第四章「大母后と祖母」第四十一話
「それで?」
「これ以上はクッルスやサリウス達の街の人を疑う事になるので、やめにしました。」
今日はリウィア様から、自分の生活を通して権威や威厳、寛容や畏敬を身に付ける練習を教わってる。
「うん、なかなかです。しかしその場合は"疑う"という言葉を使うではなく、"街の名誉を守る為に"と言った方がいいでしょう。」
「"名誉を守る為に"…ですか?」
「ええ。"疑う"という言葉は、あなたにとって素直な気持ちを表したのでしょうけど、何をあなたが重んじたのかを言葉で表す事がよりいっそう大切なことなのです。"疑うのはやめた"事と、彼らの"誠実さを大切にした"事があるならば、この場合、あなたが当てるべき焦点は、あなたの品位を保つ為にも後者の方にした方が良いでしょう。」
大母后リウィア様は、時折指先にぶどう酒を濡らし、机の上に世の中の縮図を描いて説明してくれた。
「アグリッピナ。この世には自分の意見と同じような人達もいれば、そうでない人達もいる。そして人は如何様にも、自分の好きなように解釈する。なれば、その中で賢く生きて行く為には、泳ぎ方を学ばなければ、己の目的に到達する事はできません。」
うーん、私はちょっとよくわからなかった。
「フフ…ちょっと難しいかしら?そうね、あなたがまだまだここへ来た頃の事を思い出せば、少しだけ分かるでしょう。」
「ここへ…来た頃ですか?」
「水に顔をつける事すら億劫だったでしょ?」
「はい、最初はとっても怖かったです。」
「それは怖いという先入観があったからでしょ?」
「はい、ありました。」
「でも、今なら息継ぎも泳ぎ方も、イデアを意識するようになって上手くなってきたわよね?それは、あなたがアクア様を理解しようとしているからです。」
確かに…。
「人と付き合うことも同じです。相手に先入観を持って接すれば、それだけ相手を理解する事が難しくなります。しかし先入観を持たずイデアを意識するように、あなたの身体に流れている氏族としての血を意識しながら相手に接すれば、自ずと相手はあなたに畏敬という念を持つはずです。」
私の体内に流れる血。氏族として受け継がれている血脈。大母后リウィア様は本当に教えるのが上手な方だと思った。なぜなら難しいお話の後に、必ず俳優のように色んな人に変身されて、状況を見事に演じてくださるから。
「例えばね?もしあなたが"疑うのはやめた"って発言して、あなたには悪意なんてこれっぽっちも無かったとしてもよ、中には、"ケッ!最初から疑ってたのかよ!"って捉える人もいるって事よ。」
「そっか…。」
「でも、あなたが"街の名誉を守る為に、この話は終わりにしましょう。"って言えば、"そっか~!さすがアグリッピナ様だ!最初から私らの事を考えてくださったんですね?すげぇやー!"って、みんな平和的に喜ぶでしょ?」
「アハハ!なるほど!」
大母后リウィア様の誰かを演じる時の顔は、とても表情が豊かで色んな人に見えてくる。意外にユーモアもあったり、モノマネが得意だったり。最初の頃の怖かったイメージからは、今ではとってもかけ離れている。
「まぁね、ここローマに住む人達は上下階級横の隔たり共にプライドの高い人ばかりで、だから一つの所に力が集中する事にはとってもアレルギーを持っているの。一つの失言が、その人の運命を左右する事だってあるのよ。自分の虚栄心を満たす為だけの行動は、いずれ多くの人々に反感をくらい、自分の命を脅かす事になりかねない。だから、感情に任せて自分を見失ってはダメ。」
どうしても感情的になりそうだった時には、目を細め、奥歯を噛み締め、自分が大理石の彫刻になった気分で、決して表情に表さないように務めること。その一方で、相手が感情的になっている時には、自ら水のように柔軟な姿勢を持って、現状の把握と自分と相手の双方に足りないものは何かを考えなさいと、今日の授業の最後に教わった。帰り仕度をしていると、今日も大母后リウィア様ご自身が微笑みを浮かべながら、わざわざ数個の桃を持ってきてくれた。
「アグリッピナ。今日もどうせインスラのそばを歩くのでしょう?」
「あ、いえ…。その。」
「フフ…。言い訳なんかしなくてイイわよ。その大きな丸い瞳は、色んな事に興味いっぱいなのだから。
くれぐれも気を付けなさい。そして、この"アウグスタの桃"は、ちゃんと同じ氏族であるあなたのお腹の中にしまうのよ。」
「はい、分かりました。」
見破られてる…。
今考えれば、大母后様は曾祖母として、本当に子供の私を大切に扱ってくれていたんだと思う。ネロお兄様とドルススお兄様が亡くなり、ウィプサニアお母様が流刑されてこの世を去った後、大母后リウィア様は残されたカリグラ兄さんや、私を含めたドルシッラとリウィッラを引き取って下さった時にも、その寛大な御心は決して揺らぐ事は無かったのだから。私はいつものように護衛兵のクッルスとサリウスに連れられて、インスラへと寄り道をした。
「ガッハッハッハ!あっしはアグリッピナ様がこの街を気に入って下さって、本当に何よりです。」
クッルスはまたも私を肩に乗り上げて、街の様子を見せてくれた。すると昨日見かけたあの蛮族が、インスラの防災通路であるポルティコから、こっちをニヤニヤ眺めている。私はおびえて震えていると、サリウスは私の異変に気付いてくれた。
「アグリッピナ様、どうなされましたか?」
続く
【ユリウス家】
<ユリア・アグリッピナ(15年-59年)>
主人公。後の暴君皇帝ネロの母。
<ゲルマニクス(紀元前15年-19年)年の差+30歳年上>
アグリッピナの父
<ウィプサニア(紀元前14年-33年)年の差+29歳年上>
アグリッピナの母
<長男ネロ(6年-31年)年の差+9歳年上>
アグリッピナから見て、一番上の兄
<次男ドルスス(7年-33年)年の差+8歳年上>
アグリッピナから見て、二番目の兄
<三男ガイウス=カリグラ(12年-41年)年の差+3歳年上>
アグリッピナから見て、三番目の兄
<次女ドルシッラ(16年-38年)年の差-1歳年下>
アグリッピナから見て、一番目の妹
<三女リウィッラ(18年-42年)年の差-3歳年下>
アグリッピナから見て、二番目の妹
【アントニウス家系 父方】
<アントニア(紀元前36年-37年)年の差+51歳年上>
アグリッピナから見て、父方の祖母
<リウィッラ・ユリア(紀元前13年-31年)年の差+28歳年上>
アグリッピナから見て、父方の叔母
<クラウディウス(紀元前10年-54年)年の差+25歳年上>
アグリッピナから見て、父方の叔父
【アントニウス家系の解放奴隷、使用人および奴隷】
<ナルキッスス(1年-54年)年の差+14歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<パッラス(1年-63年)年の差+14歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<フェリックス(12年-62年)年の差+3歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<アクィリア(17年-19年)年の差-2歳年下>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<シッラ(紀元前15年-60年)年の差+30歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<リッラ(紀元前15年-59年)年の差+30歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<クッルス(紀元前15年-59年)年の差+30歳年上>
父ゲルマニクスの親友
<セリウス(紀元前15年-60年)年の差+30歳年上>
父ゲルマニクスの親友
<セルテス(紀元前12年-63年)年の差+27歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<ぺロ(17年-30年)年の差-2歳年下>
父方の祖母アントニアの飼い犬
【クラウディウス氏族】
<リウィア大母后(紀元前58年-29年)年の差+73歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の母親。初代皇帝アウグストゥスの後妻
<ティベリウス皇帝(紀元前42年-37年)年の差+57歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の兄弟。初代皇帝アウグストゥスの養子、リウィア大母后の長男
<ドルスッス(紀元前14年-23年)年の差+29歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の兄弟の息子。二代目皇帝ティベリウスの長男
<リヴィア(5-43年)年の差+10歳年上>
アグリッピナから見て、父ゲルマニクスの妹の娘。ドルスッスの長女
【ティベリウス皇帝 関係】
<セイヤヌス(紀元前20年–31年)年の差+35歳年上>
二代目皇帝ティベリウスの右腕。親衛隊長官
<ピソ(紀元前44年-20年)年の差+59歳年上>
二代目皇帝ティベリウスの親友。シリア属州の総督。
【後のアグリッピナに関わる人物】
<ウェスタ神官長オキア(紀元前68年-29年)年の差+83歳年上>
ウェスタの巫女の長
<セネカ(紀元前1年-65年)年の差+16歳年上>
アグリッピナの盟友
<ブッルス(1年 - 62年)年の差+15歳年上>
アグリッピナの悪友
<アニケトゥス(1年 - 69年)年の差+15歳年上>
後のアグリッピナ刺殺犯