第十六章「婚前の夜明け」第二百九十八話
「私はね、ウィプサニア。もう、きっとそれ程長くはないと思うの」
「リウィア様、そんな気弱なことを、仰らないでください」
「いいのよ、そう感じるんだから。それに先に出かけたあの人に、もう一度会えるのだったら、ちょっとした婚前、いえ、"婚後"旅行じゃない?」
この人には勝てない。
愛する人に再び逢えるのなら、死さえも楽しみにしてしまうなんて。その大きな愛に、いつしか微笑んでいる母がいた。
「でも、その前に、この命を掛けてでも、やらなければならないことがあるの」
「それが、密教トゥクルカの一掃ですね?」
「ええ。子供達の未来を護る為、そして、このローマの名を消さない為にも、協力してくれるかしら?」
「当然ですよ、大母后リウィア様」
この時、母と曾祖母が決めた事が、後々の私達を救うきっかけになる。それが一体何だったのかは、それは私が結婚した後の話。
「アグリッピナ?アグリッピナはいる?」
「はい、お母様」
「ああ、そこにいたの。こっちへいらっしゃい」
「……」
母が決めた婚約に対し、私は母を殴り返してまで断固拒否していた。だから、またそのことで怒られるのかと、内心ビクついていた。
「これから、私と二人っきりで一緒に行って欲しい所があるの」
「へ?何処にですか?」
「カンプス・マルティウスよ」
カンプス・マルティウスとは、東をクウィリナリスの丘、南東をカピトリヌスの丘、西はティベリナ島付近から見事に蛇行するティベリス河に囲まれた"軍神マルスの平地"と呼ばれる場所。
首都ローマ防御用城壁である"セルウィウスの城壁"の外に位置するため、かつてはローマの郊外とされていた。だが祖父アグリッパ様が浴場やヴィルゴ水道を建築されたことで、街には活気が溢れ出し、ローマ市内が十四の区域に分けられた時には、ようやくローマ市内の一部と認定されたのだ。
「お母様、東側のローマ七区の方ですか?」
「いいえ、川沿いのローマ九区の方よ」
パラティヌスの丘から、北へ直線に伸びる道がある。かつてアウグストゥス様が、ローマの管理する街道全体の改修を実施した際、自らが改修担当した道が、このフラミニア街道。
私達二人は輿などに乗らず、番人に守られながら、真っ直ぐフラミニア街道を歩いて行った。ヴィルゴ水道を抜け、元老院から初代皇帝へ寄贈された、平和の祭壇"アラ・パキス"も左手に通り過ぎる。
「お母様、まだですか?」
「まだ先よ」
そろそろ、インスラ群の屋根から、アウグストゥス様の日時計オベリスクがひょっこり顔を出す頃には、母が私をどこへ連れて行こうとしているのか、ようやく分かってきた。かつて何度も身内を見送った場所だもの。
「あそこよ、アグリッピナ」
「はい」
そこは、私達ユリウス氏族とクラウディウス氏族の先祖が眠る"アウグストゥス霊廟"だった。
続く