第四章「大母后と祖母」第三十七話
リウィア様の開いている教室の中で、ギリシャ語教室は特に厳しい。水泳や体育はさほど厳しくは感じないのだが、それ以外の事に関しては本当に鬼教師と変わる。一語一句間違えれば、孔雀の羽が先に付いた小さな杖でビュウっと頭をはたかれる。
「痛っ~。」
「やり直し。」
ギリシャ語に関しては、発音、喋り方、動き方までそのフォルムと完璧さを求められ、そして勿論、丁寧に教えてはくれない。口酸っぱくいつも言われる事は、自分の血の中に流れているユリウス氏族とクラウディウス氏族を意識すれば、自然とできるはずだという事だけ。
「いい?アグリッピナ。」
「はい。」
「教養とは誰かに教わって養われるものではないのです。"誰かの教え"を、"自らの手で養う"事に意義があるのです。教えられたものに従うのは下の者達のやり方。覚えさせられた物に単調さを感じるのは責務を放棄した者達のやり方。自らで養い作り上げる事が、貴女を賢くしてくれるのです。」
自分が間違いに気がつけるまで、とことん何度もはたかれる。おかげで帰る時には髪の毛には孔雀の羽カスだらけになってる事もしばしば。でも、今考えれば、この厳しさがなければ、私はとっくに宮殿内で殺されていたと思う。
「昔のアントニアもそうだったけど、怒られるから間違えないようにしようとって思ったら駄目。怒られたら自分を全くの大理石だと思い、むしろ怒られることは、自分の身をギリシャの彫刻のように美しく削ってくれる事だと感謝しなさい。」
これは見事に当たっていた。
戦場では刀や鎧が武器や防具になるが、宮殿の者達とのやり取りの中では、完璧なフォルムと血の威厳が武器や防具となる。その為、一語や一句のミスが自分の命取りになる。リウィア様が女性地位向上にその長い生涯をかけて奮闘されたのは、女性が単なるローマ市民の添え物や子供を生む道具ではなく、ローマ国家の創立者ロムルス様がサビニ人女性を略奪した後に約束されたように、自由で重要な存在であると考えられたからだ。実のところ、リウィア様以外でこれほどまで堅実に女性地位向上を考えていた女性は、ウェスタのオキア様とアントニア様以外にはいなかった。
「宜しい…。今日はこのくらいにしましょう。」
私は内心ホッとした。だが、すぐに暴露て頭をはたかれた。うちのお母様が怒るより怖い人がいたなんて…。
「いつでも心は優美でありなさい、アグリッピナ。"心の乱れは、己の醜聞を招く"。分かりましたか?」
「はい…。」
リウィア様の教室を終えた私は、いつものように笑顔で桃を貰って、二人の護衛兵に守られながら、アントニア様のドムスへと帰る。帰路は今でも目を瞑っても覚えているくらい暗記してる。しかしこの日はどうしても、昨夜リッラやシッラ、そしてセルテスが語っていた集合住宅のインスラに行ってみたかった。護衛はこの間の盗賊の一件から、リウィア様よりアントニア様へ贈られたクッルスとサリウス。クッルスは大男で寡黙だが、サリウスは細身だがとても几帳面。
「あの…サリウス、今日はインスラのある所から帰ることはできないのですか?」
「アグリッピナ様。私共はリウィア様より、貴女様を無事にアントニア様のドムスまでお届けする命を受けております。できればお控え頂けるとありがたいのですが…。」
「でも、どんな所か一度でいいから見てみたいのです。」
「しかし、それにかなり遠回りになりますし…。」
「どうしても…駄目?」
サリウスは私のワガママに面食らっている様子。するとクッルスがギョロっと私を見て、それから初めて喋ってきた。
「アグリッピナ様、あすこは本当に危険で野蛮でっさ。それでもご覧になりたいのですっか?」
「うん…。それでも…見てみたいの。」
すると、クッルスはしばらく黙って考えてから頷いてくれた。
「分かりやっした。」
「おい、クッルス!」
「サリウス、責任はワシが持つ。」
「しかし!」
「さすがは皇族の長女様だとは思わんか?セリウス。」
「クッルス…。何かあったらどうするんだ?」
「おいセリウス。我々護衛兵にとって、守るべき主人に何かあったらではダメなのは分かっているだろう。例えどんな状況であろうとも命を賭けてお守りする。これは基本中の基本ではないか。」
「だがな…。」
「ワシたちの育ったインスラならどうだ?」
「まぁな。」
するとクッルスは私にわざわざしゃがんで語りかけてくれた。
「その代わりアグリッピナ様。行くからには、どんなことが起きるかわかりやせんので、あっしの言う事をちゃんと聞いていただけますか?」
「勿論!分かったわ。うん…お願い。」
訛りの酷い言葉だったが、その風貌からは想像できないほど優しい声だった。どこかお父様のこえににているようで。サリウスはクッルスの命で私の前を任され、クッルスは私の後ろからしっかり護衛してくれた。いつもとは違う細道を抜けて、徐々に足元の道が沼地のような野蛮な作りになってくると、それなりの酷い悪臭が私の周りを漂っている。すると、クッルスが優しく指を差して教えてくれた。
「ユリア様、あちらに見える建物がインスラです。」
「あ、あれが…インスラなのですか?」
それはとっても大きな建物で、しかも汚れていて、想像していた物はだいぶ違っていた。
続く
【ユリウス家】
<ユリア・アグリッピナ(15年-59年)>
主人公。後の暴君皇帝ネロの母。
<ゲルマニクス(紀元前15年-19年)年の差+30歳年上>
アグリッピナの父
<ウィプサニア(紀元前14年-33年)年の差+29歳年上>
アグリッピナの母
<長男ネロ(6年-31年)年の差+9歳年上>
アグリッピナから見て、一番上の兄
<次男ドルスス(7年-33年)年の差+8歳年上>
アグリッピナから見て、二番目の兄
<三男ガイウス=カリグラ(12年-41年)年の差+3歳年上>
アグリッピナから見て、三番目の兄
<次女ドルシッラ(16年-38年)年の差-1歳年下>
アグリッピナから見て、一番目の妹
<三女リウィッラ(18年-42年)年の差-3歳年下>
アグリッピナから見て、二番目の妹
【アントニウス家系 父方】
<アントニア(紀元前36年-37年)年の差+51歳年上>
アグリッピナから見て、父方の祖母
<リウィッラ・ユリア(紀元前13年-31年)年の差+28歳年上>
アグリッピナから見て、父方の叔母
<クラウディウス(紀元前10年-54年)年の差+25歳年上>
アグリッピナから見て、父方の叔父
【アントニウス家系の解放奴隷、使用人および奴隷】
<ナルキッスス(1年-54年)年の差+14歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<パッラス(1年-63年)年の差+14歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<フェリックス(12年-62年)年の差+3歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<アクィリア(17年-19年)年の差-2歳年下>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<シッラ(紀元前15年-60年)年の差+30歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<リッラ(紀元前15年-59年)年の差+30歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<クッルス(紀元前15年-59年)年の差+30歳年上>
父ゲルマニクスの親友
<セリウス(紀元前15年-60年)年の差+30歳年上>
父ゲルマニクスの親友
<セルテス(紀元前12年-63年)年の差+27歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<ぺロ(17年-30年)年の差-2歳年下>
父方の祖母アントニアの飼い犬
【クラウディウス氏族】
<リウィア大母后(紀元前58年-29年)年の差+73歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の母親。初代皇帝アウグストゥスの後妻
<ティベリウス皇帝(紀元前42年-37年)年の差+57歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の兄弟。初代皇帝アウグストゥスの養子、リウィア大母后の長男
<ドルスッス(紀元前14年-23年)年の差+29歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の兄弟の息子。二代目皇帝ティベリウスの長男
<リヴィア(5-43年)年の差+10歳年上>
アグリッピナから見て、父ゲルマニクスの妹の娘。ドルスッスの長女
【ティベリウス皇帝 関係】
<セイヤヌス(紀元前20年–31年)年の差+35歳年上>
二代目皇帝ティベリウスの右腕。親衛隊長官
<ピソ(紀元前44年-20年)年の差+59歳年上>
二代目皇帝ティベリウスの親友。シリア属州の総督。
【後のアグリッピナに関わる人物】
<ウェスタ神官長オキア(紀元前68年-29年)年の差+83歳年上>
ウェスタの巫女の長
<セネカ(紀元前1年-65年)年の差+16歳年上>
アグリッピナの盟友
<ブッルス(1年 - 62年)年の差+15歳年上>
アグリッピナの悪友
<アニケトゥス(1年 - 69年)年の差+15歳年上>
後のアグリッピナ刺殺犯