第四章「大母后と祖母」第四十話
「今度そんな不届き者がいたら、あっしが必ず捕まえてみせます!」
「ありがとう、クッルス。」
「いいえ、街の名誉に関わるのでっさ。確かにここいらはお世辞にも住み心地よい所とは言えませんが、それでも唯一安心してられるのは、やはりここに住むもの達の人情なんでっさ。」
「人情?」
「ええ、アグリッピナ様。」
「サリウス…。」
「私達平民にとって、ローマ市内に貧しくとも住める事は、これは名誉の何物でも無いのです。ですから、少なくともその名誉がある限り、我々は互いを敬い、生きていく為に大切な尊厳だけは失わないよう、互いに助けるよう務めてきたのです。」
「『人の物、盗むべからず』でっさ、アグリッピナ様。」
クッルスはウィンクをして微笑んでくれた。
「単純ですが、みんながそれを守れば、当然いがみ合いも生まれない。そして互いを尊重して信頼する事が出来る。そしてその信頼を街の人々が勝ち得たからこそ、六月のウェスタ祭りで使われるスミレやマトゥタ祭りの捧げ物は、この街で仕入れた物が使われるようになったんです。」
サリウスやクッルスはそう語ると、この街に特別な感情を示すように誇らしい眼差しで見つめていた。私はこれをきっかけに、この街の人たちと交流を続けるとになり、同時に自発的な制止の心得を、今後この街の人達を通して私は学んでいく事になる。
「分かった、クッルス…。今日の事はこれでお終いにしましょう。私もこれ以上クッルス達の街の人を疑うのは嫌だし、それに食べちゃえば、いずれ無くなる物ですしね?」
クッルスとサリウスはお互いを見つめあって笑い出した。
「アッハハハ!」
「ガッハッハッハ!さすがゲルマニクス様の長女様であられる。腹ん中入っちまえば同じでっさねー。」
シッラもリッラも一安心の様子で胸を撫で下ろしている。そして私達は小アントニア様のドムスへと帰る事にした。さっきのニヤニヤしていた青年はもういなくなっていた。もう一度振り返ると、小さな女の子がニコニコしてお兄さんと話している。きっと可愛がられているんだろうな。
「お帰りなさい、ユリアちゃん!」
「只今、アントニアお姉様。」
「宜しい!フフフ…。今日は道草してきたんだって?」
「え?!あ…。」
さすがアントニア様はローマきっての地獄耳と言われるだけあって、私がクッルスとセリウスの育ったインスラヘ道草したことが知られていた。
「私共は、本日よりアントニア様のドムスを警護する事になりました…」
「クッルスとサリウスね?どうぞいらっしゃい。」
「え、あ?はい…。」
「あなた達の話は、よく息子のゲルマニクスから聞かされてました。」
二人は平伏して頭を下げている。
「それにしても、大母后リウィア様があなた達を選んでくれて良かったわ。ユリアちゃんは幼いながらも好奇心旺盛な女の子だから、今日はきっとインスラに行くんだろうなって思ってたの。」
さすが、アントニア様…。
私の性格はすでに見抜かれている。
「サリウスとクッルスなら、ユリアちゃんをしっかり守ってくれるだろうと安心できたのよ。」
「自分達はゲルマニクス様のご友人でらっしゃる、ドルスッス様のご推薦があって、大母后様の元に務めております。」
「まぁー!さすがドルスッス様!あの方はうちのリウィッラの二番目の旦那様なのよ。」
「そうだったんですか!?さすが、アントニア様。」
「これでこの二人が我が家を護ってくれれば、心から安心ね。」
今夜からアントニア様のドムスを警護として仕える事に、二人は誇りを感じているようだった。
「イヤー、サリウスさんとクッルスさん。実は先日ある盗っ人が、中庭のそばにある井戸から水を盗んでいったのですよ。しかもアグリッピナ様がいる前で堂々と。」
門番のセルテスが事の事情を説明すると、それまで穏やかな表情だった二人は途端に険しい表情を浮かべてる。
誰にもまだ言ってないけど、私は昨日の青年と、今日の桃を盗んだ青年は同じ人だと思ってる。
「アントニア様、この中庭から…堂々とですか?」
「ええ、そうみたいね。」
「失礼致します。」
するとサリウスは マジマジと屋根や辺りを観察し、しばらくすると機敏な動きで屋根までヒョイっと登っていく。何箇所か屋根の上を歩き回り調べた後、再び中庭に降りてきては床や円柱などを丹念に調べ、指先に着いた何かを嗅いだのちに、手を払って結論を語り出した。
「年は18~9歳。男性で背はやや高め、痩身。手足は長く、瞬発力に溢れています。どうやらこの盗っ人は、毎晩南西よりやって来て、この井戸から水を盗んでいるようです。」
「ええ?!」
私達一同は驚いた。
何よりもサリウスが調べただけで、あの青年の人物像を見事言い当てたのだから。そして支柱と屋根の部分の返しを指差す。
「あそこの死角になってる返しに、足を載せて屋根に飛び乗ったのでしょう。盗っ人のものと思われる足跡が、粘土を焼いたタイルの屋根瓦粉に、いっぱい付いてありました。」
「まぁー!」
「こちらをご覧ください。」
井戸の付近まで案内された。
「ここの場所だけ、やたらと赤くないですか?」
「本当だわ。」
「これは全部屋根瓦のタイルの後です。盗っ人は一気にここまでジャンプして、付近の円柱から登って行ったのでしょう。」
アントニア様は余りにもビックリして、頭を抱えながらリッラの肩に寄りかかってる。クッルスもサリウスに続いて険しい表情で分析する。
「アウグストゥス様が防災対策として義務付けた、インスラの二階を行き来する通路のポルティコを経由して行けば、造作も無い事でしょう。」
あのニヤニヤしていた青年なら、身軽にやりそうな感じがした。
続く
【ユリウス家】
<ユリア・アグリッピナ(15年-59年)>
主人公。後の暴君皇帝ネロの母。
<ゲルマニクス(紀元前15年-19年)年の差+30歳年上>
アグリッピナの父
<ウィプサニア(紀元前14年-33年)年の差+29歳年上>
アグリッピナの母
<長男ネロ(6年-31年)年の差+9歳年上>
アグリッピナから見て、一番上の兄
<次男ドルスス(7年-33年)年の差+8歳年上>
アグリッピナから見て、二番目の兄
<三男ガイウス=カリグラ(12年-41年)年の差+3歳年上>
アグリッピナから見て、三番目の兄
<次女ドルシッラ(16年-38年)年の差-1歳年下>
アグリッピナから見て、一番目の妹
<三女リウィッラ(18年-42年)年の差-3歳年下>
アグリッピナから見て、二番目の妹
【アントニウス家系 父方】
<アントニア(紀元前36年-37年)年の差+51歳年上>
アグリッピナから見て、父方の祖母
<リウィッラ・ユリア(紀元前13年-31年)年の差+28歳年上>
アグリッピナから見て、父方の叔母
<クラウディウス(紀元前10年-54年)年の差+25歳年上>
アグリッピナから見て、父方の叔父
【アントニウス家系の解放奴隷、使用人および奴隷】
<ナルキッスス(1年-54年)年の差+14歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<パッラス(1年-63年)年の差+14歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<フェリックス(12年-62年)年の差+3歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<アクィリア(17年-19年)年の差-2歳年下>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<シッラ(紀元前15年-60年)年の差+30歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<リッラ(紀元前15年-59年)年の差+30歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<クッルス(紀元前15年-59年)年の差+30歳年上>
父ゲルマニクスの親友
<セリウス(紀元前15年-60年)年の差+30歳年上>
父ゲルマニクスの親友
<セルテス(紀元前12年-63年)年の差+27歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<ぺロ(17年-30年)年の差-2歳年下>
父方の祖母アントニアの飼い犬
【クラウディウス氏族】
<リウィア大母后(紀元前58年-29年)年の差+73歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の母親。初代皇帝アウグストゥスの後妻
<ティベリウス皇帝(紀元前42年-37年)年の差+57歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の兄弟。初代皇帝アウグストゥスの養子、リウィア大母后の長男
<ドルスッス(紀元前14年-23年)年の差+29歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の兄弟の息子。二代目皇帝ティベリウスの長男
<リヴィア(5-43年)年の差+10歳年上>
アグリッピナから見て、父ゲルマニクスの妹の娘。ドルスッスの長女
【ティベリウス皇帝 関係】
<セイヤヌス(紀元前20年–31年)年の差+35歳年上>
二代目皇帝ティベリウスの右腕。親衛隊長官
<ピソ(紀元前44年-20年)年の差+59歳年上>
二代目皇帝ティベリウスの親友。シリア属州の総督。
【後のアグリッピナに関わる人物】
<ウェスタ神官長オキア(紀元前68年-29年)年の差+83歳年上>
ウェスタの巫女の長
<セネカ(紀元前1年-65年)年の差+16歳年上>
アグリッピナの盟友
<ブッルス(1年 - 62年)年の差+15歳年上>
アグリッピナの悪友
<アニケトゥス(1年 - 69年)年の差+15歳年上>
後のアグリッピナ刺殺犯