はいつになく怒ってらっしゃった。いつになく激しい怒りを眉間にシワを寄せながら、歯茎を見せて現されている。私は怖かったはずなのに何故か聞かないフリをする事や、見ないフリをする事が出来ないで震えていた。
「ティベリウス皇帝陛下は、昨年この私にシリア属州の任命をして下さった。ゲルマニクス、これがどういった意味だか分かるな?お前の手で、小アジアのカッパドキアとコマゲナを、我らローマの属州にするのだ。『我ら、ローマの為に!』」
しかし、お父様は掛け声を繰り返さず、ピソの提案を沈黙と義憤の中で拒絶した。現実主義者であるが、同時に人道主義でもある、これがお父様の本当の姿だ。
続く
【ユリウス家】
<ユリア・アグリッピナ(15年-59年)>
主人公。後の暴君皇帝ネロの母。
<ゲルマニクス(紀元前15年-19年)年の差+30歳年上>
アグリッピナの父
<ウィプサニア(紀元前14年-33年)年の差+29歳年上>
アグリッピナの母
<長男ネロ(6年-31年)年の差+9歳年上>
アグリッピナから見て、一番上の兄
<次男ドルスス(7年-33年)年の差+8歳年上>
アグリッピナから見て、二番目の兄
<三男ガイウス=カリグラ(12年-41年)年の差+3歳年上>
アグリッピナから見て、三番目の兄
<次女ドルシッラ(16年-38年)年の差-1歳年下>
アグリッピナから見て、一番目の妹
<三女リウィッラ(18年-42年)年の差-3歳年下>
アグリッピナから見て、二番目の妹
【アントニウス家系 父方】
<アントニア(紀元前36年-37年)年の差+51歳年上>
アグリッピナから見て、父方の祖母
<リウィッラ・ユリア(紀元前13年-31年)年の差+28歳年上>
アグリッピナから見て、父方の叔母
<クラウディウス(紀元前10年-54年)年の差+25歳年上>
アグリッピナから見て、父方の叔父
【アントニウス家系の解放奴隷、使用人および奴隷】
<ナルキッスス(1年-54年)年の差+14歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<パッラス(1年-63年)年の差+14歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<フェリックス(12年-62年)年の差+3歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<アクィリア(17年-19年)年の差-2歳年下>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<シッラ(紀元前15年-60年)年の差+30歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<リッラ(紀元前15年-59年)年の差+30歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<クッルス(紀元前15年-59年)年の差+30歳年上>
父ゲルマニクスの親友
<セリウス(紀元前15年-60年)年の差+30歳年上>
父ゲルマニクスの親友
<セルテス(紀元前12年-63年)年の差+27歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<ぺロ(17年-30年)年の差-2歳年下>
父方の祖母アントニアの飼い犬
【クラウディウス氏族】
<リウィア大母后(紀元前58年-29年)年の差+73歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の母親。初代皇帝アウグストゥスの後妻
<ティベリウス皇帝(紀元前42年-37年)年の差+57歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の兄弟。初代皇帝アウグストゥスの養子、リウィア大母后の長男
<ドルスッス(紀元前14年-23年)年の差+29歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の兄弟の息子。二代目皇帝ティベリウスの長男
<リヴィア(5-43年)年の差+10歳年上>
アグリッピナから見て、父ゲルマニクスの妹の娘。ドルスッスの長女
【ティベリウス皇帝 関係】
<セイヤヌス(紀元前20年–31年)年の差+35歳年上>
二代目皇帝ティベリウスの右腕。親衛隊長官
<ピソ(紀元前44年-20年)年の差+59歳年上>
二代目皇帝ティベリウスの親友。シリア属州の総督。
【後のアグリッピナに関わる人物】
<ウェスタ神官長オキア(紀元前68年-29年)年の差+83歳年上>
ウェスタの巫女の長
<セネカ(紀元前1年-65年)年の差+16歳年上>
アグリッピナの盟友
<ブッルス(1年 - 62年)年の差+15歳年上>
アグリッピナの悪友
<アニケトゥス(1年 - 69年)年の差+15歳年上>
後のアグリッピナ刺殺犯