第十六章「婚前の夜明け」第三百話
「アグリッピナお姉ちゃんも?」
「うん、そうだよメッサリナ。あたしが、三才の頃かな?もう今から十年も前の話だから。あんまし覚えてないけどね」
メッサリナに嘘ついた。
決して忘れるわけがない。本当はあの頃の光景をしっかり覚えてる。アッピア街道の大きな夕陽に消えて行く、ゲルマニクスお父様の後姿を。でも、あのアクィリアと同じ声でメッサリナに聞かれると、どうしても今度こそはって思いがある。
「あたしも。あんまり覚えてない」
「そっか、それはメッサリナも寂しいよね?」
「ううん、寂しくないよ」
「どうして?」
「だって、いつもここにいるし」
自分の胸を抑えながら、メッサリナは屈託ない笑顔でまた抱きついてきた。あの頃のアクィリアが今も生きていれば、きっとこんな風に笑ってたのかも。
「大丈夫、お姉ちゃんはもう寂しくないよ」
「え?どうして?」
「だって、アグリッピナお姉ちゃん、あたしのお姉ちゃんになってくれるんだもんね?グナエウス叔父ちゃんが言ってた」
グナエウス!
そっか!あたしが嫌がってた結婚相手だ。レピダさんのお兄様が、あたしの結婚相手だったんだ。
「あら?ウィプサニアさん」
「え?レピダなの?」
ちょうど霊廟から出てきた母ウィプサニアは、レピダさんとの再会を喜んでいる。二人は主婦らしく取り留めも無い会話が大好きで、私達二人はその横で、クイズを出したり、アルテミスゲームをしたり遊んでいた。気が付くともう夕陽が差し掛かるくらいまで。
「いけない、ウィプサニアさん。あたしそろそろ帰らないと」
「あらやだ、気が付いたら、もう夕方。アグリッピナ帰りましょう」
「はい」
「ほら、メッサリナも帰るわよ」
するとメッサリナはジッと夕陽の方に目を向けている。そこには一人の馬を連れた男性が、金色と橙黄色に染まる夕陽に包まれ、ゆっくりこっちに歩いている。見間違い?え?まさか……。何度も目を凝らしても、私には見覚えのある姿だった。
「グナエウス叔父ちゃん!!」
すると、メッサリナは一目散にかけ走って、その男性の懐へと飛び込んでいく。メッサリナを抱きかかえるグナエウスの笑顔は、一瞬だけ父の優しさに似ていた。
「そう言えば、あんたはあの人が帰って来ると、誰よりも一番に駆け寄って、抱っこしてもらってたっけ」
「うん」
「あんな風に抱っこされてるあんたと、優しく微笑むあの人を見ながら、あたしはとっても幸せな気持ちでいっぱいだったのよ」
「お母様……」
何となく、母の言ってる事が理解できた。メッサリナと同じくらいの頃、父に会いたくて会いたくて何度も夕陽を眺めていたんだ。いつかあのローマを金色に輝かせる夕陽に包まれて、帰って来るんじゃないかと。でも、待てど暮らせど寂しいばかり。
今のメッサリナとグナエウスの姿を見ていると、二人は親戚同士だけど、まるで親子ぐらい離れている。ひょっとしたら、あたしはこれからもこの光景を見てるのかもしれない。グナエウスだったら、そんな寂しさを何も言わず、消し去ってくれるかもしれない。
「お母様。あたし、お母様の決めた通りにします」
「アグリッピナ。どうして?」
「だって、私、お母様の子なんですもの」
震える優しい母の細い手が、私の肩をキュッと抱きしめてくれる。寄り添う私と母。もうそこには、お互いの間に流れる溝は無く、険しい顔で見下ろす母や、ふてくされた私はいない。ただ、夕陽を浴びながら、優しく見つめてくれるあたしだけのママがいてくれた。
「アグリッピナ、ありがとう……」
抜けるような紫色の夕焼け空を見上げると、宵の明星ウェヌス様が光り輝いている。そして私はまた、きっと寂しくなるかもしれない。でも、お父様が何処かで私達を見守ってくれているはず。だって、私は…。
「お父様、私、結婚します……」
"乙女編" から"妻女編"へ
第一部『紺青のユリ』 完
そして、第二部『紺青のユリII』へ続く……。
『紺青のユリII』
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読者の皆様へ
約一年と二ヶ月の月日を掛けて、古代ローマ第五代目皇帝ネロの母親である小アグリッピナの、三歳から十三歳までの十年間の人生を、丹念に描き続ける事ができました。これは偏に、皆さんからの温かいご支持があったからこそだと思います。本当にありがとうございます。
第二部は、アグリッピナの結婚、家族や兄妹との別離、そして彼女が母親になるまでの物語になると思います。それと同時に、第一部では未解決だった密教トゥクルカとの最終対決や、変わりつつあるローマ帝国の姿など、きっと目が離せない展開が待っていることでしょう。
彼女の壮絶な人生と壮大な物語は、まだまだ始まったばかりです。歴史の表舞台へと駆け上がるユリア・アグリッピナの魅力を、少しでも多くの方々へ伝えられるよう、これからも努力していきたいと願っております。
また、ここ一年間で出会った、古代ローマファンの皆様から、多くの事を学ぶ機会を与えてくれたことに、心から深く感謝しております。
どうか今後も温かい眼差しで、アグリッピナの姿を見守ってくださいね。
では、第二部『紺青のユリⅡ』で、皆様とお会いしましょう!!
追伸 多分、僕の事だから、すぐに始まります……。